礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

大川周明、上海に北一輝を訪ねる(1919)

2018-02-24 01:09:47 | コラムと名言

◎大川周明、上海に北一輝を訪ねる(1919)

 昨日の続きである。津久井龍雄の『右翼』(昭和書房、一九五二)の、二「右翼の回想」の(5)「猶存社・行地社・老壮会」から、「歴史的な上海の二日間」の節の全文を紹介する。
 節の大半は、大川周明が北一輝を回想した文章の引用である。津久井が引用しているのは、「北一輝君を憶ふ」という文章だと思うが、初出は確認はしていない。

   歴史的な上海の二日間
 満川亀太郎は北〔一輝〕や大川〔周明〕ほどに世間的に有名ではないが、深い学殖と温厚な人格とで同志の中では夙に推服されていた。そのレーニン観などは極めて卓抜なもので、俗流愛国主義者の鋳型にはまったような見解とは全く類を異にするものであった。なお大川が北を迎えに行った当時のことについて、大川自身が昨年の『改造』十一月号に書いているから、少し冗煩〈ジョウハン〉のきらいがあるが之を左に録して見ることとする。
《北君は私に二つの形見の品を遺してくれた。その一つは白の詰襟の夏服一着で、上海での私との対面の思出を籠めた贈物である。大正八年〔一九一九〕の夏のこと、当時吾々は満川亀太郎君の首唱によりて猶存社を組織し、平賀磯次郎、山田丑太郎、何盛三〈ガ・モリゾウ〉の諸君を熱心な同志として、牛込南町に本部を構へて、改造運動に心を砕いていた。そして満川君の発議により上海に居る北君を東京に迎へて、猶存社の同人にしたいといふことになり、然らば誰が上海にゆくかといふ段になつて、私が其選に当つた。此事が決ったのは大正八年八月八日であったので、満川君は甚だ縁起がよいと大いに欣んだ。決つたのは八日であるが、なるべく人目を避けて渡航するがよいといふので、適当な便船を探すために出発がおくれ、愈々肥前の唐津で乗船することとなつたのは二十日過ぎであつた。其船は天光丸といふ是亦縁起のよい名前の貨物船で北海道から鉄道枕木を積載して漢口に向ふ途中、石炭補給のために唐津に寄港するのであつた。私が唐津に着いた日は稀有の暴風で、そのため天光丸の入港が遅れ、私は不思議な夢を二度見ながら,物凄い二晩を唐津の宿屋で過した。さて愈々乗船して、まだ風波の収まらぬ海上を西に向つて進んだが、揚子江に近づいた頃、機関に故障を生じて航行が難儀になつた。本来ならば私は揚子江口の呉淞〈ゴショウ〉で上陸し、呉淞から陸路上海に往く筈であつたが、機関の故障を修繕するため、天光丸が予定を変更して上海に寄港することになつたので私は大いに助かつた。そして上陸に際して面倒がおこつた場合は、般長が私を鉄道枕木の荷主だと証言してくれる筈であつた。私の容貌風采は日本ではとても材木屋の主人といつても通るまいが上海でなら通せるだらうと思つた。併しその心配も無用であつた。
 上海で始めて北君に会ったとき、私は先づその極端に簡単な生活に驚いた。着物といへば白い詰襟の洋服一着だけ、洋服を洗濯に出した時は、痩せたからだに猿又〈サルマタ〉一つであつた。到着の晩、吾々は太陽館といふ宿屋の一室に床を並べ徹宵〈テッショウ〉語り明かし、翌日は仏〔フランス〕租界の陋巷〈ロウコウ〉にあつた北君の寓居で語り続け、北君から出来るだけ早く日本に帰るといふ約束を得て、翌朝直ちに長崎に向ふ汽船で上海を去つた。この二日は私にとりて決して忘れ難い二日であるが、それは北君にとりても同様であつたことは、後に掲げる北君の手紙を読んでも判るし、また白の詰襟の洋服を形見に遺してくれたことが最も雄弁に立証する。》

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