◎飯野吉三郎、バルチック艦隊の対馬海峡通過を予言
山下恒夫編著『聞書き猪俣浩三自伝』(思想の科学社、一九八二)から、「和製ラスプーチン、飯野吉三郎」の節を紹介している。本日はその三回目。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。
そこで、飯野吉三郎の履歴となるのだが、多少、ウロン〔胡乱〕な代物【しろもの】となるのは避けがたい。だいたい、神様ともなるような人間は、自己の経歴をくらましたがるのが通例だ。中味が判明すれば、存外、幽霊の正体みたり枯れ尾花にも、なりかねないからではなかろうか。
飯野の出生地は、岐阜県恵那郡岩村町〈イワムラチョウ〉。彼の父親は、美濃三万石岩村藩の藩士だったという。別に、寺に生まれたとする説もあるようだ。同じ岩村藩士の娘として、生いたったのが下田歌子で、この偶然の関係が、のちに、飯野が宮中にコネをうる機縁ともなる。
二十歳頃に上京した飯野は、同郷のよしみを頼って、後年の陸軍大将大島健一の下宿先にころがりこみ、居候【いそうろう】をきめこんだ。そのころの大島は、まだ陸軍中尉であったそうだ。飯野はそこから夜学に通い、築地にあった私立小学校で、一時は教鞭をとったこともあった。その時の教え子には、二代目市川左団次、画家の鏑木清方【かぶらぎきよかた】がいたという。
その後、東京を離れた飯野は、行者となるべく、種々の荒修行に励んだとのことだ。明治二十年代に再上京した飯野は、麹町平河町で易者稼業をはじめた。やがて、同郷の先輩大島健一の伝手【つて】で、陸軍大将児玉源太郎にとりいったのが、飯野が出世をつかむきっかけとなった。飯野は陸軍内部に、多くの信者をもつようになっていった。同時に、権命婦【ごんのみようぶ】の位をさずけられ、宮中内に勢力をのばしていた下田歌子を通じて、名家の子女に接近。ここでも、信者獲得に熱をいれた。飯野は、名家の子女の勧誘にあたっては、高価な呉服物を贈品に用い、もっぱらその歓心をかうやり方であったという。
明治二十八年〔一八九五〕に、飯野は白木屋から大量の反物を購入したが、代金を支払わなかった。かえって、催促にきた手代を監禁の上、抜刀をもって脅迫。すぐに恐喝罪で逮捕され、懲役三年の刑をうけて下獄した。娑婆【しやば】に戻り、しばらくは鳴りをひそめていた飯野は、ほとぼりのさめた明治三十六年〔一九〇三〕春、新たに日本精神団を組織して、ふたたび布教生活にはいった。
翌年〔一九〇四〕、日露戦争が勃発。飯野はすぐさま、満州へと飛んだ。そして、時の参謀総長児玉源太郎の幕下にはせさんじ、戦勝祈願に精をだした。児玉は非常に感激し、飯野の声望は大いにあがったという。これは、どうせホラ話なのだろうが、飯野はバルチック艦隊の対馬海峡通過を予言。凱旋した東郷平八郎より、感謝の言葉をもらったという挿話も伝わっている。戦地における飯野の怪行者ぶりは、なかなかのものだったようだ。かたわら、児玉からは、酒保などの利権をもらい、巨額の金をもうけたともいわれている。
日露戦争後の飯野は、カリスマ性も備わり、順風万帆〈ジュンプウマンパン〉の発展をつづけた。児玉の紹介で、伊藤博文、山県有朋、寺内正毅〈テラウチ・マサタケ〉、田中義一〈ギイチ〉ら、長州閥の大物に顔を売りこむ。さらに、児玉の台湾総督時代、その下で民政長官を勅めた後藤新平も、飯野の怪行者ぶりに魅せられた一人だった。飯野は後藤新平を通じて、実業界にも進出。司法畑にすら、知己をつくっていった。前に述べた大逆事件の通報者役を、飯野がやったのは、この時期のことになるわけである。
飯野の組織した日本精神団には、河野広中〈コウノ・ヒロナカ〉、後藤新平、大井憲太郎、押川方義〈オシカタ・マサヨシ〉、三宅雪嶺、巌本善治〈イワモト・ヨシハル〉、青山胤通〈タネミチ〉らの各界名士が連なり、最盛期には、二万人の団員数を誇ったという。芸能界にも飯野の触手はのび、浪曲の桃中軒雲右衛門〈トウチュウケン・クモエモン〉、新国劇の沢田正二郎〈ショウジロウ〉とも親交を結んだ。飯野が元陸軍主計総監の外松孫太郎〈トマツ・マゴタロウ〉を信者の一人にして、娘と屋敷を手にいれたのは、その時分のことでもあった。なにはともあれ、当時の飯野吉三郎の人心収攬【しゆうらん】術は、まさに神様と称されるほどに、冴えわたっていたことがわかろう。【以下、次回】
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