◎『日本文学大辞典』(1932~1935)と佐藤義亮
百目鬼恭三郎著『新潮社八十年小史』(新潮社、一九七六)から、「Ⅱ 文芸出版の八十年」を紹介している。一昨日および昨日は、最初の項である「出世作を出版」を紹介した。「Ⅱ」は、そのあとに、「伝統の書き下ろし」、「著者と編集者」の各項が続くが、これらの紹介は割愛し、最後の項「『日本文学大辞典』」を紹介してみたい。
『日本文学大辞典』 『日本文学大辞典』は、東大教授藤村作〈フジムラ・ツクル〉の発案によるもので、藤村は昭和二年〔一九二七〕冬、東大国語・国文学研究室の同僚の賛同を得た上で、新潮社に協力を求めてきた。そのころ佐藤〔義亮〕は「国家の御恩に酬いる」ような「どうしても国家に無ければならぬもので、しかも人の容易にやろうとしない、全くの犠牲的出版」を考えていたから、この相談をうけると、喜んであっさり引きうけた。社内で検討してみると、五万円は損をするだろうという者と、十万円の損になろうという二説に分れたという。最初から莫大な損を覚悟しての出版事業であったが、当時の新潮社は、『世界文学全集』の成功によって稀有〈ケウ〉の好況状態にあったから、このような犠牲的な出版も引きうけられたのである。
編纂の仕事は昭和三年〔一九二八〕一月から始められ、三年後の昭和六年〔一九三一〕四月になって、ようやく第一巻の校正が始まった。佐藤は自ら第一巻の校正を引きうけ、毎朝午前四時に起きると、午前中一杯はこれに没頭し、大晦日も元日も休まなかったという。経済的な奉仕ばかりでなく、肉体的な奉仕もしなければ気が済まないというところに、佐藤のいかにも明治人らしい気質がうかがわれる。校了は一年二カ月後の昭和七年〔一九三二〕五月末で、本が出来上ったのは、同年六月である。「第一巻が着手以来五年ぶりでやっと出来あがった時の嬉しさは、今に忘れられない(これは私が工夫して新鋳したものである)のぎっしり詰まった版のどこを開いても、自分が二度や三度読まなかったところがない。こんなに苦心したものは、出版四十年、はじめてといってよいのである。それが出来あがった時の感じは、この仕事で苦しんだ人でなければわかってもらえないであろう」と、佐藤は『出版おもいで話』に書いている。
おそらく、佐藤はこの時、出版者冥利に尽きる幸福の絶頂にいたであろう。しかし、それからわずか二月後には、大衆雑誌『日の出』の創刊号が惨憺たる失敗に終わり、以後、『日の出』を抱えての長い苦難の時代が続くのである。その中で『日本文学大辞典』の刊行は続けられ、昭和十年〔一九三五〕四月に全巻が完成した。三巻と別巻一巻をあわせて総ページ数は三千五百ぺージ。執筆者は百人を超える画期的な大辞典である。