◎「あおい」という署名が末尾に付されていた(猪俣浩三)
山下恒夫編著『聞書き猪俣浩三自伝』(思想の科学社、一九八二)から、「和製ラスプーチン、飯野吉三郎」の節を紹介している。本日はその五回目(最後)。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。
先の恐喝事件〔陸軍御用商人・並木某への恐喝・傷害事件〕に触れて、飯野自身がいくつかのエピソードを、私に話してくれたことがある。当時の法相だった江木翼が、徹底的な検挙方針を命じたのだと、飯野はいっていた。日本全国の検察庁、警察はもとより、朝鮮や樺太の警察にまで総動員をかけ、飯野に関するスキャンダルは、全部申告せよと号令した。あの時は、本当に虐め〈イジメ〉られましたよ。そういって飯野は、こりごりしたとばかりに、しきりに頭をかいておった。
また、飯野が病気をたてに出頭に応じないので、業〈ゴウ〉をにやした予審判事は、取調べのため〝隠田御殿〟に出張してきた。飯野は部屋の中央に机をおき、そこに貞明皇太后直筆の書簡を、広げておいたのだそうだ。そんな仕掛けがあるとは露しらぬ予審判事は、机の横を素通りして進んだ。とたんに、神様が大声で一喝した。ハカ者、そのものをなんと心える。畏【かしこ】くも皇后陛下のご芳書なるぞ。敬礼して通れ! 不意をつかれた予審判事は、ヘーッとたちまち平状した。ど胆〈ドギモ〉をぬかれた予審判事は、当初の意気ごみはどこへやら、早々に取調べをすませ、逃げるように帰ってしまったのだという。
私はどうせ、神様一流のホラ話だろうと思って、その書簡をみせてくれるように頼んだ。すると、飯野がうやうやしく運んできたものは、まぎれもない本物だった。現天皇〔昭和天皇〕が皇太子時代に書かれた手紙で、その教育方針を、飯野に諮問【しもん】した内容が綴られてあった。あおいという署名が、末尾に付されていたのを覚えている。
私はこの手紙を一見するにおよんで、飯野のすご腕を認めざるをえないと思った。貞明皇太后は、賢明な女性だと伝えられていた。その皇太后にして、かかる深みにまではまっていたのかと。私は飯野吉三郎が、和製ラスプーチンの名に恥じないことを、あらためて、納得させられたわけだ。
それから、飯野の屋敷内には、いわくありげな古井戸があった。で、その中には、斬り殺された男の死体が沈んでいる。そういう噂話が、世間に流れていた。私は一度、その真偽のほどを、飯野に直接聞きただしたことがある。悪い奴がいたんだよ、と飯野は語りはじめた。懇意にしているある銀行に、飯野が大金を預金したところ、翌日になって、その銀行は破産してしまった。飯野は、大金をフイにしちまったわけだ。これでは、神様が怒ったのも無理からぬ。飯野は、大金を手わたした銀行の支配人をよびつけ、その非を強く詰問した。だが、さっぱりらちがあかない。激怒した飯野は、支配人の襟首をつかみ、古井戸のところまで引きずっていった。そこで、日本刀をぬき半殺しの目にあわせたというのが、事の真相だったというんだな。いくら私だって、人殺しはしませんよ。そういって、飯野は苦笑をもらしておった。
私は予言者をもって任じている飯野が、銀行の次の日の破産すらみぬけなかったのかと。なんともうなずけない気持がし、おかしくてならなかった。おそらく〝隠田の神様〟も、しょせんは人の子で、後生大事〈ゴショウダイジ〉な金子〈キンス〉の件とあっては、欲の皮だけがつっぱりすぎた。それゆえ、さすがのご霊感も、すっかりにぶってしまわれたのだろう。
飯野が全盛時代の話だが、神様を全然、よせつけなかった男が二人いたとのことだ。それは、西園寺公望と山本権兵衛だった。飯野のご託宣というのは、斎戒沐浴〈サイカイモクヨク〉して神殿にこもり、まずは精神を統一する。それから、霊感が浮かんでくるまで、墨で文字を書きつづける。ある人物に会おうとする場合には、その人間の名前を、千枚も二千枚も書く。そうすると、なにやらモヤモヤとした霊感が、しだいに生じてくる。そこで、霊感のままに筆を走らせると、神のお告げの言葉が、紙の上に書かれているというのだ。
山本権兵衛のところへも、飯野はそれ相応の努力をして赴いた。山本に面接して、自分の神棣から、貴下にぜひ会うようにとのお告げがありました。そう飯野は、おごそかにのたまわった。と、山本曰く。おれの腹の中の神様のお告げによると、ほかの神様は信じてもよいが、かの〝隠田の神様〟だけは、絶対に信心するなといっておる。これには、飯野もギャフンとまいり、かえす言葉がなかったそうだ。
飯野吉三郎には、実は糟糠【そうこう】の妻がいた。名前は通称を鈴木げんといい、本名は康子【やすこ】といった。飯野より十【とう】ほど歳下だったが、まことに見識のある女性であった。師範学校出で、教師をしたこともあるらしく、飯野よりはずっと教養も高かった。飯野があれほどの一家を張れたのも、鈴木康子の内助のお陰だった。そう私などは思っているくらいだ。私の家内とは大変に親しくなって、その手紙が、いまでも家に残っている。これは見事な達筆だ。飯野は法律などは少しもかまわぬ男だったから、康子は内縁のままにおかれていた。例の外松〈トマツ〉男爵令嬢との結婚話がもちあがった際、康子は飯野の出世のためならばと、快く身を引いたとの話だ。
私が飯野と交際があった時分には、正妻の末野は病気だとのことで、一度も顔をあわせなかった。飯野は若い妾をはべらせておって、その女は、私の郷里の隣り村の出身だった。飯野と鈴木康子との間に生まれた娘がいて、きれいな娘であった。この娘は母親ゆずりの利発な女性で、飯野の訪問客の応待役にあたっていたようである。ある時、飯野が私にいうには、あれを、君の二号にしてはどうかと。どうせ冗談半分だったのだろうが、私は驚くよりも、あっけにとられてしまった。といった発言からもわかるように、飯野吉三郎の女性関係は、好色というよりも乱倫といってよかった。正妻の子をふくめて、飯野には、二十人近い子供がいたとの話である。
このほかに、有名人士のいわゆる不倫の子を、飯野は相当数、自分の養子にして引きとっておったという。つまり、〝隠田の神様〟は、そうした上流階級のスキャンダルの、いわば尻拭い役をうけもっていたものといえる。むろん、これもまた、飯野の黒幕としての力の一つに、なっていたのだろう。
昭和七、八年〔一九三二、一九三三〕を境にして、べつだん喧嘩別れをしたわけでもないのに、私と飯野吉三郎との間は疎遠になってしまった。なんでも、戦時中の〝隠田の神様〟は、日本精神団の寥【りよう】々たる残党を率いて、軍部のお先棒を担いでいたそうだ。けれども、昔日の面影は、もはやまるでなかったらしい。昭和二十年〔一九四五〕、敗戦を目の前にして、飯野は死んだという。その直後、B29の絨毯【じゆうたん】爆撃で、宏壮な〝隠田御殿〟も灰燼【かいじん】と化したとの由だ。
思えば、飯野吉三郎との関係は、不思議なめぐりあわせだったといえよう。私も長い弁護士生活と政治家生活の中で、それなりには、さまざまな人間をみてきたつもりだ。しかし、飯野吉三郎ほどの奇人には、今後とも出会うことはないと思っている。
飯野吉三郎という怪人物に、直接、接触していた人物の証言というのは、そう多くないだろう。その意味でも、猪俣浩三からの、この「聞書き」は貴重である。
なお、この「聞書き」には、田中光顕の名前が出てこない。田中光顕と飯野吉三郎とは、どのような関係にあったのだろうか。
これは、よく調べてみた上で言うべきことだが、田中光顕がスキャンダルをきっかけに宮廷を退いたあとに、飯野吉三郎が登場し、飯野が失脚したあたりから、田中光顕の政治的言動が目立つようになった――という流れが、一応、指摘できるのではないか。明日は、いったん、話題を変える。