◎優れた文学者とは、優れた文章を書く人
昨日の続きである。百目鬼恭三郎著『新潮社八十年小史』(新潮社、一九七六)を紹介している。本日は、その二回目。昨日、紹介した「『新声』創刊」の節のあと、次のように続く。
佐藤義亮の姿勢 『新声』第一号に載った作品の大半は、実は、佐藤が一人で書いたといわれているが、いま、目を通してみて、その幅の広さには驚かされる。
たとえば、天籟【てんらい】という筆名で書いている「不平論」は、不平があってこそ人間に進歩があると説く、年齢不相応にわけ知りの人生論である。かと思うと、石丸紫水の名で発表している「今日の青年」は、いまの青年は無気力か軽薄かで、社会を革新するという青年の本分を忘れていると叫ぶ、若々しい社会批評となつている。また、嘯月【しようげつ】生「過去及現在」は、一種の国権論であり、こうした論文は、今日の分類では、およそ文学の範疇【はんちゆう】には属さないであろう。が、当時は、これも文学だったのである。
むろん、文学らしい文学もある。堀重里「露のよすが」という短編小説や、当時「美文」と呼ばれた散文詩的な形式の作品「故端斎先生の御墓に詣づ」。あるいは新体詩、旧派調の短歌。さらには、漢詩の復興を提唱した評論「青年詩人の奮起を促す」など、これらもすべて佐藤一人の仕事なのである。
このように多岐雑多な文学表現活動は、その作者の抱いている文学観が、まだ総合・未分化の状態である事を物語っている。そしてこの総合的な文学観が、当時の教養の基礎となっている漢文学に由来する事は、いうまでもあるまい。漢文学では、政治文書である表や、事実の記録である記、書簡、墓碑、といった実用を目的とする文章をも、文学とみなす風がある。つまり、ここでは文学は、実用・非実用といった用途別、あるいは小説・記録といった形式によって区分されるのではなく、それが上手に表現されているかどうかによって、文学と非文学とに選別されるのである。
従って、佐藤にとっては、人生論や国権論も、それが上手に表現されている限りでは、詩や小説とおなじに文学であった。いいかえると、自己の思想を的確に表現することが、文学なのである。それなら、優れた文学者とは、優れた文章を書く人なのであり、文学の修行は、文章を鍛錬する事に尽きる。この時代に簇生【そうせい】した投書雑誌は、何よりもまず、文章鍛錬の場として存在したものなのである。
また、文章を練るという事は、自分の思想の深化に役立つという効能のある事も、見落してはならないだろう。その意味では、文学は人間の修養の手段なのである。ともあれ、『新声』が新しい文学を標榜【ひようぼう】しながら、実際には、こうした旧文学の総合性、功利性という性格を残した雑誌であった事は、興味深い。なぜなら、この性格は、その後もずっと佐藤の出版に対する姿勢を規定し続けたし、さらには、今日の新潮社の性格にもつながっているように思われるからである。
「優れた文学者とは、優れた文章を書く人」というのが佐藤義亮の文学観であり、こうした文学観は「漢文学に由来する」に由来するという視点は、きわめて興味深かった。この視点は、百目鬼恭三郎のオリジナルなのであろうが、あるいは百目鬼以前に、そういう視点を提示していた論者がいたのかもしれない。