◎佐藤義亮は常に何手か先を読む編集者だった
百目鬼恭三郎著『新潮社八十年小史』(新潮社、一九七六)から、「Ⅱ 文芸出版の八十年」の最初のところを紹介している。本日は、その二回目。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。
佐藤〔義亮〕は、常に何手か先を読む型の編集者であったようだ。それは、田山花袋『ふる郷』の出版によく現われている。明治三十二年〔一八九九〕ごろの花袋は、「日光山の奥」などの紀行文の作家としては知られていたが、小説家としてははなはだ不評であった。しかし、佐藤は早くから花袋の資質に着目していたようで、本格的に出版に乗り出すとすぐ、牛込喜久井町の花袋の家を訪ねて、故郷を題材にした長編小説を書き下ろすよう依頼している。この「故郷を題材にした長編小説」というところに、編集者としての読みの深さがよく出ており、かえって花袋のほうが「君、大丈夫ですか、僕のものを出して損をしたら困りはしませんか」と、とまどったようだ。そして、
【一行アキ】
私は一生懸命で書かうと思つた。兎に角〈トニカク〉一冊の本になる。それが嬉しいと共に、単に「紀行文」の作家として鼻であしらつてゐられる汚名をすゝぎたいと思つた。(中略)前の畑には母親の栽【う】ゑた玉蜀黍【とうもろこし】の畠がガサガサと風に靡いてゐる。母親は不治の病の床に臥してゐる。で妻は下の家に看護に行つてゐる午前を、私はせつせと筆を執つた。(『東京の三十年』)
【一行アキ】
という張りつめた気持で書き下ろし、明治三十二年九月二日に発行された『ふる郷』は、佐藤の見込み通り評判がよく、増刷を重ね(明治三十四年十月には八版が出ている)、花袋に小説家としての自信をつけさせた出世作となったのである。
以来、最初の著書、出世作を新潮社から出版した作家は数多い。たとえば、久米正雄『手品師』(大正7年)、葛西善蔵『子をつれて』(大正8年)、室生犀星〈ムロウ・サイセイ〉『性に眼覚める頃』(大正9年)、牧野信一『父を売る子』(大正13年)、嘉村礒多〈カムラ・イソタ〉『崖の下』(昭和5年)、井伏鱒二〈イブセ・マスジ〉『夜ふけと梅の花』(昭和5年)などは、いずれも処女創作集であるし、徳田秋声『新世帯〈アラジョタイ〉』(明治42年)、菊池寛『無名作家の日記』(大正7年)、広津和郎〈ヒロツ・カズオ〉『神経病時代』(大正7年)、佐藤春夫『田園の憂鬱』(大正8年)、山本有三『生命の冠〈カンムリ〉』(大正9年)、伊藤整『馬喰〈バクロウ〉の果〈ハテ〉』(昭和12年)、高見順『如何年なる星の下〈モト〉に』(昭和15年)などは、ことに注目すべき出世作であるように思われる。
この事は、佐藤の目のよさと同時に、生来の新人作家好きを物語るものであろう。佐藤春夫は、『田園の憂欝』を出したころ、義亮が「自分は田舎者で、芝居や相撲に入れあげる人の心は理解できない。それよりも、青年文士諸君が赤裸々に力を戦わせて生き、その成績によって番付を上下する様のほうが、相撲よりずっとすばらしい見ものに思える」と語るのを聞いたという。また、広津和郎は、ちよくちよく新潮社を訪ねて佐藤義亮と雑談しているうち、着物を新調しては質屋に預けるという近松秋江〈チカマツ・シュウコウ〉の奇癖を聞かされ、それを宇野浩二に話したことから名作『蔵の中』が生まれた、という逸話もおなじころのことである。義亮の新人好きが、間接的にではあるが、宇野浩二を世に出すきっかけを作ったわけだ。
戦後についてはまだ記憶に新しい事なので、一々列記するのを控えたいが、阿川弘之、福永武彦、吉行淳之介、幸田文〈コウダ・アヤ〉、石原慎太郎、北杜夫、辻邦生〈ツジ・クニオ〉といった人たちは、いずれも出世作を新潮社から出版し、その後も深い関係を保っている作家である。とりわけ、石原の処女作品集『太陽の季節』(昭和31年〔一九五六〕)は、風俗革命とでもいうべき衝撃を世間に与えたが、この表題作はもともと前年の七月に文学界新人賞を受賞して『文学界』に掲載されたのを、新潮社の編集者が読んですぐ電報を打ち、当時一橋大学生だった作者を社に呼んで、出版の許諾を得たという。こういう新しい、しかも将来性のたしかな作家を見つけ出すカンは、新潮社の伝統のしからしむるところらしい。