礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

二・二六事件の経過(古谷綱正執筆)

2019-04-29 03:10:11 | コラムと名言

◎二・二六事件の経過(古谷綱正執筆)

 本年三月二八日および二九日、古谷綱正解説『北一輝「日本改造法案」』(鱒書房、一九七一)の解説〝二・二六事件と「日本改造法案」〟から、「二・二六事件と私」の節を紹介した。この解説は、この節のあとに、「二・二六事件の経過」という節が続く。本日は、これを紹介してみたい。この節はかなり長いので、数回に分けて紹介する。

  二・二六事件の経過

 二・二六事件はどうして起ったか、そしてその経過をざっとふりかえってみよう。
 当時の陸軍中央部は、林銑十郎陸相を補佐して軍政を推進する永田鉄山軍務局長が中核となり、これに中堅層の幕僚佐官級将校がつながって統制派と称せられていた。この中には当時の第二十四旅団長東条英機少将も加わっている。一方、十一月事件で免官となった村中孝次、磯部浅一(いずれも大尉)を中心に、在東京部隊の隊付〈タイヅキ〉下級将校(青年将校といわれる)たちは、荒木貞夫、真崎甚三郎両大将らをかついで、皇道派と称して、統制派と対立していた。(この皇道派の指導理論が北一輝の「日本改造法案大綱」なのだが、その点はあとでふれる。)このほか、荒木、真崎に反感を持ち、その排撃運動を起していた橋本欣五郎大佐ら、清軍派といわれる一派もあったが、これは統制派と共同戦線を張っていた。
 一九三五年(二・二六事件の前年)八月の定期異動の直前、真崎教育総監が更迭され、渡辺錠太郎大将がその後任となった。真崎は最後まで、強硬に拒否したが、林陸相は上奏御裁可を仰いで、これを強行した。陸軍の人事は、陸軍大臣、参謀総長、教育総監のいわゆる三長官できめられるのが慣例だったので、皇道派は、この更迭は「統帥権の干犯〈カンパン〉である」と攻撃した。そして、この人事は林陸相よりも、永田軍務局長のやったことだといわれた。
 八月定期異動が発表されたあと、八月十二日の朝、永田軍務局長が陸軍省で執務中、相沢三郎という中佐に軍刀で斬殺された。相沢は福山歩兵第四十一連隊付だったが、八月異動で、台湾歩兵一連隊付となっていた。赴任直前の犯行であった。相沢は、六年ほど前から村中、磯部らと同志的なつきあいがあった。東京在勤のときは、真崎大将の家にも出入りしていた。真崎の更迭問題ではひどく憤慨し、陸軍省に出かけて永田に会って、その辞職を迫ったこともあった。
 相沢は軍法会議にかけられ、翌一九三六年の一月十八日から公判が開かれた。弁護人は貴族院議員の鵜沢総明〈ウザワ・フサアキ〉と皇道派と関係の深い満井佐吉中佐である。皇道派は、この公判闘争に力をそそレだ。北一輝とともに、皇道派の理論的指導者であった西田税〈ニシダ・ミツギ〉(士官学校第三十四期で、病気のため騎兵少尉で退官した)は「現在は相沢公判一本槍で行くべきで、公判を有利にすることによって情勢も熟するし、うまくいけば自分たちの希望する国家改造も、ある程度は実現できる」と主張していた。村中孝次、磯部浅一も、相沢公判に関する文書戦に従っていた。
 二月もなかばを過ぎ、相沢公判もすでに八回を重ねた。弁護人の申請した証人調べは、橋本〔虎之助〕前陸軍次官、林前陸相の喚問が終り、問題の真崎大将の喚問が迫っていた。一方、殺された永田中将の同期生たちは、公判廷では永田中将の人格や功績が無視され、誹謗されているとして、別の証人申請を行なって、まき返しに出た。相沢公判をめぐる陸軍部内の対立抗争は、緊迫したものになっていた。
 こうした情勢の中で、皇道派青年将校たちの間には、このままでは自分たちの勢力はますます押しこめられ、陸軍は統制派の思うままになるといったいらだちが強くなっていた。実力をもって、これを打破しなければならないと、その謀議も着々と進んでいた。このような空気の中で、その年の初め、第一師団の満洲派遣が決定された。第一師団には、皇道派青年将校が多くいて、いわばその本拠であった。自分たちが満洲に行ってしまえば、もう蹶起の機会はなくなる。相沢公判を利用する宣伝活動にも限界がある。急がねばならない。こうして、蹶起の日が二月二十六日に決定された。【以下、次回】

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