◎これを我輩に一万両で譲つてくれぬか(伊藤博文)
国民新聞編輯局編『伊藤博文公』(啓成社、一九三〇年一月)から、渋沢栄一の「辱知四十年の回顧」という文章を紹介している。本日は、その七回目(最後)で、「十一、公と私との大衝突」と「十二、回顧四十年の夢」を紹介する。
十一、公と私との大衝突
或る日の事でしたが、公の霊南坂邸から電話があつて、私に一寸来て呉れぬかと云ふので、お訪ねすると、間もなく晩餐になり、卓を共にして色々話して居る内に、又しても話は政党組織の事に落ちました。その内に公はいきなり筆を執つて巻紙にすらすらと何か書いて、君の意見はこれに相違あるまいと云はれました。此の書は遺墨展覧会にも出品せられ程ですから、諸君も定めし御覧になられた事と存じます。
あの書を書かれて、これに相違なければ署名せよと云はれたので、私は直ぐ署名しました。すると愈々起つて立憲政友会を組織する事になり、私にも入党せよと云はれたから、私は賛成はするが入党は出来ぬとお断りした。公は大変な立腹で、渋沢と云ふ男はひどい男だ、自分に政党組織を勧めて置きながらいざとなると逃げを打つなんて余りに友情がない、かう云つて大変に立腹された、それで私は去る明治五年〔一八七二〕に意を決して政治界を離れた時からの覚悟を詳しく述べて、私は決して逃げ口上を云ふのではない、同意と仲間とは別問題だ、私には是非ともせねばならぬ実際問題がある。私不肖なりと雖も、政党に入る以上は、屑々〈セツセツ〉たる一陣笠にはなりたくない、さすれば何かの機会には、当然の結果として政治の当面に立たねばならぬ事が生じて来るに相違ない、恁うなると私が幾十年の決心も覚悟も皆覆されて了ふ、のみならず私が銀行業を始めたに就ては、株主に誓つた言葉もあるから、自分の一存でこれを反故〈ホゴ〉にする事は男として出来ぬ。かう云つてお断りしたが公の立腹は容易に解けませんでした。それで私は井上〔馨〕侯に詳しく事情を訴へると、侯は私の立場を能く了解されて、其の後伊藤公にも話されたものでせう、私と公との間は矢張り昔の通りの親密に返りました。
十二、回顧四十年の夢
公は至つて負け嫌ひの人で、岩倉〔具視〕大使一行と共に米国から帰られた頃、一寸大久保〔利通〕公から睨まれた事がありました。その頃井上侯は大久保の下に大輔で、私はその下に居りましたが、公は大阪に転任を命ぜられたのです。廃藩置県の当時で、政府は大多忙の時でしたが、公は大阪から私に書面を送られて、君等〈キミラ〉は大そう忙しさうに得々然として居て、僕の境遇に同情せず、慰めても呉れぬのはヒドイと愚痴をこぼされた事がありました。後年この書面を公にお目に掛けると、流石に撫然として今昔の感に堪へぬと云ふ御様子でしたが、これを我輩に譲つてくれぬか、一万両出すと云はれました。いや十万が百万でもお譲りは出来ぬと笑ひましたが、此の書面も大震災の為め焼失して了ひました。
私が渡米実業団と共に渡米して、ウースター〔Worcester〕に到着した日に、公がハルビン駅頭で遭難されたと云ふ電報に接しましたが、他郷の客舎に此の報を得て、過ぎ去つた四十年に亘る交誼の跡をそれからそれと思ひ起し、実に何とも云へぬ悲痛の感を抱いて一夜を明かしました様な次第であります。段々お話すると際限もありませんからこの辺で終りと致します。