◎東京市水道鉄管問題と渋沢栄一
土屋喬雄著『渋沢栄一伝』(改造社、一九三一)から、別篇の二「日本資本主義の父渋沢栄一の政治経済思想」を紹介している。本日は、その四回目。「(二)国家と人民――公利と私利」の後半部分を紹介する。『 』内は、渋沢栄一の発言である。
かゝる資本主義的理解は又彼を安価な国産愛用主義者から区別してゐたところのものである。明治二十五年〔一八九二〕の頃東京市は六百五十万円の費用を投じて市水道改良を計画したので、こゝに其水道用鉄管は内国製を用ふべきか、外国製を用ふべきかに就いて朝野に一大論議が捲き起された。当時市参事会員であつた渋沢は多年瓦斯業【ガスげふ】を経営し、鉄管の製造をなしたる経験から、我国の技術は未だ大鉄管製造には不充分であることを熟知してゐたので、外国製鉄管使用の刺益を虫腿レ、此の際新に製造場を建て新【あらた】に技師職工を集皸めて直ちに多年経験ある外国鋳鉄業と競争をなすことは、結果に於て国家に益なく資本を徒費するものであることを論じ、寧ろ簡易なる瓦斯管【ガスくわん】の如きものから始め技師職工の養成に努むべきことを説いた。然るに内国製使用を主張するものは、我国近年工業の発展は充分に鉄管製造に堪ゆることを主張し、遂には国民の愛国的熱情を煽【あふ】つて外国製使用の利を説く者は外国人と結托して私利を営まんとする奸物であるとの風評を流布し、或は演説により或は新聞紙により渋沢等【ら】に対して痛烈なる攻撃の矢を放つた。
明治二十五年〔一八九二〕十二月十一日渋沢は侯爵伊逹宗城【だてむねぎ】の病篤きを聞き、侯を今戸の邸に訪【と】はんとし、馬車に乗じて兜町【かぶとちやう】の宅を出て兜橋にさしかゝつた。この時兇徒二人左右より躍り出【い】でて馬足を斬払【きりはら】ひ、直ちに刀を振つて車窓のガラスを突き破つた。しかしながら渋沢はガラスの破片で左掌を傷ついたのみで、御者の機転によつて事なきを得た。渋沢遭難の報伝はるや、兇徒を教唆した者は鋳鉄会社の発起人遠武秀行【とほたけひでゆき】であるとの流言【るげん】がしきりに行はれた。遠武は海軍大佐、現役を去つて実業界に入り渋沢と相知ること久しかつた。数日前【ぜん】に渋沢を訪【と】ひ鋳鉄会社設立に対して賛成を求めたが、渋沢これに応じなかつたので、辞色を変じて激論し、これがためにかゝる流言が行はれたのである。渋沢流言を聞き、『此の流言は遠武の信用を傷【きづゝ】け再び実業社会に立つ能【あた】はざらしむに至る恐【おそれ】がある。』といつて遠武を招き、平日の如く談笑し、両人間【りやうにんかん】に何等【なにら】の忿怨【ふんゑん】もないことを示したので、此に於て流言罷【や】み、鉄管問題を中心とする衝突の気炎も従つて鎮静に帰した。世人渋沢の雅量に敬服したと伝へられてゐる。
鉄管問題東京市会の議に上るや、又容易に決せず、遂に水道改良工事長たる内務省土木局長工学博士【はかせ】古市公威【ふるいちこうゐ】の意見により、内国製使用に決し、二十六年〔一八九三〕一月東京鋳鉄会社は成立し、遠武秀行社長の任に就いた。後【のち】株式組織とし、雨宮【あめみや】敬二郎、浜野茂等【ら】社長となつたが、果して渋沢の予言の如く、収支償【つぐの】はず、竣工期限の延期を屡々乞ふ有様であつた。そして更に二十八年〔一八九五〕十一月不正品納入によつて一大疑獄起り、会社役員および市会議員中に多くの有罪者を出した。此【こゝ】に於て前に渋沢を攻撃したものも、異口同音に彼の識見を嘆称したといふ。
日清戦役後の外資輸入に対しても、同様の見地から、国家の信用を云々する排外論に反対して、外資輪入は我商工業の発達にとつて必要であると説いてその実現に努めた。又三十年〔一八九七〕頃外国人が我国設立の会社株券を条約改正前にても適法に所有し得るかの問題が起つた時に、所有し得ることを論じて輿論の喚起に力【つと】めたのも亦同様の根拠によるのである。