◎東京商科大学と渋沢栄一
土屋喬雄著『渋沢栄一伝』(改造社、一九三一)から、別篇の二「日本資本主義の父渋沢栄一の政治経済思想」を紹介している。本日は、その五回目。「(三)学問と実業」の前半部分を紹介する。今回の引用部分『 』に関しては、渋沢栄一以外の者による発言もあるが、それらも含め、おそらくすべて、渋沢栄一の文章から引いたものであろう。
なお、ここで言う「東京商科大学」とは、現在の一橋大学のことである。
(三) 学 問 と 実 業
日本に於ても新興資本主義の発展は新しい商業理論を必要としたのである。封建的な大福帳は最早役に立たなかつた。代つて簿記学が研究されねばならない。「銀行」、「手形」、「為替」、「株式」等【とう】の新智識が普及されねばならない。新しい商業教育の要求は新興資本は何は措いても必要とする処であつた。
今日の東京商科大学は、明治八年〔一八七五〕八月森有礼【いうれい】によつて創設された商法講習所にその歴史を始める。有礼は久しく米国にあつて、同国の商工業の隆盛を見、商業教育普及の必要を痛感せしめられたのであつた。八年十一月有礼特命全権公使として清国駐剳を命ぜられたので、渋沢栄一等【ら】に諮つて商法講習所の事を挙げて東京会議所【くわいぎじよ】の管理に附した。次いで朿京府庁の管理に属し矢野二郎所長に任ぜられた。当時社会百般の事物概【おほむ】ね皆創始に属し、商業教育の如きに至ては世人未だ其必要を感ぜざるのみならず、多くは尚其果して何物たるを知らず、甚しきに至つては此の教育を以て却て『商業衰微の原因たるべしと信じたるものすら』あつた状態であつたので、十二年〔一八七九〕三月東京府会は十二年度商法講習所経費予算四千九百四十八円余に大削減を加へ、僅かに二千五百円の支出を承諾した。しかも遂に十四年〔一八八一〕七月には僅かの多数を以て商業講習所支出を拒絶し廃校の議決をなした。その理由とするものは殆んど取るに足るものがなかつたに反し、講習所存続派は『商法は我国の生命なり。後来【こうらい】我国を富強ならしむるの資本なり。然るに為替の打方【うちかた】も知らずして可なり。我国古来の商法にて足れりとするが如き見解にては恐らくは国家の為国益を謀ること能はざるべし。』と論じて商業教育の必要を高調した。十二年〔一八七九〕に於いて講習所予算削減に反対した福地源一郎〔桜痴〕の主催する東京日日新聞の如きは激越なる調子を以てその廃止に反対した。
商法講習所委員として創立当時よりその発展に努力してゐた渋沢は嚮【さき】に経費削減に当つは有志者を説いて維持寄附金二百円を募り経費を補充したが、今廃校の悲運に遭ふや、『一般の人民が、即ち商売社会が此の学校の存立を望むといふ事実がありましたに依って』農商務省に建議し、十四年度〔一八八一〕の経費九千六百余円の補助を得て、更に事業を継続するを得た。翌年に至つては宮内省を始め商業家有志より寄附二万余円を得てこれを元資にその存続を計つた。十七年〔一八八四〕三月商法講習所は農商務省の直轄となり、東京商業学校と改称し、二十年〔一八八七〕十月高等商業学校と改めた。文部省移管以来渋沢は同校商議委員としてその発展に尽力したので、十九年〔一八八六〕十二月「商業教育振興」の功により褒状を与へられた。越えて三十三年〔一九〇〇〕には帝国大学に独り商業部門のないのを遺憾とし、高等商業学校の大学昇格運動を起した。当時益田孝の如きは『商人は威張つてはならぬのに学問を尊重し、学問を尊重し、高尚な学理を授けると徒【いたづ】らに気位【きぐらひ】が高くなる弊がある。現在以上に高尚な学問の必要はない。』といつて反対したが、渋沢は、『実業家には見識が必要である。舜【しゆん】も人なり吾も人なりといふ考へがあつてこそ実業界は発達して行くのである。』と論じて譲らなかつた。今日の商科大学はかくてこそ生れ出でたのである。【以下、次回】