◎無下に断ってつまらぬ誤解を受けてもならぬ
国民新聞編輯局編『伊藤博文公』(啓成社、一九三〇年一月)から、渋沢栄一の「辱知四十年の回顧」という文章を紹介している。本日は、その三回目で、「四、余が大蔵省出仕」を紹介する。
四、余が大蔵省出仕
私はこの有様を目撃して、非常に感心したものですから、計らずも主家の非連に際会して、忽ち浪人の身の上となり、何をしやうにも好い考へが浮ばず、最早木から落ちた猿のやうな落魄の身分で、政治をやる見込も立たず、と云つて学問で身を立てる成算もなし、日夜懊悩しながら日本に帰つたと云ふのが明治元年〔一八六八〕の私の身の上でした。と云つて正かに〈マサカニ〉坊主や百姓になる気にもなれませんし、何とか目的を立てる必要があると考へました。此の時に計らず念頭に浮んだのが、即ち仏国に於ける私の見聞だつたのです。
どうか官民の接触を円滑にして、民間の事業を出来るだけ発展せしめたいと思ふ私の考へに取つては、この仏国に於ける見聞は実際的の教訓となつたのであります。それで私は一切の野望妄想を皆な拾てゝ、これを一生涯の仕事として造つて見やうと覚悟しました。従つて明治政府に出仕しやうと云ふ様な考へは夢にも無かつたのであります。
自惚れ〈ウヌボレ〉かも知れませぬが、当時の私の心は、何とかして君公の為めに尽したい、世の中の為めに尽したいと云ふ念で一杯でした。それで先づ静岡で何かやる事にしましたが、何事も独りでは出来ませぬので、旧幕臣の大久保一翁とか、平岡準蔵とか云ふ人々と相談して、先づ官民合同法の唯今で申せば合資会社ですが、銀行業もやれば倉庫業もやる、趣々雑多の仕事をする会社のやうなものを作りました。幸に各方面の人々が信用して呉れたし、旧藩からも出資して呉れたので、仕事は順調に進んで略々〈ホボ〉十ケ月余りも事業に従事したのであります。
すると其の年の冬に、突然大蔵省から招かれたのであります。私は折角仕事を初めた時だからと云ふので、お断りをして頂きたいと申しましたが、兄から色々に諭されて、お前は目下浪人の身柄だし、弱年者であるが、何かお役に立つ事が出来たのであらう、折角招いて呉れるのを無下〈ムゲ〉に断つて、つまらぬ誤解を受けてもならぬから、どんな職務を与へられるのか、兎も角〈トモカク〉出かけて見た方が宜いと懇々論されました、それで愈々出京したのは、忘れもせぬ明治二年〔一八六九〕十一月で、私は直ぐ租税頭を仰付けられました。何も知らぬので、随分面喰つた次第であります。
文中、「兄」とあるのは、義兄の尾高惇忠(おだか・あつただ)のことであろう。尾高惇忠は、渋沢栄一の従兄にあたり(父の姉の子)、また渋沢栄一の最初の妻・千代は、尾高惇忠の妹であった。つまり、渋沢栄一にとって、尾高惇忠は、従兄であり、かつ義兄であったことになる。ちなみに、渋沢栄一は長男だったので、実兄はいない。