礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

どんな馬鹿でも役人でさえあれば無暗に威張る

2019-04-12 05:14:26 | コラムと名言

◎どんな馬鹿でも役人でさえあれば無暗に威張る

 国民新聞編輯局編『伊藤博文公』(啓成社、一九三〇年一月)から、渋沢栄一の「辱知四十年の回顧」という文章を紹介している。本日は、その二回目で、「二、慶喜公の政権奉還」と、「三、官民調和の決心」を紹介する。
 
  二、慶喜公の政権奉還
 愈々民部大輔〔徳川昭武〕の一行が内地を出発したのは慶応三年一月十三日か其の翌日かでした。乗船はカサジリ・アンぺリアル丸で、馴れぬ長途の船旅で随分困難もしましたが、どうやら無事に仏国に着くことが出来ました。ところが其の頃我国の内地では到る所大変な騷ぎで、御承知の通り慶応三年十月十四日に慶喜公が政権を返上し、翌年正月三日にば伏見鳥羽の衝突がありました。此の時の慶喜公の立場は何とも申されぬ苦しいものがあつたと察しますが、併しながら公が早くも邦家の前途百年の後を慮られて、仮令〈タトイ〉如何なる理由あるにもせよ、苟も〈イヤシクモ〉臣子の分として錦旗に刃向ふ事は絶対に出来ぬ。要するに自分の不運不徳から茲に至つたのであるから、今は断乎として覚悟せねばならぬ秋〈トキ〉である。かう考へられて直ぐに政権返上を断行せられたのであります。若し此の時に、慶喜公に一家を顧みて邦国を念ふの心なく、己れを捨てゝ国に殉ずるの覚悟が無かつたならば、王政復古はあれ程すらすらと穏便には出来なかつたであらうと思ひます。公が是非善悪の一切を度外視して、全く世人の意表外に出た思ひ切つた態度は、実に立派なものでありました。後年福沢諭吉翁までが、「瘦我慢の説」と云ふ論を書いて、公の態度を批難した程ですから、一般世人が如何に意想外であつたかは察せられるのであります。

  三、官民調和の決心
 内地がかうした混乱に陥つたのと、一方には民部大輔が水戸を相続せねばならぬ事となりましたので、残念ながら勉強を打切つて、一行は急いで帰朝する事となりました。それはちようど明治元年〔一八六八〕の冬でしたが、帰つて見ると日本の状態はもうすつかり変つてゐる。私なども維新の運動には万更〈マンザラ〉関係が無かつた訳でもありませぬが、主人と仰いだ将軍は静岡に隠遁して、全く世捨人になつて了ひましたし、私としても勉強の中途で帰つた身柄ですから、誰を頼る道もありませぬ、初めは政治界に身を投じやうと云ふ念も無論あつたのですが、環境がかうなつては何うする事も出來ぬ。一先づ静岡に往つて、さて是れから何をしやうかと、色々自問自答した結果、一層田舎に引込んで百姓でもしやうかと迄思つた程でした。
 併し能く能く考へて見ると、それも余りに意気地が無い、何か世の中の為めに尽す事は無いか、自分の力で出来さうな事は無いか、斯様〈カヨウ〉に色々考へて見た結果、私が思ひついたのは、官民の調和と云ふ事でありました。その頃の世相は、唯今から見れば全く想像もつかぬ様な事ばかりでしたが、殊にひどかつたのは官民の懸隔でありました。どんな馬鹿でも低能でも、役人でさへあれば無暗に威張る、そして百姓町人は頭から奴隸扱ひにされたものです、自然言葉遣ひなども違つてゐたし、是非善悪を問はず、たゞ圧迫されたもので、実にひどいものでした。
 ところが欧羅巴では決してそんな事がない。民部大輔が仏国に滞在して居られた当時、奈翁三世から特に選んで附けられた教育監督のコロネル級の軍人でも、また一切の俗事方面を担当したコンソル、ゼネラルでも、実に能く調和して最善の取計らひをしたものでした。私も段々言葉を覚えて来て両人の応待内容も少しは解るやうになりましたから、俗事方面の事は大抵私が引受けて各方面の人々にも接触しましたが、どこに対しても皆な平等でした。この外国人の監督同志でも時に議論をする事がある。私が傍〈ハタ〉で見てゐると、多くの場合民間出の人の方が理屈が宜しいので、始めは色々議論をするが、理屈がわかると直ぐ解決して、民間出の人の方が勝つ、かうした点は私が日本で見て来た所とは大変な違ひのものでありました。

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