礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『日本人は本当に無宗教なのか』を読み終えて(徳永忠雄)

2019-12-15 05:37:23 | コラムと名言

◎『日本人は本当に無宗教なのか』を読み終えて(徳永忠雄)

 海野普吉・森川金寿著『人権の法律相談』(日本評論新社、一九五三)を紹介している途中だが、いったん話題を転ずる。
 数日前、世相史学研究家の徳永忠雄氏から、一〇月に出した拙著に対し、ご感想をいただいた。本日は、これを紹介させていただきたい。かなりの長文だが、全文を紹介する。途中の一行アキは原文の通り。

『日本人は本当に無宗教なのか』を読み終えて   2019.12

 本書を礫川さんから頂いてわくわくしながら一気に読みました。なにより問題提起のタイトルが読み手の気持ちを惹きます。
 ちょうど天皇の即位式が終わったばかりで、国柄のことを考えた人たちも多かったのではないかと思います。その意味でタイムリーな必読書でした。本書は天皇制や日本人の信仰を考える上でも次から次へと連鎖的に資料が提示され、礫川さんの博覧強記ぶりを思い知らされました。また展開もまるで推理小説を読むごとく繋がっていき次が気になる内容になっていて見事でした。

 読み終わって傍線を引いたところを読み返してみました。
 本居宣長の国家観の狭隘さには驚くばかりです。今までそういう視点で宣長を捉えた本はなかったのではないでしょうか。ただ、宣長に代表されるような国家観は当時の人々の多くが抱いていたものだったかもしれません。
 平田篤胤には押しの強さとか強引さを感じていましたが、キリスト教との関係にはなるほどと思いました。瀧川政次郎の「山師」のコメントも強烈です。
 第五章のオーストリアの学者シュタインの日本の宗教の指摘、我が意を得たりと思いました。伊藤博文の「皇室」を宗教の代わりとして機軸に置いたとのこと、やはりそうなんだと納得しました。
 
 昨年、世相史研究会で2年がかりで『先祖の話』を読み終え、奇しくも私は、同時期に藤村の『夜明け前』も読んでいたので、両者のつながりと本書との関係の深さを別の面から感じました。特に以前から気になっていた「廃仏毀釈」について本書によって歴史的背景の中で理解することができたことも収穫です。廃仏毀釈運動でつまずいた仏教はいまだに立ち直っていないような気がします。それでも興福寺の坊さんが春日大社で神官におさまるなど神仏は習合しその変わり身の早さによって仏教はうまく生き延びたのかも知れませんが。

 藤村の『夜明け前』の後半では、馬籠宿の長である主人公の青山半蔵が、幕府の処罰を覚悟の上の捨て身で尊皇攘夷の水戸学天狗党志士の上京を援助するという場面があります。そのバックボーンには、平田篤胤の息子・鐵胤がいました。南信州の庄屋たちの中には当時平田国学を信奉する者が多く、仏葬を神葬にしようとする動きすらあったと描かれています。
 幕末期に事実上参勤交代がなくなり没落する街道宿場、尊皇派として幕府から危険分子とされてしまう馬籠宿の庄屋青山半蔵は、拠り所をなくし一度は国学のツテで美濃の神官になるのですが、美濃では神社を信奉する者は、仏徒よりも多くありません。新しい明治政府の神官の下で働いてもみましたが、自分が思う国学とは異質な高圧的な国学について行けず、ついに発狂するという流れです。青山半蔵には「夜明け」は来なかったという思いで島崎藤村は自分の父を描いています。
 本書にも登場する平田派の急進的な人物大国隆正等によって国学は政治利用された、と私は見ています。国学は、国を思う精神性であり、国とは国家ではなく郷土であると思います。それが皇国史観にすり替わったのは、国を背負う明治の軍人の影響も強かったはずです。軍人とはすなわち武士であり、統治にどのような手法が必要か下々の思いとは別に練っていたに違いありません。東郷神社、乃木神社、明治神宮、靖国神社など神道意識を喧伝する明治以降の新興神社は枚挙にいとまがありませんから。

 ご承知の通り『先祖の話』の中で、柳田国男は平田篤胤を登場させています。あの世に行って帰ってきたという江戸の街で評判の勝五郎という男に平田篤胤が聞き書きをしているからです。柳田が『先祖の話』で繰り返し言っているのは、仏教は外来の宗教だということでした。かといって神道がそれに代わるものとも言っていません。原初の祖霊信仰・先祖崇拝がそもそもの始まりだと規定しているからです。先祖が蘇るとか先祖が見ているという思考がそこにあります。
 あの世の存在をまことしやかに語る平田篤胤は、瀧川政次郎的視点で言えばとんでもないほら吹きと見えるのでしょうが、それでは身も蓋もありません。仮にそれがホラであってもそう感じる人々がいたという事実は消えないからです。柳田は自らの体験からそう感じ、そして平田篤胤は当時の人々の祖霊観から導き出したに過ぎないと思います。
 柳田国男が戦後「新国学」と標榜したのは、日本人の精神性が土俗的な郷土愛にあったからであり、はからずも骨となって帰国したおびただしい同胞の魂を如何に祀るべきかという動機からでした。『先祖の話』を読むと祖霊信仰は我々の中で唯一自然に受け止められる信仰であったことに気づかされます。仏教も、神道も、天皇制も通り越した原初の状態の国土にあったものは、郷土への思いでありそれが祖霊信仰となって今でも根強くあると私はよみました。
 ジュネーブでの仕事の折、柳田はキリスト教以前のヨーロッパの姿をグリムやハイネの作品から読み取ろうとしていたそうです。そこにも原初の状態の信仰があったからだと思います。

 日本人は無宗教であるという本書の結論は、ある意味でそうかもしれません。礫川さんの指摘の通りオウム事件はそのことと無縁ではないはずです。本書の指摘にあるように宗教が道徳を内包しているとしたら今の世の中に確固たる道徳が果たしてあるのか大いに疑問ですから。しかし勉強不足な私ですが、必ずしも日本人は無宗教ではないという気持ちもあります。
 宗教という言葉を使わずに「信心」とか「信仰」とかいうと、もっと我々の気持ちに近くなります。「無宗教」という表現は、キリスト教やイスラム教といった現在のマジョリティな宗教との比較で生じるものであると感じるからです。私も大学1年の時伯母の強い勧めで1年だけ新興宗教の「真如苑」に所属したことがありました。真言宗の一派でしたので般若心経は暗記するほど唱えました。大学が忙しくなり疎遠になっていつしか行かなくなりましたが、当時はとても家庭的で温かい共同体だったと思います。ある意味で新しい地域共同体のような雰囲気でした。その体験からいえば日本人にはだれにも信仰心はあると感じています。
 礫川さんは冒頭で、かつての日本人は「無宗教」ではなかったと書いていますが、それはつまり現代は「無宗教」状態だということにつながります。しかしそれは都会的な視点ではないかと思います。田舎の農家に行くと、私の本家もそうでしたが、奥の間に「仏壇」があり、台所近くに「神棚」があり、居間に「天皇一家」の写真があったりします。公務員で自治労の父も百姓の祖父もどれにも毎朝挨拶をしていました。都会では考えられない風景ですが、田舎とくに農家であれば当たり前のことのようでした。一つ屋根の中に大日如来と大国主と皇室が渾然一体となっているのです。これが100年以上前にシュタインが言った日本の姿です。その空気感は今でも少なからず残っているはずです。
 今年、農業に専念するために田舎に住民票を写したのですがその古い家に回覧板が回ってきます。先日は驚いたことに地元の神社の新年の御札とともに「伊勢神宮の御札」の斡旋が回ってきました。これは『夜明け前』にも登場することなのでちょっとびっくりでした。なんだ今でも江戸時代と変わりないものが残っているのかと。共同体意識が崩れた都会では同胞意識は希薄ですが、東京湾を臨むこの田舎にはそれなりの共同体意識が同胞意識として残っており、その関係そのものが信心に近いものを感じさせます。これは社会科学的には論証が難しいのですが、この田舎の人たちに、あんた達は無宗教ですね、と問いかけたらイエスとは言わないかも知れません。

 宗教は自ずと個人の生活を規定していきます。イスラム教には「国」はいらないのだと急進派の人々はTVのマイクの前で言っていました。キリスト教も宗教を守るがゆえに紛争や戦争を引き起こしても平気です。神への帰依の果てがそれでいいのでしょうか。そんな宗教を見るにおいて「無宗教」というレッテルは必ずしも悪くないと開き直る人も平和呆けの日本には少なからずいるのではないでしょうか。
 仏教は日本に同化するうえで日本に馴染むように変質してきたように思います。仏教にはもともと先祖意識はないからです。三千億土の彼方に行ってしまった死者が盆と暮れにもどってくるという趣向は大いなる矛盾だと感じます。その点でも私は外国の宗教すら自分なりの使い勝手に変えてきたという日本人の知恵を感じずにはいられません。こんなことを言うと礫川さんをはじめとする精緻な歴史研究者にシロウトが棹さすようで申しわけありませんが、世相史学研究家を標榜する者として普通の人目線で読ませていただき自分の信仰観に改めて目覚めたという思いです。

 本書で一番強く感じたのは明治政府の国民を統治する所業です。そのことを我々は頭に刻んでおかねばいけないと強く感じました。それは現代の行き詰まった政治に十分繋がっていると思うからです。私は、柳田国男の朝日新聞の論説(大正13年~)を長年調べてまとめていますが、天皇の力の弱まった当時(大正時代)に至っても日本の政治は超然内閣として政党を無視し薩摩・長州・それ以外という勢力の綱引きに明け暮れていました。護憲運動が始まると旧大名・財産家・華族等の守旧派によって組織された貴族院という圧力団体とのせめぎ合いで常に落としどころを探っている政治に変質していきます。そしてそれは今でも見られるほとんど同じ風景なのです。私に言わせれば白黒をはっきり付けない「落としどころ政治」です。欧米に見られるような論議の果ての政党政治ではないのです。そこには同質の人間同士が寄り添い合うという悪い日本人意識が垣間見えます。これも日本人の宗教感から導き出されたようなものかも知れません。
 
 礫川さんの著作に感化されていろいろ余計なことを書き連ねてしまいました。とにかく刺激的で現代に通じる歴史研究のおもしろさを感じずにはいられない著作でした。ありがとうございました。次回も勝手ながら楽しみにしております。
               徳永 忠雄

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