礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

家を人間生産の組織と解するのは自明にして初歩的

2019-12-28 04:53:00 | コラムと名言

◎家を人間生産の組織と解するのは自明にして初歩的
 
 大熊信行『国家科学への道』(東京堂、一九四一)から、「経済学における『家』の発見」の節を紹介している。本日は、その四回目(最後)。原文で、傍点が施されていた部分は、下線によって代用した。

 今日必要なのは、生活再生産の構造が企業経済のそれと本質的に異なるものだといふ漠然たる見解ではなく、逆に、むしろ本質的に酷似したものだといふ新見解である。総力科学はこの見解を離れて正当な基礎をもつことはできない。
 われわれは右のやうな推論の中には繊細な感情をもつ一部読者の心を打ちひしぐ要素があらうことを知つてゐる。家【いへ】の再発見はしかしこのやうな方式に拠らなくてはならぬ。――これはまさしく一つの『発見』である。大泉行雄教授が二三の機会において、われわれの『発見』に論及し、さらにこの思想を世界観問題に発展せしめられた最近の努力は併せて注目されなくてはならぬ。教授はいふ、『国家はその内部に、限りなく多数の、しかも、それぞれ異なる目的を持つ協同生活体を包摂し、その綜合として統一的国家を形成してゐる。かゝる諸協同生活体の中で、本来、限定性の下に在る人間個体の生命を、無限の時間的延長の上に負担し担当してゆくものは、唯ひとり家の生活だけである。国家の生命が人間個体の生命力を超えて永続してゆく時、それは実に、等しく永続的生命体たる家によつてのみ、現実に荷はれて〈ニナワレテ〉ゆくことを知らねばならない』と。 .
 大泉教授にしたがへば、全体主義国家と称するドイツの歴史を見ても、そこには唯一つの国家ではなくて多数のドイツ国家の存在したことを認めなければならず、ナチスがみづから第三帝国と名づけることそれ自体が、国家の複数性を示す。――『ドイツ民族の揺籃としてのドイツの家【いへ】は、永くその生命を伝承して今日に到つたであらう。けれどもその民族の上に、異なる理念、異なる構成をもつ複数の国家が隆替変遷しつづけてきた跡を見るのである。国と家との間には算術的分合の関係に近いものを認め得る。われわれの場合に在つては、それは二つにして、しかも全くたゞひとつのものである。家における最高規範としての孝と、国における最高規範としての忠とが畢竟、たゞひとつのものの二つのあらばれに過ぎぬといふ、われわれにとつて、最もあたりまへの真理にかうして辿りつくのである。』――しかり、われわれの窮極目的は、科学的思惟を通して常識の本体に回帰するにある。常識の本体にまで回帰せざる中途半端の翻訳的概念の、いかに多いことであらう! あゝ、いかに多いことであらう!
 おもふに家【いへ】に関する一般歴史的・法制史的・社会学的研究は、『家族制度』の起源とその本質が何であるかを説いて剰す〈アマス〉ところなく、家をもつて人間生産の組織と解することのごときことは、あまりにも自明であり、あまりにも初歩的であつて、それらの領域からいへば事新たに論ずべきことではない。にもかゝはらず、いまこれを近代の価格理論を中心とする自由主義経済学の批判として論ずるとき、『消費経済』概念の否定としての一つの本質把握が、一つの『発見』のごとき感銘をもつて現代の知識層に迫るといふのは、そもそも何を語るのであらうか? われわれの日常的な生活意識が、すでに何時からか自由主義的思惟形式によつて呪縛されてゐたのだといふこと、すなはちそれのみ。

 以上、四回にわたって、『国家科学への道』の第十五章「世界観の体系化いまだし」の「第四 経済学における『家』の発見」の全文を紹介した(三四二~三五〇ページ)。
 明日は、この大熊理論について、若干の補足をおこなう。

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