◎両朝を対等とすると歴代数が算定できない(菊池謙二郎)
『日本及日本人』第五百五十四号(一九一一年三月一五日)「南北正閏論」特集から、菊池謙二郎の「南北朝対等論を駁す」を紹介している。本日は、その六回目。文中、喜田貞吉の文章を引いているところは、《 》で示した。
三
南北朝を対等とすれば後醍醐天皇以後の御歴代数は南北朝何れに拠るべきか、南朝より算すべきか北朝より計ふ〈カゾウ〉べきか、両朝を対等とすれば御歴代数は到底算定すること能はざるに至らん。万世一系の皇統を君主と仰げる我国に在りては御歴代数を児童に記憶せしむるは教育上極めて必要なり、然るに之を教ふること能はずとならば何如。喜田氏は
《我国の如き善美なる歴史を有して居る国に於て殊に万世一系の天皇の御歴代に就いて其数へ方が一定せぬと云ふ事は一見甚だ不可思議な且恐れ多い事で軽々しく論ずべきものではない。》
と言ひて百二十一代説と百二十二代説とを挙げたるが、氏も御歴代数の一定せんことを希望するは吾輩と異る所なし、而して氏が不可思議な且恐れ多い事となせる一代の相違は長慶天皇の御在位を認むると認めざるとに由つて分かるゝのみにて、そは歴史考証の正確なるを採らば直に解決するを得べく、否今日に於いても略々〈ホボ〉解决せるなり。然るに前にも言ふ如く南北両朝を正統とする時は御代数は如何にしても一定するを得ざらん、是こそ実に『不可思議な且恐れ多い事』にて、御歴代数の一定を希望する喜田氏は自ら『恐れ多い事』をなしつゝあるものといふべし。
南北両朝を対等とするときは両朝に属せし将士の忠姦は区別すること能はざるに至る、是国民教育上ゆゝしき大事なり、されば喜田氏の如きも強ひて之が区別を立てんとし、足利尊氏は武家政治再興を希望せしが故に皇室に対して忠誠の士ならずといふなり。然れども王政復古を計り給ひしは南朝の天皇にして北朝の天子には非らざりき、北朝の天子は足利氏に擁立せられ固より王政復古を主張せられず、北朝の臣下たる尊氏が武家政治再興に尽瘁したりとて北朝に対して不忠なりといふ謂れなし。皇室とは南朝を指すものなりとせば尚不可解なり、北朝の臣下たる尊氏が南朝に対して忠といひ不忠といふことは問題外なればなり。若し又南北朝の別なく皇室は王政復古を御旨意とするが故に武家再興を策せる尊氏は忠誠の士ならずとの意なれば是独り尊氏に限れるにあらす源頼朝も徳川家康も不忠の臣なりと云はざるべからざるに至らむ。是通論と言ふを得べきか。頼朝が武家政治を創めしも尊氏が之を再興せしも家康が之に倣ひしも畢竟時勢の所致なり、当時の我国家に在りては其安寧秩序を保持促進するに於て武家政治は全く已む〈ヤム〉を得ざりしなり。頼朝や家康を不忠の臣と認めざるのみならず、家康の如きは別格官幣社に祭祀せらるゝ栄を荷へり〈ニナエリ〉。独り従来尊氏を責めしは兵力を以て天皇に対抗せしを以てなり、然るに北朝をも正統となすときは尊氏は堂々委任権を行使せしものにして叛逆の認むべきものなきこととなる。唯叛逆の認むべきは兵を鎌倉に挙げしより光明院を擁立せしまでの短日月の間なるのみ。
尊氏は当時の時勢上已を得ず武家政治を再興せしに非らずして自己の野心を遂げんが為にここに出でしが故に忠誠の士と云ふべからずとせんか、是尊氏の心事を推測したるなり。心事を推測して是非正邪を論定するときは一意王政の復古に努め南朝の忠臣と称せらるゝ将士も過半は抹殺せらるゝに至るべし。其故は南北分争の際南朝方に附きし者の中にて楠木北畠名和等四五名を除けば其他は寿永承久の昔鎌倉に敵して所領を没収せられし豪族の子孫若しくは幕府に対して私怨を懐ける輩〈ヤカラ〉にして其心事より打算するときは義勇公に奉じたりと言はんよりも寧ろ私怨を報いんとしたりし事実あるを以てなり。されば当時に於ける将士の心事より立論するときは正邪の甄別〈ケンベツ〉容易ならず、小学校にて国史を教育の材料として取扱ふ上に於て危険の恐れあるが故に心事に立ち入つて論ずることは之を避け何処までも南朝を正統とし之に対抗せしものを不忠の臣として教訓せざるべからず、然るに南北朝を対等とするときは忠邪の区別容易に立ち難し、児童に教ふるに尊氏は武家政治の再興を希図せしものなるが故に忠誠の士にあらずといふとも児童は到底之を解すること能はず、児童に之を解する能力ありとするは是机上の空論なり。
このあと、論文は、「余論」に移る。引き続き、余論も紹介する予定だが、明日は、いったん話題を変える。