◎軍刀をもって傷害を受け危篤に陥る(陸軍省発表)
石橋恒喜『昭和の反乱』の上巻(高木書房、一九七九年二月)から、「十五 白昼の惨劇」の章を紹介している。本日は、その二回目。
第一報は通信社ニュース
その前日の十一日、日曜日ではあるが、私は朝早く家を出た。険悪な情勢がはだで感じられたからである。取材のための〝夜討ち〟を終わって、自宅へ帰ったときは午前二時近くであった。翌朝、寝不足の目をしばたたきながら、省線電車で四谷駅に下車、四谷から市バスで三宅坂へ向かった。ところが、バスを降りて陸軍省裏門口への坂を登ろうとしたら、ただならぬ空気が四辺を支配している。あごひもをかけた憲兵が右往左往しているのだ。何か大事件があったな……私はあわてた。うさんくさそうににらむ憲兵の警戒網をかき分けながら裏門へ近づくと、鉄の扉はガッチリと閉ざされている。省内への立ち入りはまかりならぬとのことだった。
「門をあけてくれ!」
私は憲兵へ向かって大声で叫んだ。すると顔なじみの門衛が、扉を少しあけてくれた。やれやれと思って守衛室の前へさしかかると、中から〝オーイ、石橋君!〟と呼ぶ声がする。ふり返ると社会部の遊軍記者の安養寺友一と写真部員が、青い顔をして立っている。見れば憲兵にえり首をつかまれてこづかれている最中だ。
「君、たいへんだ! 軍務局長がやられたぞ。クラブに連絡したが君と連絡がとれないので応援に駆けつけたが、立ち入り禁止というのでご覧のとおりのありさまさ。じゃあ、あとはまかせた。号外用の第一報をたのむ」
しまった!――私は陸軍省の庭を駆け抜けて、一気に記者クラブへ飛び込んだ。クラブでは電通〔日本電報通信社〕の梶原〔景親〕と新聞連合の高雄辰馬が、電話の前に腰をおろしていた。二人とも緊張のあまり顔をこわばらせ ている。私は悲鳴に近い声でたずねた。
「軍務局長がやられたというが本当か。犯人は誰だ。記事はもう送ったか。何時に送稿したのか……」
彼らは答えた――
「もちろん送稿ずみだ。永田は重傷らしい。犯人は現役の歩兵大尉だというが、くわしいことは分からない」
私は目の前が暗くなった。クラブのボンボン時計の針は、午前十時少し前であった。私は新聞班へ駆け上がった。しかし、事件については〝報道禁止処分〟をとったというだけで要領を得ない。やむなく引き返して、新聞班分室へ押しかけた。ここは「つわもの」新聞の編集室で、編集長は親しい大久保弘一少佐だ。彼は〝無天組〟である。従って幕僚派と皇道派との対立では、厳正中立の立場をとっていた。
「とうとう血を見ることになったねえ。第一報を送ったか……」
「いや、まだだ。下手人は誰だ……」
少佐は声をひそめてくわしく事件の内容をもらしてくれた。
「やったのは例の相沢中佐だ。永田閣下は即死。現場に居合せた新見東京憲兵隊長は重傷。相沢中佐は憲兵隊に逮捕されている」
私は電話を借りて、すぐ本社のデスクに送稿した。事件突発からすでに数十分たっている。うしろめたいことこの上もない。いつもなら当局による「記事差しとめ」の処置に腹を立てるのだが、この時ばかりはその横暴に感謝した。もし報道禁止処分になっていなかったら、クビものであることは間違いがないからだ。
やがて他社の諸君も青い顔をして出勤して来た。政治部記者の出勤はいつも遅い。同僚の政治部記者・渡瀬亮輔(のちに毎日新聞編集主幹)が、悲壮な顔をしてやってきた。
「遅刻してすまなかった。わしは責任をとって辞表を出すよ」
私は言った――
「実はわしも同罪だよ。事件の第一報は、通信社から伝えられている。もし君が辞表を出せば、自分も出さなければならないことになる。幹部から責任を問われてからのことにしようじゃないか」
政治問題化した陸軍省発表
そこへデスクから電話がかかってきた。
「号外発行の準備はできている。相沢中佐については、福山へ手配ずみ。君の方は、相沢についての同志青年将校の談話を送ってくれ。永田家は遊軍が担当する」
私はただちに戸山学校へ車を向けた。折から学校内は、新総監・渡辺〔錠太郎〕の初度巡視(初めての巡視のこと)の日とかで、校内はざわめいていた。まず、大蔵〔栄一〕から相沢のひととなりを聞こうとしたが、まだ出勤していないとのこと。そこで、剣術科教官室に柴有時〈シバ・アリトキ〉をたずねた。
「なに、相沢さんが永田少将をやったって? とうとう血を見たか。実はきょう新総監は、巡視を終わってから将校団と会食することになっていた。ところが巡視中電話がかかってきたとかで、あたふたと帰ってしまった。若い将校たちの中には〝渡辺を切るべし〟という声もあったので、臆病風に吹かれたものと思ったが、なるほどそれでは巡視どころではなかったろう。中佐は〝先陣をうけたまわるのは年寄りですよ〟といっていたが、ついにそれを実行したのか……」
柴は腕組みしながら、しばらく沈黙を守っていた。やがて口を開くとこう言った。
「相沢中佐という人を一言でいうと〝昭和の高山彦九郎〟といったところだね」
「ようし、わかった。ありがとう」
私は学校副官・高柳浅四郎の電話を借りて、これを送稿した。高柳とは「極東オリンピック粉砕運動」以来の顔見知りである。彼は私の電話を、あっけにとられた顔で聞いていた。
陸軍省へ引き返すと、夕刊用に概略を発表することになったという。すぐデスクへ号外発行の手配をした。クラブ内は火事場のような騒ぎとなった。間もなく新聞班長の根本博大佐が顔を見せて、次のような発表文を読み上げた。午後零時十七分のことである。
「陸軍省発表=軍務局長永田鉄山少将は軍務局長室において執務中、午前九時四十分、某隊付某中佐のため軍刀をもって傷害を受け危篤に陥る。同中佐は憲兵隊に収容し、目下取り調べ中なり」。
これにつづいて午後四時三十分続報が発表された。それは「軍務局長永田鉄山が同日午後四時卒去したこと」、「危篤の趣き天聴に達し、特に陸軍中将に任ぜられたこと」、「凶行を制止しようとした新見〔英夫〕憲兵隊長が重傷を負ったこと」などであった。号外の鈴音は一日中巷〈チマタ〉に響いて、重苦しい空気が日本全土をおおった。
下手人について〝解禁〟となったのは、翌十三日の午後一時十分であった。陸軍省は左のように発表した。
「軍務局長永田中将に危害を加えたる犯人は、陸軍歩兵中佐相沢三郎にして第一師団軍法会議の予審に附せらるることになり、十二日午後十一時五十四分東京衛戍〈エイジュ〉刑務所に収容せられたり。凶行の動機はいまだ詳〈ツマビラカ〉ならざるも、永田中将に関する誤れる巷説を盲信したる結果なるが如し(以下略)」
この発表文は、軍事課高級課員の武藤章中佐(東京裁判で絞首刑)と、課員の池田純久〈スミヒサ〉が筆をとったものであった。のちに池田が語ったところによると、「殺害の理由を書くのは早すぎるとためらったが、あまりにも無残な仕打ちに憤慨のあまり、つい筆がすべってしまったのだ」という。
発表文を読んで怒ったのは、陸大兵学教官の満井佐吉中佐(のちに衆議院議員)であった。彼は皇道派の中堅幕僚である。早速、血相を変えて軍事課へ怒嗚り込んだ。
「〝誤れる巷説を盲信した〟とは何ごとか。相沢中佐は〝正しい説〟を信じてやったのだ。取り消せ」
満井は〝統制派の牙城〟軍事課へ、怒りをぶちまけて帰って行った。その後この「巷説盲信問題」は一大政治問題と化した。やがて永田事件の特別弁護人に推された満井は、この問題をひっさげて軍法会議法廷に立った。相沢は「巷説を盲信したものか」、それとも「正しい説を信じてやったものか」が、論争の争点となったわけである。【以下、次回】
永田鉄山軍務局長は即死だったが、午後零時一七分の陸軍省発表は、「傷害を受け危篤に陥る」というものだった。桜田門外の変を連想する。彦根藩主・大老の井伊直弼は、このテロルのために即死したが、井伊家が当初、「主君は負傷し自宅療養中」と届けた話は、よく知られている。