礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

種樹郭橐駝伝は「託伝」のひとつ

2021-03-24 04:22:35 | コラムと名言

◎種樹郭橐駝伝は「託伝」のひとつ

『漢文講義録 第四号』(大日本漢文学会出版部、一九二四)から、柳宗玄「種樹郭橐駝伝(しゅじゅかくたくだのでん)」のところを紹介している。本日は、その五回目(最後)。
 本日は、この講義録の執筆者が、「種樹郭橐駝伝」を講義するにあたって、あらかじめ、これについて、ごく短い解説をおこなっているところを紹介する。現代かなづかいに直すなど、若干、原文に手を入れたが、ルビは、原文のままにしておいた。

伝類【でんノるゐ】
伝はもと後世に伝うるの意、文体の名としては歴史上実在の人の生涯を書いた史伝、即ち史記以下多くの史籍に何々列伝とある者が本【もと】になって、のちには自己の思想を述べる為に、架空の人物を作り、その性行を叙する間【あひだ】に主張を寓せしめる者、或は器物など人以外の物の来歴を述べる為に、人間に擬して作る者などがある。前の託伝、後【のち】のを仮伝【かでん】などと称しておるので次に講ぜんとする郭橐駝伝【くわくたくだのでん】の如きは、即ち託伝の一〈ヒトツ〉である。

   種樹郭橐駝伝【しゆじゆくわくたくだノでん】      柳 子 厚
柳子厚、名は宗玄、子厚はその字【あざな】である。河東即ち今の山西省西南部の人で、詩においても韋蘇州〔韋応物〕と並び称して韋柳と云われたが、特に文章に長じておって、韓退之とあい上下【じやうか】し、韓柳と屏称せられておる。監察御史【かんさつぎよし】まで進んだけれども、人の罪に坐して貶謫【へんたく】の身となった。湖南の南部なる永州、広西の中部なる柳州の刺史【しし】となって遂に柳州で終ったのであるが、この時作った山水の遊記は、古今企て及ぶ者が無いと称せられておる。
本篇の文が、民を治るには繁瑣苛酷【はんさかこく】を忌むことを述ぶるを以て主意としておることは無論で、その思想は柳子厚の思想ではあるけれども、既に伝の文と称しているおる以上はやはり実際に郭橐駝の言行として解釈すべきである。ただこの人が全然架空の人であるか、或は少なくとも如の名の者がおったかは知り難いけれども、深く穿鑿【せんさく】するを用いぬ。種樹は植木屋という程の意。

 この講義では、「伝類」で紹介されているのは、「種樹郭橐駝伝」の一篇のみだが、他の刊本で『古文真宝後集』の目次を見ると、陶淵明の「五柳先生伝」が、「種樹郭橐駝伝」の前に、王荊公(王安石)の「読孟嘗君伝」が、そのあとに置かれている。
 文中、「上下」のルビ【じやうか】は原文のまま、「しやうか」(ショウカ)とあるべきところか。
 なお、この講義録の執筆者は、島田鈞一と岡田秀夫のふたり。両者の間における役割分担、執筆分担などは不明。

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