◎鈴木紗理奈さんと「関係の絶対性」
先月二四日の東京新聞夕刊の「論壇時評」は、東京工業大学教授・中島岳志さんの執筆で、見出しは、〝「世話役政治」にNOを――森元首相の女性蔑視発言〟であった。
非常に興味深く読んだが、特に、最後の方にある、次の箇所が印象に残った。
森〔元首相〕の面倒見の良さは、政界随一と言われる。その世話役的行為は、重要な場面で「貸し借り」を前提とした卜レードオフを相手に迫ることになる。このネッ卜ワークの積み重ねが、森の権力の源泉なのである。そして、多<の政治家や財界人、スポーツ関係者は、森の調整力・解決力に依存してきた。
TBSの情報番組「サンデー・ジャボン」(2月7日)に出演したタレン卜の鈴木紗理奈は、森の発言の問題を認識しながらも、声を上げにくい状況があると指摘し、「お世話になっているから言えない状況があって、私のいる世界にも、どの世界にも『森さん』はいるんです」と発言した。そして、そのような実力者の積み上げてきた中で活躍の場を与えられた人間は、自分を含めて声を上げることが難しいと語った。
日本社会では、あらゆる業界の要所に「ミニ森喜郎」が存在している。いま私たちが直面しているのは、この「森喜朗的なもの」を乗り越えることができるか否かである。……
この日の「サンデー・ジャボン」を私は見ていないので、鈴木紗理奈さんの発言の意図を正確につかむことはできないが、少なくとも、「森喜朗的なものを乗り越えよう」という提言では「なかった」と思う。
鈴木紗理奈さんの発言の趣旨は、「どの世界にも『森さん』がいて、その世界のメンバーは、『森さん』の存在に拘束される」という「日本的な状況」を指摘すること、それ自体にあったと推測する。
こういった日本的な状況を、かつて吉本隆明は、「関係の絶対性」という言葉で説明した。私見によれば、吉本が「関係の絶対性」という言葉を持ち出したのは、戦争責任を解除しうる論理として、肯定的に用いるためであった。
一方、この時評における中島岳志さんの立場は、そういった「日本的な状況」を否定的に捉える立場、すなわち、「関係の絶対性」という「責任解除の論理」を乗り越えようとする立場と理解してよいだろう。
中島さんは、この時評の末尾を、「今回の騒動は、組織委員会長人事を超えた切実な問題を私たちに突き付けている。」という言葉で、結んでいる。まさに、その通りであろう。しかし、その「切実な問題」を明確な形で提示し、その解決の方向を示唆するのは、「私たち」一般の責務ではない。やはりその責務は、中島さんのような「知識人」が負うべきだと愚考する。