◎いま牧野伸顕はどこにいるのでしょうね(渋川善助)
石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、「十八 陸軍空前の永田事件軍法会議」の章を紹介している。本日は、その二回目。
相沢被告の独演会
このようにして、相沢〔三郎〕の陳述は第二回公判(一月三十日)、第三回(二月一日)、第四回(二月四日)、 第五回(二月六日)と続いたが、公判の流れは全くの皇道派ベース。自由に発言を許された形の相沢の陳述は、まるで独演会の観があった。彼は尊皇絶対を叫びあるいは昭和維新を絶叫し、時にはゼスチュアをまじえながら、永田斬殺の場面を語った。果ては、長々と武道論をぶち上げることもあった。
満井〔佐吉〕中佐の援護射撃も強烈であった。公判第二回目の法廷でも新式の陣太刀式軍刀を腰にして立ち上がった。そして、「法務官に敬告する」と前置きして、またまた次のような重大提言を行った。
「裁判長閣下! 法務官による公判誘導は、皇軍精神に反するものである。軍法会議の精神は建軍の精神擁護である。これにのぞむものは、皇軍の本質を体得しているものでなければならぬ。本科将校たらぬ法務官も、この精神を理解しているものとは思うが、かかる重大事件においては、法務官たるものは単に専門的な参考意見を出すだけでよいと思う。いわんや事件の本質は皇軍統御の根本問題であって、一歩誤れば全軍騒然たらんとする危機にある。しかるに法務官が本公判の誘導者たる観あるは、はなはだ遺憾である。ゆえに裁判長閣下には、法理と末節に拘泥する法務官に左右されず、全責任をもって本科将校たる閣下自ら裁きに当たられんことを希望する」
事実上の法務官忌避だ。主理法務官の杉原〔瑝太郎〕や検察官の島田〔朋三郎〕は困惑した表情で、どちらが裁く側か、どちらが裁かれる側か、とまどいを感じる場面さえ続いた。
相沢支援団体の宣伝工作もすさまじかった。彼らはこの公判廷を「維新か」、「非維新か」の決戦の場であるとした。すなわち、この法廷闘争を通じて、宇垣〔一成〕、南〔次郎〕、渡辺〔錠太郎〕、小磯〔国昭〕、建川〔美次〕ら反皇道派系首脳の実態を暴露するとともに、彼らのいう元老、重臣、財閥、新官僚につながる、永田〔鉄山〕、東条ら統制派(清軍派)幕僚の醜状を天下に訴えようとするにあったのだ。直心道場の元士官候補生・渋川善助や村 中孝次は、機関紙「大眼目」を発行して全軍の同志の奮起をうながした。中村義明は雑誌「皇魂」を、大森一声〔曹玄〕も雑誌「核心」を印刷して、〝相沢に続け〟と呼びかけていた。
確か公判第三回目(二月四日)の休憩時間であったと記憶する。私がテントの中で社の同僚たちと雑談していると、「東日の石橋記者殿はいらっしゃいませんか」という大声がした。見ると、第一回以来、被告家族席でメモをとっている和服姿の青年である。各新聞社のテント村はざわめいた。「石橋はボクです。何かご用ですか」と聞きただすと、「ちょっとお話ししたいことがある。失礼だが弁護人控え室までお出でくださらないか」とのことだった。
私は考えた。何か記事の上で彼らの気にさわったことでもあって抗議されるのだろう、と。私は恐る恐る、この精悍なつら魂の青年のあとについて行った。通されたところは弁護人控え室であった。弁護人の鵜沢〔聡明〕と特別弁護人の満井を囲んで、亀川哲也と背広服の青年が話し込んでいた。
和服の青年はすぐ口を開いた。「私は渋川善助です」と自己紹介をした。それから振り返って「彼は村中孝次君です」と背広服の男に引き合わせた。これは意外だ。「十一月二十日事件」の首謀者・村中というと、剣道の猛者という評判が高い。だというのに、見たところ小柄なやさ男ではないか。私はあっけにとられた。
そこで二人は丁重に私にイスをすすめながら、「これは私たちの発行している『大眼目』新聞です。ご一読ください」と新聞を差し出した。そして、渋川が、第一面にのっていた渡辺錠太郎教育総監の顔写真を指差して言った。
「こやつは皇軍の奸賊です。いつかわれわれは、こやつに鉄槌を下さないではおきません」
私は渋川の見幕のすさまじさにびっくりして腰を上げた。すると渋川が私へ声をかけた。
「いま牧野伸顕はどこにいるのでしょうね」
私は答えた。
「さあ、関係がないから知りませんなあ。しかし、牧野伯の所在を知りたいなら、新聞の『人事往来』櫊を調べたら分かるじゃないですか」
「なるほどねえ…」――渋川はニッコリ笑ってうなずいた。
これはあとで分かったことだが、そのころ渋川は、前内大臣・牧野の所在探索役を引き受けて、懸命にそのありかをさぐっていたのである。牧野が湯ケ原温泉に滞在中であることを知ったのは、やはり「人事往来」欄の報道であったという。
ところで公判は、回を追うにしたがって、いよいよ緊迫した空気に包まれた。満井は「相沢中佐は〝個人〟として永田中将を刺したのではなく、陸軍歩兵中佐・相沢三郎としての〝公人〟たるの資格において決行したのである。国家危急の際は、国憲のために国法を破るも差しつかえない、と思って 行動したと解すべきである」と主張し続けた。
第五回目の事実審理に入ると、問題は事件の核心たる「真崎教育総監更迭問題」および「十一月二十日事件〔士官学校事件〕」に触れてきた。弁護人は事件の真相を究明するため、「いかなる重臣、顕官といえども法廷に喚問すべきである」と要求した。第一師団当局は裁判を公開すべきか否かについて、回答を迫られるにいたったのである。そのため、六日閉廷とともに、裁判長以下各判士、弁護人とが参集、協議の結果、突如、次回八日、開廷の予定を変更して、十二日に延期することを決めた。その翌日、弁護人・鵜沢は、政友会から離党した。その理由は、
「本事件を単なる殺人事件という角度から見るのは、皮相のそしりを免れません。遠く建国以来の歴史に関連を有する問題といわねばなりません。従って統帥権の本義をはじめとして、政治、経済、民族の発展に関する根本問題にも触れるものがありまして、実にその深刻にして真摯なること裁判史上、空前の重大事件と申すべきであります(中略)裁判の進行とともに各方面の関係を明確にするためには、公明正大なるを要し、いかなる顕官・重臣といえども証人たらざるを得ない場合もあるかと思われます。私としては、かかる場合に一党一派に籍をおき、多少なりとも党派的好尚に影響されてはならぬと痛感し、政友会入党三十年の微力をいたした過去を一擲〈イッテキ〉し、ここに政友会を離脱することにあいなった次第であります」
というにあった。全国民はこの鵜沢声明によって、いまさらながら事件の深刻さに驚きの目を見はった。そして、今後、大官たちが続々と法廷へ喚問されるであろうことを予想して、その成り行きに注目した。あらしは刻々と近づきつつあったのである。【以下、次回】