◎相沢の殺人は、「巷説を盲信」した結果か
石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、同書上巻の「十八 陸軍空前の永田事件軍法会議」の章を紹介している。本日は、その五回目。
林前陸軍大臣の出廷
二月十七日、第八回目の軍法会議が開かれた。法廷の内外は殺気に満ちて、いたるところ銃剣の林である。この日、法廷には永田事件当時の林銑十郎陸相が、証人として喚問されたからである。私は同日づけの東日朝刊に、左のような予報記事を書いた。
「永田事件軍法会議公判は天下の耳目をあつめて去る十二日ついに軍法会議法による裁判長独自の職権で前陸軍次官、現近衛師団長橋本虎之助中将の証人喚問を見たが、さらに公判第八日目の今十七日は午前十時、事件当時の陸軍大臣であった現軍事参議官林銑十郎大将が証人として喚問をうけ、法廷に立つこととなった。同事件の公判は、回を重ねるとともに漸次その内容が複雑多岐にわたることが明かとなり、殊に相沢三郎中佐が決行の意志を固めるに至った原因動機の糾明〈キュウメイ〉は、全く難事中の難事とされているのであるが、その重大性にかんがみ、あくまで公判の至公至正を期する佐藤〔正三郎〕裁判長のかたき決意に基づいて、この証人喚問となったものである。なお同日は橋本近衛師団長証人喚問の日と同様、開廷とともに公開停止の宣告が下されるものとみられるが、公判廷における佐藤裁判長の訊問と、これに対する林大将の証言の如何は、今後における公判の推移に最も深い関連をもつものとして注目される」
林は教育総監・渡辺錠太郎と同期の陸士第八期生。第六期の関東軍司令官・南次郎を除いては、陸軍の最長老である。その大長老がところもあろうに軍事法廷に喚問されるというのだ。国民は新聞報道以外には問題の本質がつかめないままに、ただただ驚きの目をみはるばかりであった。
この朝、軍法会議は午前十時五分開廷。さすがに熱心な傍聴人も、公開禁止を予想してか六分の入り。被告の同志の青年将校数名が、はじめて傍聴席に姿を見せたのが人目をひいた。相沢〔三郎〕も前日散髮したとかで、青いひげのそりあとが、くっきりと浮んでいた。裁判長は被告の氏名点呼を終わるや否や、公開禁止を宣言した。開廷わずか一分である。
林大将に対する尋問は二時間にわたった。私は夕刊用として次のような記事を送った。
「(略)勲二等旭日章を胸間に輝かした林大将が静かに法廷に吸いこまれる。陸軍を代表した古荘〔幹郎〕次官がただ一人特別傍聴席に入った(中略)同十時二十分いよいよ公判は非公開のまま開廷。直ちに相沢中佐に退廷を命じ、証人林前陸相の重大な訊問が開始された。法廷のドアというドアはかたく閉ざされて、会議所の周囲はぐるりと憲兵に取り巻かれた。午後零時十五分公判廷のドアがようやく押し開かれ、林大将が沈痛な顔を現した。次回は来る二十二日。同日は林大符の証人訊問の内容を裁判長が非公開のまま被告に読みきかすこととなったが、林大将の登場により、近く前教育総監真崎〔甚三郎〕軍事参議官の喚問も必至とみられている」。
非公開の法廷における証人尋問は、裁判長、検察官、弁護人の順序で行われた。
「証人は真崎教育総監が不同意のまま更迭の手続きをとったものなりや」、「被告人は、真崎総監が不同意だったにもかかわらず更迭の手続きをとったのは、省部規定に違反し統帥権を干犯したものであると述べている。果たしてその事実ありや」、「十一月二十日事件〔士官学校事件〕での村中孝次〈タカジ〉、磯部浅一〈アサイチ〉の停職処分は、青年将校に対し永田〔鉄山〕中将が圧迫を加えたもので、重きに失すると被告人は述べている。事実はいかん」、「満州、朝鮮旅行の際、証人および永田中将と南大将、宇垣〔一成〕総督との談合の内容はいかなるものだったか」、「永田中将が元老、重臣、財閥、新官僚から使嗾【しそう】されたような事実ありや。また〝朝飯会〟との関係いかん」。
これは例の怪文書「軍閥重臣閥の大逆不逞」「教育総監更迭事情要点」「〝粛啓仕候〟と冒頭せるもの」などの真偽について質したものだった。つまり、相沢のとった「上官暴行殺人」行為は、怪文書によって〝巷説を盲信〟した結果のものか、それとも〝事実〟に基づいたものであったかの点を突いたわけだ。
これに対して林は、かなり率直に答えている。「省部担任規定」の存在の有無は、人事の最高機密にわたる問題であるから答える自由を持たない、と拒否したほかは、スラスラと陳述している。永田と朝飯会の関係についても極力弁護につとめたことはいうまでもない。「朝飯会」とは元老西園寺〔公望〕秘書・原田熊雄、内府秘書官・木戸幸一、陸軍政務次官・岡部長景〈ナガカゲ〉、貴族院議員・黒田長和〈ナガトシ〉、新官僚派の後藤文夫、伊沢多喜男、唐沢俊樹らを中心とするグループのこと。皇道派はこのグループを永田ら統制派と結託した〝非維新勢力〟とみて、敵視していた。
このように軍法会議は、完全に皇道派のペースで進んだ。このままでいけば相沢の判決は、かなり軽いものになろう、というのが大方の観測であった。
一方、これを眺めて、憤懣やる方なしといったのは統制派幕僚や陸軍第十六期生会の有志である。十六期生は永田のクラスメートだ。彼らは相沢の陳述や満井の弁論は、故人の人格と名誉を傷つけることはなはだしいものがあるとして激怒した。そして、協議の結果、永田弁護の証人として代表を法廷に喚問するよう上申書を出すことになった。上申書を携えた代表数名が師団司令部に押しかけたのは、確か二月十九日であったように記憶する。「相沢減刑派」対「相沢厳刑派」の抗争は、いよいよ激しさを加えつつあった。【以下、次回】