礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

中傷などに断じて妥協せず、死をも辞せず(永田鉄山)

2021-03-06 01:22:18 | コラムと名言

◎中傷などに断じて妥協せず、死をも辞せず(永田鉄山)

 石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の紹介に戻る。本日以降は、同書の上巻から、「十五 白昼の惨劇」の章を、何回かに分けて紹介してみたい。ただし、紹介は、「決行前夜の相沢中佐」の節から。

  十五 白昼の惨劇

 永田、相沢の第一回会談【略】

 相沢中佐再び上京【略】

 決行前夜の相沢中佐
 その夜、相沢〔三郎〕は西田〔税〕と戸山学校の大蔵〔栄一〕を相手に、上機嫌であったという。大蔵は、その著書の中で、次のように同夜の相沢を描写している。
「その夜、正確にいうと昭和十年〔一九三五〕八月十一日午後十一時、私は何げなく西田税の家をたずねた。客間では西田と相沢中佐とがくつろいで談笑していた(中略)私には相沢の上京は意外であった(中略)台湾転任のことなど、しばらく雑談がつづいた(中略)
『ときに大蔵さん、いま日本で一番悪い奴はだれですか』
『永田鉄山ですよ』
 私は即座に答えた。
『やっぱりそうでしょうなア』
 相沢はかすかにうなずいた(中略)
 かれこれ十分ぐらい雑談を交わして、私は腰を上げた。相沢中佐は玄関まで私を送ってきた。
『あなたのうちに、深ゴムの靴が一足あずけてありましたね。あしたの朝早く奥さんに持ってきていただくよう、頼んで下さい』
『そんな靴があったんですか』
 私は知らなかった(中略)
『奥さんが知っています』
『承知しました』
 と、うなずいて下を見ると、新しい茶色の編み上げの靴が一足そろえてあった。
『いい靴があるじゃありませんか』
『いや、あの深ゴムの方が足にピッ夕リ合って、しまりがいいんですよ』
 といいながら相沢は、銃剣術の直突〈チョクヅキ〉の姿勢をとった。
『わかりました。お休みなさい』
 私は、相沢中佐と別れて玄関を出た」(以下略)。
 相沢は剣道の達人である。狭い事務室で、長い軍刀を振り回すのが不利であることは分かっていた。そこで、直突の姿勢で最後の打撃を与えようと決心したのであろう。
 一方、軍務局長は、そのころどうしていたのか。十一日は日曜日であった。彼は久里浜海岸の借家で、久し振りに家族と過していた。百日せきで苦しむ子どものため、転地療養させていたからだ。今を時めく軍務局長にとっても、病弱な子どもは大きな悩みの種であったのだ。彼は、夜のふけるのも忘れて書きものをつづけていた。それは彼の遺稿となった、「軍を健全に明るくするための意見」と題したメモである。このメモは、林〔銑十郎〕陸相に意見具申するための要旨を書いた草稿であった。
 その中で彼は、「この非常時局には軍の統制、団結が最も大切なことである」とし、それがためには「皇道派の人びとは全然中央から除くか、またはその意の如き陣容を採らしめて、全責任を負わせるかのどちらかで行くべきで、妥協は不可である」と指摘した。そして、〝国家革新〟については 「合法的漸進的維新は必要であるが、これも軍の力を軍自身の維持のために用うることなく、大命により軍全般として行動することが大切である」と述べている。また「永田自身の関係」の項目では、すでに「暗殺の手がみずからの上にのびつつあることを予想」しており、「中傷などに断じて妥協せず、死をも辞せず」と言い切っている(秘録・永田鉄山から)。
 明けて十二日早朝、永田は久里浜を立って帰京の途についた。門辺〈カドベ〉を出るとき一人々々こどもの頭をなでながら、
「風邪をひかしてはいけないよ」
 と、いつになく名残り惜しげであったという。虫が知らせたというものであろう。【以下、次回】

 文中、「深ゴムの靴」は、「深ゴム靴」とも呼ばれる。ゴムを塗布した深めの靴を指すらしい。相沢三郎中佐は、一九三五年八月一二日、深ゴムの靴に履き替えた上で、凶行に及んだということになろう。

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