礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ある予審判事が体験した二・二六事件

2021-03-05 00:08:43 | コラムと名言

◎ある予審判事が体験した二・二六事件

 元裁判官の細谷啓次郎という人が書いた『どてら裁判』(森脇文庫、一九五六)という本がある。その中に、二・二六事件発生の当日に体験した出来事について記している小文がある。(一二七~一三〇ページ)。本日は、これを紹介してみよう。文中、「彼」とは、細谷啓次郎自身を指している。

  勾留執行停止と二・二六事件

 昭和十一年二月二十一日のことであった。
 彼はそのころ、予審判事として山田剛三(仮名)という殺人被告事件の取調べをしていた。 その取調べさいちゅう、山田の母が危篤で、生前、一目会わせてくれという使いが、その弁 護人とともに面会を求めてきた。
 そのとき、被告人は、事実を否認していたので、彼は迷った。
 そのときの弁護士の名前は、いまどうしても想い出せないが、とにかく、おとなしい、真面目な、仁義に堅いと思われた人であった。
  彼は、被告人とその弁護士とに、
「僕も一人の老母が生きている、予審判事はしているが人間である、君が、ただ一人の老母の死に目に一目会いたいのはよく判る。
しかし、君は、いま事実を否認しているので、事件関係から考えると証拠湮滅を防ぐ関係上、このさい出すことは考えものだ。しかし人間として情において忍びない。今日から五日間、執行停止をして釈放するが、それは弁護士である貴方を信ずる、もしこの被告人が逃亡したり、証拠湮滅をしたりした場合には、私はまだ裁判官として停年まで二十数年あるから、 将来、貴方の担当被告人の保釈や執行停止などは、絶対に受けつけない。どうか責任を持ってくれ」
 と云った。
 その弁護士は、
「必らず責任を持ちます。また期待に背くようなことは絶対にさせません」
 と断言して、その日、山田剛三を引取って行った。
 ところが、その執行停止の期間満了の五日目が入所する日付で、あの有名な二月二十六日、俗にいう二・二六事件の軍部のクーデターの勃発した、雪の降りしきる朝であった。
 彼は、その朝、午前九時三十分ごろ出勤して、はじめて裁判所附近が軍部に包囲されていることを知った。
 そして、身分を告げて、裁判所構内に入れてもらい、予審廷に行った。
 ところが、その時すでに、被告人山田剛三と、その附添いの弁護士が来ていたのには驚ろかされた。彼らが、何処からどうして入って来たかは知らなかった。また聴く気にもなれなかった。
 彼らが約束どおり、出頭はしたが、裁判書記も来ていないし、また係検事も出勤していない。なおまた、入所せしむべき刑務所や、運搬すべき自動車の連絡などは思いもよらなかった。
 そこで彼は、
「見られるとおりの状態であるから、こちらから出頭の通知があるまで、自宅でゆっくり静養してもらいたい」
 といって、帰ってもらった。
 そのとき被告人山田剛三も、また附添いの弁護士も、その二・二六事件の当日に、たいていの判事、検事、書記などが容易に出勤することが出来ないで、法廷を開くなどのことは思いもよらない状態であったことを、百も承知のうえで出頭したのであった。
 彼は、その二人の約束を厳守した仁義の厚さに感嘆してやまなかった。それと同時に、法規や事件に拘泥しないで、人間として、情愛の溢れた裁判なり処分なりは、必らず守られていくものであることを痛感し、またこのときから、彼は、裁判官として重要な事項について、 弁護士を信頼し、責任をもたせて、英断、処理する事例がきわめて顕著になって行った。

『どてら裁判』一七ページによれば、細谷啓次郎の事件当時における肩書は、「東京刑事地方裁判所予審判事」。なお、『どてら裁判』の版元・森脇文庫の発行者は、「森脇メモ」で知られる昭和の金融王・森脇将光である。

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