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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「兵に告ぐ」のビラは朝日新聞社で印刷

2021-03-01 04:05:58 | コラムと名言

◎「兵に告ぐ」のビラは朝日新聞社で印刷

『週刊朝日奉仕版』(一九五八年五月一四日)から、細川隆元執筆の「二・二六事件その日」という文章を紹介している。本日は、その五回目(最後)。

  電 話 を 守 っ た 交 換 嬢
 社内に暴れ込んだ兵隊は、社の隅々まで人間を探し回って追い出したが、電話交換室は内からピッタリ錠をかけて逃げ出さなかったので、兵隊から気づかれずにしまい、矢橋なつ子、森田きち、岡本ふみの三交換嬢は全くの命がけで職場を守り通して、各方面と電話連路をとっていたというので、後でこの三嬢は社から感謝状を授与された。
 風呂番の柳沢という爺さんは、褌一つで前夜の宿直の風呂の掃除をしているところへ兵隊がやって来たので、褌一つで逃げ出したのはどうも、〝二・二六事件と朝日新聞〟の中の唯一の滑稽な風景だったようである。
 外に出た社員一同は、二手に分れて一時避難した。一つは橋向うのマツダ・ビルの七階にあったニュー・グランドというレストランへ。一隊は今の読売新聞の裏あたりにあった朝日新聞御用の木下旅館にのがれた。ちょうど社を出るころからチラチラ雪が降り出し寒さがひどく加わって、外とうも着ないまま、数寄屋橋をゾロゾロ渡って行く無冠の帝王の姿は、誠に痛ましくも哀れであった。「アー、この朝日ともおわかれか!」とは、私だけでなく確かにみんなの胸中を往来した感慨であったようだ。
 私はマツダ・ビル組の一人であったが、七階の窓から朝日新聞の玄関の方を凝視していると、ちょうど三十分許り経った頃――いや実は、この間は三時間も四時間も経ったような気がしたのだが――兵隊が社内からドヤドヤと出て来て、若い将校に指揮されて、機関銃座を撤収し、また元のトラック二台に分乗したかと思うと、日比谷の方へと走り去って行った。
 こうなるとまたなんてアッ気ない革命だろうかという、当てが外れたようなうっすらとした気にもなったと同時に、イヤイヤこれはホンの前哨戦で、これから本格的な革命が展開するんだという重っ苦しい気持の交錯となった。さて一同またゾロゾロ社に帰って編集局に入ってみると、編集局の真ん中の机の上に「蹶起趣意書」と銘打ったガリ版刷りが張りつけてあった。

  活字棚はメチャメチャ
 さて、社に帰ると局長室で首脳部会議が始まった。私も後の方からこれをノゾいていた。久野印刷局長(故人)が「活字棚をメチャメチャにされたが、夕刊は刷ろうと思えば別室に見習工用のが一通りあるから刷れるが……」というと、緒方〔竹虎〕、美土路〔昌一〕氏等が「活字もメチャ苦茶になったことだし、あんまり刺激してもいかんから夕刊だけは見合せようじやないか」というので、その日、朝日新聞だけは夕刊を出さなかった。翌二十七日の新聞の社告で〝不慮の事件のため、工場の一部に支障を生じ已むなく休刊致しましたが……〟と告げられたが、あの時は出そうと思えば出せたんだが、矢っ張り政治的考慮に休刊の重点があったようだ。
 当時兵法の社内闖入〈チンニュウ〉前に工場関係で出社していたのは、佐藤隆君(当時印刷庶務課員、現印刷局次長)と三上久雄君(当時印刷鋳造課員、現印刷局次長)の二人であり、二人とも兵隊から追い詰められて工場を通り抜け、裏に出ようとしたが裏は締め切ってあるので、窓越しに漸く邦楽座の通りに飛び出して避難したということだ。両君の話によると、兵隊どもは銃剣で活字棚を突っつき壊し、その上銃台で叩き落したのだ。八割方壊れて使いものにならなかったという。輪転機に兵隊が砂をぶっかけて、朝日は新聞を出せなくなったと世間に伝えられたのは間違いで、輪転機のある部屋には鉄の鎧戸〈ヨロイド〉が下りていたため、兵隊はガンガン銃台でやっただけでアキラメて輪転機は無事だったのである。

  兵 に 告 ぐ !
 さて、こうして襲撃された朝日は、二十七日朝刊から平常通り新聞を発行し、二十九日の午後三時香椎浩平戒厳司令官から「反乱部隊は……反乱部隊は全く鎮定」の発表が行われるまで、われわれは四日三晩の徹夜勤務で全くヘトヘトになってしまった。二十九日朝には例の「兵に告ぐ」のビラが朝日新聞で印刷されて戒厳司令部から反乱軍に配布されこれがきっかけで反乱が鎮定したのも、二・二六事件と朝日新聞をつなぐエピソードの一つである。
 二十九日午後五時ころ、私は日本橋の大野屋に引きとってグーグー寝ていた。同僚の香川保君が社にいたが、大野屋に電話をかけて来た。「岡田が生きている。岡田が生きている。スグ社に出て来い」「いたずらはよせよ、すっかりいい気持で眠っているのに」。ところが、これは本当のことであった。それから私達は三月九日の夜広田弘毅内閣が出来るまで、更に十日間不眠不休の活動を続けたのだ。しかし、こんな時こそ新聞記者として一番生甲斐を感ずる時である。(元朝日新聞東京本社編集局長・政治評論家)

 私ぐらいの世代にとっては、細川隆元という名前は、なじみがある。かつて、『時事放談』というテレビ番組があったが、その初期における出演者は、小汀利得(おばま・としえ)と細川隆元のふたりだった。テレビでは、細川隆元の名前は、「ほそかわ・りゅうげん」と紹介されていたと記憶する。
 今回、細川隆元の文章を読んでの感想を述べると、語り口はナカナカ巧みなのだが、文章表現の上で明晰でない箇所が多く、元新聞記者に似合わない悪文家という印象が残った。 
 明日以降、数日は、二・二六事件の話題から離れる。そのあとに再び、二・二六事件の話に戻って、石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)などを紹介する予定である。

*このブログの人気記事 2021・3・1(10位の吉本隆明は久しぶり)

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