◎押入の総理にも聞えるように云った
小坂慶助『特高』(啓友社、一九五三)の「Ⅲ 二・二六事件秘史」から、「一一、救出決行」の章を紹介している。本日は、その三回目。
青柳の言葉で、事態の急迫している事が窺われる。最早一刻の猶予も許されない吐端場〔ママ〕に来ていると思った。四人共内心の動揺を隠し負えず、おろおろしているばかりであった。
私は、いよいよ最後の来る処迄来たと思うと、心は白々と冴えて返って落着を取戻して来た。寒むざむとした、この広い応接間は一瞬熱気を帯びて来たかのように感じられる。
「幾等考えていても、時間を取るばかりで仕方がない、弔門者に紛らわして脱出すると云う事で決行します! 総理と弔門者との接触を避けるためには、先ず弔門者を一団として、松尾〔伝蔵〕大佐の部屋に誘導して、襖を閉め切り、同時に女中部屋から総理を連出す。叛乱軍の連中には弔門者が虐たらしい〈ムゴタラシイ〉屍体を見て卒倒したと、見せかけて自動車で病院に運ぶ、と云う事で裏門を突破する! これ以外に脱出の方策はない。と思うが皆の考えはどうですか?」
全身の神経を集めて、食い入るように聞いていた三人は、満々たる決意の色を顔に現わし
「良策です。それで実行しませう!」
と先ず福田秘書官が力強く云った。青柳、小倉の両人も無条件で賛成して呉れた。
実行に対する具体的な方法に就いて、微に入り細に亘る、打合せの結果、四人の分担が次の様に決った。
小坂〔慶助〕曹長――総理が羽織、袴の和服姿では不味い〈マズイ〉、着替のため女中と協力、総理に洋服に着替えて貰い何時でも出られる様に準備を整えて置く、弔門者が遺骸のある部屋に道入った瞬間、総理を玄関に連出し、福田秘書官と協力して「病人だ! 自動車を入れろ!」と呶鳴る。小倉伍長の手配に依る自動車に総理と福田秘書官を同乗せしめて裏門を突破せしめる。
福田〔耕〕秘書官――官舎に帰って淀橋の総理私邸に電話して、待機中の近親者十名内外、特に六十才前後の老人で男のみを、直ちに官舎に呼び寄せ、小坂の合図に依って、官邸に誘導する。自動車一台を裏門脇に待機させて運転手を必ず車の内に置く、弔門者を裏玄関広間で青柳軍曹に引き継ぎ、一行が部屋に這入ったなら、襖を閉めて直ぐに女中部屋に来て、小坂に協力し総理と一緒に自動車に乗り込み脱出する。
青柳〔利一〕軍曹――松尾〔伝蔵〕大佐の遺骸のある部屋附近に位置して、屍歩哨を懐柔し、総理の着替のための洋服類を運ぶ、小坂の行動を容易ならしめ、福田秘書官が誘導して来た弔門者を、玄関広間で受け継ぎ、室内に誘導する。焼香の際は死体の傍〈ソバ〉に近か付けないように留意する。死顔は絶対に見せてはならない。焼香は一人宛〈ズツ〉として時を稼ぐ。
小倉〔倉一〕伍長――表玄関の警戒本部に行って、巡察の時間を偵知した後、裏門附近に位置し、衛兵司令、歩哨、控兵等を懐柔して掌中の者として置く、小坂の「病人だ! 自動車を入れろ!」の呶鳴る声に応じ、裏門外に福田秘書官の準備してある、自動車を直ちに裏玄関車寄せ迄呼び入れる。
どこが一つ狂っても、重大な結果を生む、緊張した空気が部屋一杯に溢れていた。
「福田さん! 弔門者ですが、官舎に着きましたなら、どんな事があっても、騒いだり、驚いたりしてはいけない、官邸内の行動は一切憲兵の云う通りに振舞って貰いたいと貴男から充分に注意して置いて下さい。」
「承知しました。」
「それから自動車の運転手ですが、若し病人か怪我人でも出来ると困るから、と云う事にして裏門脇に待機するように良く言い含めて置いて下さい。」
「承知しました。」
身心共に溶け合って、其の一体となった、打合せは終った。応接間の時計は午後十二時二十分を指していた。決行に先立って、私は姿勢を正し
「それでは、只今から総理の救出に就て一言したい!
各自は自分の任務に向って、ベストを尽して邁進する。私は裏玄関附近に位置する。意外の障害の起った場合は、速かに連絡を取る事。以上」
と、命令句調で達した。悲壮な決意を表に現わし、四人は立上って固く手を握り合い、応接間を出た。
私も福田〔耕〕秘書官も、今一番頭を悩している事は、最悪の場合、何も知らない弔門者の老人連中を、禍中に捲き込みたくないと云う事である。それを思うと、其責任の重大さを自覚せずにはいられない。矢は既に弦を離れている、愚図々々していられない。先ず自分の任務の遂行である四囲に気を配りながら、女中部屋に這入った。二人の女中は私の姿を認め軽く頭を下げた。安心し切ったと云う態度だった。
「閣下の着替をして戴くのだが、洋服類は何処にあるのか?」
「ハイ! 寝室の隣の十二畳間に御座います!」
「十二畳の何処にあるのか?」
「ハイ! 左側の押入に御座います」
と府川きぬえが答えた。
「私が此処へ運んで来ますから、御手伝いをして閣下に早く着替えて載いて、待って下さい」
押入の総理にも聞えるように云って、部屋を出た。【以下、次回】