◎岡田啓介首相は避難先で二夜を過し……
小坂慶助『特高』(啓友社、一九五三)の「Ⅲ 二・二六事件秘史」から、「一一、救出決行」の章を紹介している。本日は、その五回目(最後)。
「閣下! 出ませう!」
呆気に取られている、二人の女中を押し退ける〈オシノケル〉ようにして、押入の襖を一杯に開け、総理の手を取って、力一杯引出すようにして、座敷に出した。総理は既に背広にオーバー姿であった。座敷に立った総理は二日間の窮屈な端坐に、よろめく様に私に寄かかって来た。総理の右脇下から左肩を入れて抱えた。女中の府川〔きぬえ〕さんが総理に帽子を、秋本さくさんが黒いマスクを夫々附けて呉れた。廊下に出て裏玄関に急ぐ途中で、息をはずませて来た福田〔耕〕秘書官が、飛び付く様に、総理の左脇に肩を入れ、重病人を二人で抱えるようにして、玄関広間に出た。生か? 死か? 名状し難い数秒だった。
「小倉伍長! 急病人だ! 車を入れろッ! 屍体など見るからだッ! 車ッ!」
大声で呶鳴りながら、車寄せに出た。突然の大声に何事かと、司令始め三、四名の控兵が飛び出して、此方等〈コチラ〉を見ているのにはギョッ! とした。
「小倉ッ! 早く車を入れろッ!」
僅か一、二秒の事であったが、自動車の来るのが遅いように感じられた(尾崎行雄氏の女婿佐々木久二氏の乗用車フオード三五年型)。自動車は呆気に取られて眺めている、警戒兵の前を通って、車寄〈クルマヨセ〉に横付けとなった。福田秘書官がドアーを開けた、総理の身体を押し込むようにして中に入れて、福田秘書官が直ぐ乗込んだ。車は音もなく、警戒兵注視の真只中を裏門を無事突破して其姿を消した。時は午後一時二十分であった。
総理救出の偉大なる奇蹟は遂に成った。その瞬間涙が止度なく出て来て仕方がなかった。昂奮の連続で張り詰めた気持も一度に弛み、心の焦点を失って呆然として車寄に暫く其侭立っていた。
どの位経った自分にも判らなかった。突然林〔八郎〕少尉が兵五名を連れて、裏門前に立っているのを認めてハット我に返った。救出がもう二、三分遲れていたらと思うと、総身〈ソウミ〉の毛穴が粟立つ思いだった。天佑だ! 神助だ! と思った。林少尉は裏門から玄関に這入って来た。敬礼して
「只今! 総理の近親者が弔門中です!」
と、何喰わぬ顔で云った。
「早く屍体を引き取るように云って下さい。」
「承知しました。伝えて置きます」
林少尉は其侭表官邸の方へ廊下伝いに姿を消した。
私は福田秘書官と岡田〔啓介〕総理の生存の発表の時期を打ち合わせして置く事を失念していた。あの侭直ぐ宮中にでも参内されて、新聞にでも発表されたら大変な事になる、一刻も早く引き揚げる事にしなければならない。目的を達した以上危険な場所に長居は無用だと思った。裏門にいる小倉伍長を呼び寄せた。
先づ弔門者を早く安全な場所に待避させる必要がある。小倉〔倉一〕と二人で遺骸のある寝室に行った。弔門は既に終っていた。
「弔門の方は、一刻も早く秘書官々舎の方へ御引取下さい。遣骸は早く私邸の方へ移すように手配致します」
私の言葉に弔門者一同は、心残りさうに黙々として引揚げて行った。
青柳〔利一〕、小倉と共に、二日間に亘る悪戦苦闘の後を振返り、心神共に消耗し切った身体を、この奇蹟にも等しい、首相救出の成功に喜びを全身に感じつつ、足の運びも軽く、九段下の憲兵隊に引き揚げた。
松尾〔伝蔵〕大佐の屍体は、私達が引き揚げてから、間も無く、飽く迄岡田首相の遺骸として、迫水〔久常〕秘書官が、再度訪れた平出〔英夫〕海軍中佐や大久保秘書官に、事情を打ち明け、淀橋の私邸から棺を取り寄せて、納棺し、夕刻に私邸に引き取る事が出来た。この遺骸が首相官邸を出発する時は、栗原〔安秀〕中尉以下の主力将兵は、官邸の玄関から議事堂附近迄、整列して礼を尽した厳粛な見送りをした。
岡田首相は、避難先の淀橋区下落合の佐々木久二邸に、二夜を過し廿九日夕刻宮中に参内した。御学問所で拝謁を賜った時陛下は
「岡田! 無事でよかった!」
と涙さえお浮べになってお喜びになり、岡田首相も恐懼感激して、落ちる涙を押え切れなかったとの事である。
岡田啓介首相が官邸日本間を脱出したのは、二月二七日午後一時二〇分のことであった。文章にもあるが、首相は。その足で宮中に向かうことなく、淀橋区角筈(つのはず)の私邸に戻ることもなく、淀橋区下落合(しもおちあい)の佐々木久二邸に避難した。岡田首相の生存が、宮内省から発表されたのは、二月二九日午後四時四八分のことであった。官邸脱出から生存発表までの経緯については、かつて、当ブログで紹介したことがある(「なぜ岡田啓介首相は、救出されたあと姿を隠したのか」二〇一三・一〇・一三)。
明日は、話題を変える。