◎どこまでも「総理の屍体」で押し通すよりほかない
小坂慶助『特高』(啓友社、一九五三)の「Ⅲ 二・二六事件秘史」から、「一一、救出決行」の章を紹介している。本日は、その二回目。
「福田さん! 弔門者は直ぐに集める事が出来ますか?」
「直ぐ集ります! 淀橋の総理の私邸に昨日から全部集って遺骸の引取るのを持っているのです!」
「栗原〔安秀〕中尉は弔門者の官邸に這入る事を承知しているのですか?」
「小松〔光彦〕秘書官から栗原中尉の処え連絡があったとすれば、承知していると思います!」
「いや! これは一番大切な事ですから、一応栗原中尉に直接確めて見る必要かあります。青柳! お前表玄関に行って、栗原中尉に福田秘書官から、総理の極く近親者達が遣骸に焼香させて戴きたいと申出があったが、差支ないか、どうかと訊いて来て呉れ」
「承知しました! 行って参ります!」
青柳〔利一〕は瞳を輝かして、表玄関の方え出て行った。福田〔耕〕秘書官は不安そうな表情で
「小坂さん! 総理を弔門者の中に紛れ込ます、と、云いますと、どういう風におやりになるお積りですか? 此処え来る人達は、総理の極く内輪の者ばかりで、皆が総理の死を信じているのです。そこえ突然生きている総理が顔を現した、とすると屹驚〈ビックリ〉して、どうゆう事になるか判りません。此点心配ないでせうか?」
「それでは予かじめ弔門者に総理の生きている事を話して置いたらどうでせう」
と、小倉〔倉一〕が云った。
「それは無理だ。多勢の弔門者に総理脱出の一役をやって貰う事は不可能な事だ。第一、この危険な仕事は我々だけで沢山だ。何も知らない多くの人達を捲き込みたくない。第二には総理の生存を伝えて、救出の一役を買って貰うように説説すれば勿論身内の人達だから直ぐ承知はするだろうが、総理が生きていると知ったなら、心の動揺が大きく、動作が不自然となり、収拾のつかない事になるのは明瞭な事だ。これは最少の我々だけで、決行する以外成功の道はない!」
と、反駁した。近親者に生きている総理の姿を見せる事は、絶対に避けなければいけない。そのためには松尾〔伝蔵〕大佐の屍体も見せる事も出来ない。焼香ともなれば、必ず死顔に掛けた白布を取って、見るのが常識である。これを何処迄も総理の屍体で押し通すより外に道はない。随分不自然な無理なやり方になる! 此点で亦一頓座を来した。
そこえ青柳軍曹が、瞳を輝かせて帰って来た。
「中尉の承認を得て来ました。予め承知していたようです、弔門者は憲兵に委せる。人員は十名内外迄は差支えないと云う事です」
で言葉を切った。青柳は、一寸顔を曇らせて声を落し
「形勢は彼等に不利の様子です。栗原の態度を今朝から見ると、大分硬化しています。池田〔俊彦〕、林〔八郎〕、対馬〔勝雄〕等の将校連中も、真蒼〈マッサオ〉な顔色で、表情もけわしく栗原中尉に何事か喰い下っていました。早く片付けて仕舞はないと、どうなるか判りません!」【以下、次回】