◎ヒットラーの人物は赤尾某よりも劣る(田中都吉)
今月七日を最後に、上原文雄著『ある憲兵の一生』(三崎書房、一九七二)の紹介から離れていたが、ここで再び、この本を紹介してきたい。
本日、紹介するのは、「第二章 青雲の記」の「憲兵学校から少尉任官まで」の節で、これは、今月五日から七日にかけて紹介した「痛恨近衛密使逮捕の顛末」の節に続く説である。
憲兵学校から少尉任官まで
私は、昭和十三年〔一九三八〕六月一日から十一月まで、陸軍憲兵学校に丙種学生として入校、共立女子専門学校内の借教室に通学し、外事警察専攻の課程を修業した。
卒業にあたり、優等生として陸軍大臣賞の銀時計を授与され、木村陸軍次官の前で『満州における憲兵の諜報活動』と題して講演した。
卒業後も再び対ソ関係を担任し、ソ連公館関係内外人の偵諜にあたった。この間通商代表部関係内外人を取調べたこともあったが、通商代表部は北鉄〔北満鉄路=東清鉄道〕代償物資の注文で、造船所や工場に検収技術者を派遣し、日本の生産設備や能力は、とっくにお調べずみとのことであって、諜報活動の確証も得られず釈放してしまった。
したがって、あまり良い成績をあげることなく過ぎてしまったが、二、三のエピソードを拾ってみると。
語学数師としてソ連大使館に出入していた佐藤氏の夫人は、旧帝政ロシアの将軍の娘で美人であった。佐藤君との間に産れた国坊は混血のため、麻布小学校で生徒にいじめられて、時々学校から逃げ帰ることがあるというので、私は夫人の依頼をうけて担任を訪問して、差別をせぬようにしてくれと文句を言いに行ったことがある。
そんなことで、夫人からは大変信用をうけていた。ところが夫人は、夏は家の中では全裸で暮すことになっていて、警視庁や他の人が行くと、服を着用して面接するのに、私にだけは全裸のままで面接するという特別待遇で、紅茶を入れ、手製のパンやジャムも出してくれる。
白くて大きな美人の全裸サービスというわけである。
白い馬の尻ほどの大ヒップを振り振り、茶色の毛のあたりまで拝観できるのである。
同僚が是非一緒に連れていけというので連れて行くと、扉の中で、
「独りか?」
と聞く、嘘を言うわけにもいかないので、
「親友と二人だ」
と答えると、
「ちょっと待って」
と着物を付けてから応待されてしまう。
こんな冥利につきた余得もあった。
昭和十三年、日独防共協定〔ママ〕が締ばれる前後のことであった。
河合〔謙昌〕主任が、元駐ソ大使田中都吉〈トキチ〉氏を訪問するというので、同行したことがある。
大使は自邸にわれわれを招じ入れて、
「憲兵諸君が上司に報告をせぬと約束してくれれば話すが」
と前提して、
「実は、昨夜自分は大宮御所〈オオミヤゴショ〉に参内して、皇太后陛下〔貞明皇后〕に拝謁し、日独防共協定〔ママ〕を阻止するため、陛下に進言してほしいと、お願いを言上して来た。
これが五相会議で決まろうとしているが、自分が見て来たところでは、ヒットラーという人物は、日本の赤尾某よりも劣る人物である。そんな連中と手を結んでは、日本の国運が危い、自分は生命を屠〔ママ〕しても反対しなければならない」
ということであった。
後でこの問題は、日独伊三国同盟にまで発展したのであった。【以下、次回】
文中、「これが五相会議で決まろうとしている」(下線)とあるが、これは、一九三九年(昭和一四)一月二三日の五相会議(内閣総理大臣・陸軍大臣・海軍大臣・大蔵大臣・外務大臣による会議)が、三国同盟案について、「日独伊の相互武力援助はソ連のみを対象とし、第三国は状況によって対象にする」と決定したことなどを示しているのか。なお、日独伊三国同盟の締結は、一九四〇年(昭和一五)九月二七日である。
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