礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

2013年前半「読んでいただきたかったコラム・ベスト10」

2013-06-10 05:47:08 | 日記

◎2013年前半「読んでいただきたかったコラム・ベスト10」

 昨日の続編である。これまでのコラムのうちで、特に自信を持ってお送りし、また読んでいただきたかったコラムを選んで紹介する。題して、「読んでいただきたかったコラム・ベスト10」。本日は、その2013年前半バージョンである。

1◎大正12年9月4日、陸軍被服跡の惨状を目撃する 2013・1・19■昨日の続きである。調布市の竹内武雄さんが書いた『郷土の七十年』(啓明出版、一九七九)から、「大震災と災害」という文章の後半を紹介する。
2◎周武廃仏の後に石仏と石経とが始まった 2013・4・15■本そのものより、本に挟まっている付録のほうに興味を覚えることがある。数日前に入手した『法律史』(現代日本文明史・第五巻)などは、その一例である。
3◎「革命よりも戦争がまし」、「革命よりも敗戦がまし」の昭和史 2013・2・18■昨日紹介した高木惣吉『連合艦隊始末記』(文藝春秋新社、一九四九)』の「政治・戦争・人」によれば、戦後になってから、岡田啓介元首相や及川古志郎元海相は、日本が戦争に突入したのは、「日本が二つに割れる」のを避けるためであり、やむをえなかったという感想を表明したという。
4◎家族の将来に関する80年前の予言 2013・3・9■高田保馬の『社会雑記』(日本評論社、一九二九)という本を読んでいたら、こんなことが書いてあった。八〇年以上前の本だが、家族の将来に関する、この予言は当たっている。さすがは、社会学者である。
5◎高木惣吉が描写する西田幾多郎の風貌 2013・2・16■元海軍少将の高木惣吉という人は、軍人らしからぬインテリであり、また巧みな文章を操る人であった。
6◎三木清の死と知識人の無気力(大熊信行『国家はどこへ行く』より) 2013・1・11■本年になって、二回ほど、大熊信行について取り上げた。
7◎「一億総懺悔」論のルーツは、石原莞爾か 2013・1・9■昨日の続きである。大熊信行『戦争責任論』(唯人社、一九四八)の「首相宮と石原莞爾中将」から、昨日、引用した箇所に続く箇所を引用する。
8◎坂ノ上言夫、坂ノ上信夫は同一人物、ではその本名は? 2013・1・3■以前から、坂ノ上言夫という文筆家のことが気になっていたが、どういう人物か皆目見当がつかなかった。国立国会図書館の書誌情報によれば〈サカノウエ・ノブオ〉と読むようだが、生没年についてのデータは示されていなかった。
9◎入学者選抜における学科試験の廃止によって生じた弊害 2013・3・22■昨日の続きである。平田宗史氏の『教育汚職』(溪水社、一九八一)によれば、一九二七年(昭和二)一一月、文部省が中学校試験制度を改め、入学者選抜における学科試験の廃止を指令した際、次の諸点が懸念されたという。
10◎警視庁令「興業取締規則」(1940)と「脚本」の検閲 2013・5・26■昨日の続きである。ここのところ、日本演劇協会編纂『演劇年鑑 昭和十八年版』(東宝書店、一九四三)の巻末にある「興業取締規則」(警視庁令第二号、一九四〇年二月一日)を紹介している。

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ブログ開設1周年記念「読んでいただきたかったコラム・ベスト10」

2013-06-09 08:42:17 | 日記

◎ブログ開設1周年記念「読んでいただきたかったコラム・ベスト10」

 ブログ開設から既に一年以上経った。この間、多忙なときや、体調がよくないときもあったが、ほぼ毎日、ブログを更新してきた。
 本日は、これまでのコラムのうちで、特に自信を持ってお送りし、また読んでいただきたかったコラムを選んで紹介する。題して、「読んでいただきたかったコラム・ベスト10」。どういうわけか、そうしたコラムにかぎって、アクセス数は少なかった気がする。
 なお、昨年のものだけで、すでに一〇本になってしまったので、本年のものは、また選んでみたい。

1◎ワラの揉み音はノックの代り 2012・6・25■昨日に続けて、農学博士・小野武夫のエッセイの紹介。出典は、『村の辻を往く』(民友社、一九二六)。
2◎岡田首相を救出して非難・迫害された小坂憲兵曹長 2012・8・10■昨日に続き、小坂慶助『特高』(啓友社、一九五三)の内容を紹介する。
3◎羽仁吉一が二重橋にお詫びに向かった理由 2012・11・20■終戦の玉音放送のあと、宮城前でひれふす人々があらわれたことについて、法学者の星野安三郎先生(故人)は、「アレは動員だよ」と言われた。
4◎昭和初年における私立医学専門学校の「不正入学」問題 2012・6・25■戦前の教育関係の専門誌である『教育思潮研究』をめくっているうちに、興味深い記事を見つけた。
5◎柳田國男と天真神楊流柔術(西郷四郎と柳田國男の意外な接点) 2012・7・18■定本柳田國男集の別巻に載っている「年譜」によれば、柳田國男(当時は松岡姓)は、一八九〇年(明治二三)の冬、茨城県布川町から上京し、兄・井上通泰の家(東京市下谷区徒士町)に同居した。
6◎古畑種基と冤罪事件 2012・5・28■以前、古畑種基〈タネモト〉という法医学者について、調べてみたことがあった。調べれば調べるほど、不可解な人物という印象が強まっていった。 
7◎代用燃料車の燃料としてのトウモロコシ(雑誌『汎自動車』より) 2012・9・9■あいもかわらず、代用燃料車の話で申し訳ないが、雑誌『汎自動車・技術資料』一九四三年四月号(通巻二四〇号)に、「窮余の一策大発見 新代用燃料の登場」という興味深い記事が載っていたので、紹介したい。
8◎一九四六年元旦の詔書に対する詔勅講究所長・森清人の見解 2012・11・20■八月二四日のコラムで、外務省通訳養成所編纂『日米会話講座』第一巻第二輯(日米会話講座刊行会、一九四六)という文献を紹介した。
9◎河上肇の文章術について(あるいは、松崎蔵之助と河上肇) 2012・11・7■昨日に続いて、河上肇の著書『思ひ出』(一九四六)から。
10◎香川照之と七代目市川中車 2012・6・7■昨日のニュースで、六月五日、俳優の香川照之さんが九代目市川中車を襲名したことを知った。

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明治天皇、三好退蔵検事総長に犯人の死刑を命ず

2013-06-08 04:43:55 | 日記

◎明治天皇、三好退蔵検事総長に犯人の死刑を命ず

 本日も、大場義之さんの『大津事件の謎に迫る』(文藝春秋企画出版部、二〇〇六)について、紹介する。ただし、同じような話が続くのもどうかと思うので、この話は、本日でいったん切り、後日、再開することにしたい。
 昨日は、同書の二四〇~二四二ページから引用したが、本日引用するのは、それに続く部分で、二四二~二四四ページから。

 このあたりを伊藤博文の五月一七日付松方正義首相あての書簡でみると、
「小生一昨十五日見舞之為神戸ニ井上伯ヲ同行(略)」(三〇九頁)
と、いかにもニコラス皇太子を見舞うのが神戸へ行く第一の目的であったかのように書いている。しかし、書簡には見舞いの内容はいっさいふれていない。実際に見舞っているのであれば、皇太子の様子など松方に知らせるのが当然のことではあるまいか。当時の「神戸又新日報」〈コウベユウシンニッポウ〉をみても、五月一七日一面で伊藤博文と井上馨が一五日午後九時着の汽車で来神し諏訪山常盤西店に投宿したことを報じるのみで、翌日神戸港に停泊中のアゾヴァ号艦上にニコラス皇太子を見舞ったことなどの報道はない。
 伊藤は一五日午後、青木〔周造〕、西郷〔従道〕、三好〔退蔵〕の三人が明治天皇の御前に伺候して何をしようとしているかを十分知っていた。もちろん腹心の伊東巳代治も同様であった。三人はこれまでの東京や京都での情況を天皇に奏上説明し、その判断を天皇に委ねることでしか現時点での結論は出せない。しかしその場に伊藤博文がいては、その後の処理が難しくなる。端的に言えば、この場に伊藤がいてはのっぴきならの形で最終結論が出てしまう危惧があった。伊東巳代治はそのことをおそれた。それには伊藤を京都から遠ざける他はない。
 天皇は仕方なく裁定せざるを得なかった。同日午後七時五五分、野村靖(京都御所の会議の出席者の一人)が、松方総理大臣あてに次の電報を発している(東京で着信したのは翌五月一六日午前六時五分)。
「津田ヲ死刑ニ処スルコトハ陛下ヨリ直チニ三好ヘ御命令アリ依テ大審院判事ヘモ亦其思召ヲ貫徹セシム様御尽力アリタシ」
(右電信文(壱)輻湊遅延略、内容暗号文)」(二四七頁)
 しかし、明治憲法を天皇の名によって発布した限りにおいて、天皇に死刑の命令を決定させてはならない。そのため、この憲法作成の実質的な作業に参加していた伊東巳代治は、二〇日の大審院判・検事への勅語下賜に向けて動きだしたのである。

 大場義之さんが引用している電文は、山梨学院大学社会科学研究所から出た『大津事件関係史料集』の下巻(一九九九)にあるもので、明治天皇が、津田三蔵を死刑に処す意思を表明したことを示す決定的な証拠である。「天皇は仕方なく裁定せざるを得なかった」のではなく、明確に裁判に介入する意思を持ち、それを実行したのである。
 ところが、大場さんはそのように見ない。そのあと、伊東巳代治の画策によって、「二〇日の大審院判・検事への勅語」は、裁判介入にならない表現をとることになり、明治天皇が裁判介入は、最終的に回避されたと捉えるのである。
 これについては、反論があるが、機会を改める。なお、この事件に、興味をお持ちの方には、新井勉先生の『大津事件の再構成』(お茶の水書房、一九九四)を読まれることをおすすめしたい。また、拙著『大津事件と明治天皇』(批評社、一九九八)も参照していただければ幸甚である。

*今月1日と7日(昨日)は、アクセスが多かったようです。ブログ開設以来、アクセスが多かった日のランキングと、その日のコラムのテーマを一覧で示します。ご覧の通り、テーマは、さまざまであり、どういうテーマを選ぶと、アクセスが多くなるかという傾向は、いまだにつかめません。

1位 本年4月29日 かつてない悪条件の戦争をなぜ始めたか(鈴木貫太郎)    
2位 本年2月26日 新書判でない岩波新書『日本精神と平和国家』(1946) 
3位 本年2月27日 覚醒して苦しむ理性(矢内原忠雄の「平和国家論」を読む)  
4位 昨年7月2日  中山太郎と折口信夫(付・中山太郎『日本巫女史』)    
5位 本年2月14日 ナチス侵攻直前におけるポーランド内の反ユダヤ主義運動  
6位 本年4月30日 このままでは自壊作用を起こして滅亡する(鈴木貫太郎)  
7位 本年1月2日  殷王朝の崩壊と大日本帝国の崩壊(白川静の初期論文を読む)
8位 本年1月10日 『新篇路傍の石』(1941)における「文字の使用法」  
9位 本年6月1日 警邏線、夜寒や背に治安維持(『警察作文の作り方』より)  
10位 本年6月7日 伊藤博文、京都御所での重臣会議を中座し、神戸に向かう

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伊藤博文、京都御所での重臣会議を中座し、神戸に向かう

2013-06-07 06:07:33 | 日記

◎伊藤博文、京都御所での重臣会議を中座し、神戸に向かう

 本日も、大場義之さんの『大津事件の謎に迫る』(文藝春秋企画出版部、二〇〇六)について、紹介する。
 昨日は、同書の二五四~二五五ページから引用したが、本日引用するのは、それより前の二四〇~二四二ページから。

 伊藤には御所での成り行きがわかっていた
 ということは、五月一五日に神戸に赴いた際、伊藤は、この日午後からの京都御所での会議の成り行きにあらかじめ見当をつけ、もし天皇の裁定を仰ぐような事態であれば、その前に自分と井上馨は相応の名目をつけて席を外すことを予定していたと思われる。
 この件には、秘書的な立場で伊藤について来ていた枢密院書記官長伊東巳代治も相談にあずかっていたであろう。あるいは伊東巳代治が右のような事態を想定して、伊藤博文たちの神戸行きのアイデアを考え出し、手配をしていたのかもしれない。
 伊東巳代治の考えでは、「間もなくロシア政府から、今回の事件に対する意向の表明が、日本政府あてにもたらされるとみられる。シェヴィッチ公使が滞在している神戸に行けばロシア政府の事件についての意向がわかる。すぐに天皇にも報告できる。一五日の京都御所での会議には、今の段階ではこれ以上深くかかわらず、途中で切り上げるのが得策。ロシア政府の意向をシェヴィッチ公使から聞くために、伊藤伯と井上伯は神戸へ行かれたらいかがですか」ともちかけたのではないか。
 伊東巳代治枢密院書記官長が、長州出身の伊藤、井上両伯爵にこのようにもちかけたと私が考えるのは、次のようなわけがある。
 司法省の調査では、ロシアの刑法にも今回の事件に直接該当する条文はない。ロシアを訪問した外国の皇帝を殺害した場合は死刑であるが、傷害のみならば二年半以下の懲役を科すだけである。
 肝心な事は、ロシア皇帝アレクサンダー三世がもっとも気にかけるのは、ニコラス皇太子が、神戸港のアゾヴァ号の艦上で傷の養生をしているとはいえ、見方によっては、いわば人質のような格好で日本に滞在していることである。それも軽傷で、生命に別状はなかった。日本側が驚愕するような過酷・過大な賠償の要求などをロシア側がいってこないであろうとの予測もついた。
 父帝アレクサンダー三世の立場になって考えれば、もし日本に過酷な要求をしてニコラス皇太子の身に、これ以上の危険なことでもあれば、せっかく軽傷ですんでほっとしているのに、事態をさらに悪化させる心配があると考えるはずである。何よりもアレクサンダー皇帝が望んでいるのは、ニコラス皇太子を早く日本から無事帰国させることだろう。すぐにも日本政府に対して返事がくるはずだ。それも多分ロシア刑法が定めている範囲内でことはおさまるのではないか。
 伊東巳代治は、このように事態を予測して、伊藤になるたけ早めに京都を離れるように仕向けたのではなかったかと考えられる。
 そのため、一五日午前中、伊藤博文が文章に手を入れるまでして賛意を表した青木外相提案の緊急勅令案に、伊東巳代治は、伊藤が驚いて日記に残すほど強く反対もした。

 大場義之さんの解釈はこうである。――伊藤博文や井上馨は、皇室罪の適用に反対であったが、この日の重臣会議では、天皇の聖断(皇室罪適用)を仰ぐことになりそうだった。その場に、自分達がいるとまずいと判断し、神戸に向かうという理由をつけて、退席した。これには、同じく皇室罪の適用に反対していた伊東巳代治の入れ智慧もあった。
 どうして、そのような推論になるのだろうか不思議でならない。
 伊藤博文は、事件当初から皇室罪の適用=犯人死刑を主張していた。この日、天皇の「聖断」があっても、歓迎する立場であって、困惑する立場にはない。最終的には、天皇が聖断を下すことになるだろうと見通したもののが、なかなか結論が出ないのにいらだち、中座したといったところであろう。伊藤にとっては、重臣会議の結果よりも、ロシア皇帝からの回答のほうが、気がかりだったのであろう。
 もし、伊藤博文や井上馨が、天皇の「聖断」(皇室罪適用)を避けたいというのであれば、その場で、皇室罪適用は許されないと、強く主張し、会議を決着させれよいのである。なお、当時の伊藤博文は、実質的に政府のリーダーであり、一方、明治天皇の政治的発言力は、確立していなかった。伊藤は、最初から、「聖断」そのものに期待していなかったともいえる。
 また、昨日のコラムで見たように、伊藤と井上は、その翌日の五月一六日、神戸で、青木周蔵外務大臣から、ロシア皇帝アレクサンダー三世が、この事件に対し、何ら賠償を要求する意を持ってもいないことを聞かされたあと、「ロシア公使・シェヴィッチに、犯人・津田三蔵を死刑に処すべしとの要求を提出させなければだめだ。もう一度、シェヴィッチのところに行って交渉してこい」と命じている。そういうことを言った伊藤と井上であるからして、皇室罪の適用に反対であったということは、ありえない。もちろん、重臣会議で、天皇の「聖断」(皇室罪適用)を仰ぐことになりそうだったので、その場にいるのはまずいと考えた、などということも、ありえないのである。【この話、続く】

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伊藤博文、ロシア公使に犯人死刑の要求を出させようとする

2013-06-06 13:48:43 | 日記

◎伊藤博文、ロシア公使に犯人死刑の要求を出させようとする

 本日も、大場義之さんの『大津事件の謎に迫る』(文藝春秋企画出版部、二〇〇六)について、紹介する。本日から、少しずつ、この本の内容の「本質的」な部分にはいってゆきたい。
 まず、同書二五四~二五五ページから引用する。

 青木周蔵外相の憤激
 伊藤博文もそんな自分に腹だたしかったに違いない。五月一六日、伊東巳代治が言っていたロシア政府からの返事がすでに来ており、青木周蔵外務大臣がシェヴィッチ公使から受け取っていた。伊藤たちは青木外相が公使から伝達されたロシア政府の意向をみせてもらったが、かねて伊東が予測した通りロシア皇帝アレクサンダー三世は何の賠償も要求していなかった。
 青木外相は伊藤博文と井上馨の二人と神戸の旅館常盤で会った際、先にロシア公使シェヴィッチとの会談をすませて気分をよくしていたから、青木は伊藤と井上の二人と顔をあわすなり、英語で(万事は旨くいきました)といった。すると、伊藤と井上の二人が、青木とシェヴィッチとのやりとりをしつこく聞き、青木の交渉の仕方が甘すぎると叱りつけ、あげくのはてに伊藤博文は、
「露公使をして、三蔵を死刑に処すべしとの要求を提出せしむるを以て優れりとす」
といって、青木外相をシェヴィッチ公使のもとへ追い返した。
 そして、青木がまたそのまま露公使にいってしまったから話がややこしくなってしまった。
 事件後、青木にかわって外務大臣になった榎本武揚にシェヴィッチ公使が書簡で、
「五月十六日神戸ニ於テ青木子爵ヨリ口頭ノ請求ヲ以テ『十一日ノ犯罪者ヲ死刑ニ処セラレ度〈たし〉』ト余ヨリ明カニ書面ヲ以テ要求スベシトノ事アルニ際シ余ハ之ヲ拒絶セシガ我ガ皇帝陛下ニハ右ノ拒絶ヲ嘉納セラレタリ」(二八七頁)
と書いているから事実であろう。
 このようにシェヴィッチ公使と困難な交渉をしている青木周蔵外務大臣に伊藤博文は辛く当たった。それはどちらが外務大臣かわからないと青木が自伝で書くほど激しいものであった。
 伊藤と共に神戸に来ていた井上馨も元外務大臣として伊藤に平仄〈ヒョウソク〉をあわすように強い態度で青木に対した。そこで青木も怒って、シェヴィッチ公使が今回の事件について記した文書を伊藤と井上に渡すと早々に京都へ引き揚げたのである。

 大津事件の発生(一八九一年五月一一日)を知った直後から、伊藤博文は、犯人を「死刑」にすることを主張していた。
上で引用した部分にもあるが、伊藤のこの主張は、ロシア皇帝アレクサンダー三世が、この事件に対し、何ら賠償を要求する意を持ってもいないことが判明したあとも、変わらなかった。
 そればかりか伊藤は、井上馨とともに、青木外務大臣に対し、次のように要求した。「ロシア公使・シェヴィッチに、犯人・津田三蔵を死刑に処すべしとの要求を提出させなければだめだ。もう一度、シェヴィッチのところに行って交渉してこい」。
青木外相はやむをえず、再度、シェヴィッチのもとにゆき、「十一日の犯罪者を死刑に処せられたい」という書面を、ロシア公使の名前で発行するよう求めるが、拒絶される。
 シェヴィッチは、青木外相からこうした要求があったが、拒絶した旨を本国に連絡し、アレクサンダー三世から、「嘉納セラレタ」という。
 大津事件の処理に関わって発生した有名なエピソードである。
 このエピソードからもわかるように、伊藤博文や井上馨は、どんな手段をとっても、津田三蔵を死刑にしようと画策していたと思われる。ところが不思議なことに、『大津事件の謎に迫る』の著者・大場義之さんの見方は、そうではないようなのだ。【この話、続く】

【昨日のクイズの正解】1 大津事件が起きた1891年に製造■「金子」様、正解です。

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