礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『統制経済論』の原稿を紛失した高田保馬

2013-06-15 20:31:02 | 日記

◎『統制経済論』の原稿を紛失した高田保馬

 社会学者・経済学者の高田保馬の『社会歌雑記』(甲文社、一九四七)という本については、以前、紹介したことがあるが、再度採り上げてみよう。
 同書によれば、高田は、一九四三年(昭和一八)年の八月に、一冊分の原稿を紛失し、一月余りで、再度それを書き直したことがあるという。

(40) わが行くは人ふみしめし道ならずおどろ〔棘〕が中をい行き難さふ〈ナズソウ〉
 昭和十九年に『統制経済論』を公にした。公刊までの事情について忘れ難いことがある。たしか昭和十八年の夏八月であつたらう。『統制経済論』と題する一冊の原稿を抱いて郷里佐賀に帰り、日々目次の整理をするとともに校訂を加へてゐた。滞郷旬余、八月末に帰洛の途についたが、此原稿を鳥栖〈トス〉駅にて紛失してしまつた。置き忘れたのを持ち去られたのである。八方手を尽しても行方は全く判らぬ。私は、すつかり落胆した。けれどもどうしても奮起一番せねばならぬ。日本の現に実現しつつある形の統制経済に純理論的考察を加ふるといふ仕事は、少くも私の見るところ人によつても着手せられてゐない。而してそれは勢力の作用を重視する私の立場からでなくては十分に之を行ふことは出来ぬ。これは或は誤つてゐるかも知れぬ。
 しかし誤つてゐないといふのは私の確信である。どうしても、私見を書きまとめる義務があると思つた。そこで帰洛の後、数日にして再び起稿した。此度は前の原稿ほどに文献の引用をすることはやめた。簡明に、しかし論ずべき論点だけは残さぬやうにして、初秋のうちに書き上げた。一ケ月といふ計画ではあつたが、予定より遅れたのは已〈ヤム〉を得ない、この原稿遺失のことについて、数多の友人先輩から懇切なる慰問と同情とを給はつたことは、私の長く忘れ得ざるところである。
 私から見ると、統制経済に関する理論的分析としては私の進むでゐる道が自然の大道である。私の論述が細部に於てあまたの欠陥をもち誤謬をさへ含むであらうことは、固より〈モトヨリ〉予期し承知してゐる。けれども根本の立場そのものは、承認せられなければならぬものと思ふに拘はらず、日本の経済学界に対してすら之を期待しがたい。幾つかの批評はあらはれたが、それらの懇切なる態度に対しては感謝してゐるにも拘はらず、根本的承認の意向を認め難いやうに思はれる。私はそこに孤独感を深めざるを得ぬ。当時の連作の一。「淋しさの身には親しも古へもひとりい行きし人は然りき。」、「たがはじとまこと一すぢとめ行きて人間の声はきかじとぞする。」

 原稿を失くしたこともショックだったろうが、せっかく書き直して世に問うた本に対して、期待していた評価が得られなかったことは、それ以上のショックだったのではないだろうか。「わが行くは人ふみしめし道ならずおどろが中をい行き難さふ」という歌は、そうした作者の感情をよく表している。
 文中に、「勢力の作用」という言葉が出てくる。この言葉の説明は厄介だが、吉本隆明のいう「関係性」という言葉は、これに近い概念なのではないか、などと私は考えている。 

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「乞食」の言葉で自殺を思いとどまった上田操

2013-06-14 19:44:38 | 日記

◎「乞食」の言葉で自殺を思いとどまった上田操

 元・大審院判事の上田操は、戦後、すべてを失って自殺を考えていたとき、日比谷公園にいた「乞食」に話しかけられ、自殺を思いとどまったという。この話も、野村正男『法曹風雲録』下巻(朝日新聞社、一九六六)に出てくる。

――終戦の頃はほんとうにいやな思い出ですね。
「私には一物もないでしょう。家内はないでしょう、子供も戦争の為に支那の奥地にゆくし、また戦災で怪我したり、その上に一万円余の退職金も封鎖されるし。恩給は僅かばかりでしかも支払われないので食べてゆくことができなくなりました。しようがないので、これははなはだお恥ずかしい次第ですけれども、色紙に絵を描いて日本橋の友人の店を借りて進駐軍の将校たちに売ったのです。ところがこれが割合よく売れましてね」
――人生のどん底時代ですね。
「当時のことを思い出しますとたしかに行詰ってどうにも生きてゆくことがむずかしいという状態でした。その頃三笠宮の奥方の親御さんと私は懇意でありましたのですが、その人が採集箱を持って秩父の山奥で野たれ死〈ジニ〉をしたことがありました。また私の学習院時代の恩師で憲法の清水澄〈トオル〉先生、あの先生が熱海の錦ケ浦で飛込んで死なれました。私はこうした事件に強いショックをうけましたのです。そんなことを考えまた行詰った自分の身辺のことを考えているうちに、私はいっそ死んでしまおうかと思うようになりました。その頃の或る日、ちょうど秋でした。私は日比谷公園のベンチでじっと考えていたら、〝モシモシ〟という人があってね。それが乞食なんですが、立派な恰幅の人で、〝あんた死にやせんか、死ぬ気になっているのじゃないか〟というので、〝そのとおりです〟〝どうもあんたの様子はただごとではない。私は戦前満州で大官であった、あんたも役人かなにかやっていたろう〟というのです。〝わしは大官であったけれども着のみ着のまま、妻子もみんな亡くなってしまい、ボロボロの姿で日本に帰って来たときには、もう同僚は偉くなって相手にしてくれない。それで私は、こんなことをしていてはいかんと思って断然身を落した。そして乞食になった。そうしたら食うものは銀座の裏に行けばたくさんあるし、寝るに不足はないし、金は共同便所のところに行くと落ちている。それで、金はあるし食べることや寝るのに不自由はない。どうだ君もひとつ決心せんか、そんなことをしておったらいのちがないぞ〟というのです。それで一週間目に返事をするという約束をしたわけです。ところが、その約束をした晩かその翌晩のこと、寝ていたら夢で、なにか神様みたいなものが出て来て、〝お前は乞食になる必要はない。お前は絵を描いて生抜け〟というお告げみたいたものがあったのです。それで私はガバッと起きて、戦前いつも色紙を買ったりなんかしていた店が護国寺のわきに焼け残ったのがあったので、そこへ行って、そのときに千円しかもっていなかったですよ。そのうち六百円出して筆や墨や紙や絵の具やを買おうとしたら、そこの主人が〝こんな金いらん〟というのです。しかしそれを無理に受取らしてそれらの材料を買って来て、その晩から暗い電気の下で絵を描いたのです。その乞食の人にはとうとう会いに行かなかったのです。それが一つの大きな転機になりましてね。描けば一枚で百円取れるのですからね」
――街頭で。
「街頭というよりも、友人の計理土の小さい事務所が空いていたんで、そこの一室をただで貸してもらっていたのです。当時OSS〔Overseas Supply Store〕が白木屋百貨店にあって、そこへ通ってくる進駐軍の海軍の将校に買ってもらったのです。みんな大学ぐらいは出たような人々で、墨絵で富士山をかけとかバラや百合の花をかけと言うのですよ。そのうちに〝明日出発するから五枚かけ〟とかいうことになり、だんだん多くなってなんともしようがなくなってしまったのです。私も疲れるし、電気は暗いし、目が疲れてしまうので、しまいにはとうとう廃業しましたけれどもね」

 上田操は、小学校時代から近衛文麿と親しく、京都大学時代は、原田熊雄・木戸幸一と同じ下宿だったという。
 文中に出てくる清水澄は、高名な憲法学者で、最後の枢密院議長。日本国憲法施行の年に、「幽界ヨリ我國體ヲ護持シ今上陛下ノ御在位ヲ祈願セント欲ス」などの言葉を残し、投身自殺した。

今日の名言 2013・6・14

◎どうだ君もひとつ決心せんか、そんなことをしておったらいのちがないぞ

 元・大審院判事の上田操が自殺を考えていたのを見抜いた「乞食」は、上田にこう話しかけたという。上記コラム参照。

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富山の薬売りが教えた道の歩きかた

2013-06-13 09:12:17 | 日記

◎富山の薬売りが教えた道の歩きかた

 最高裁判所の判事として知られた斎藤悠輔〈ユウスケ〉は、生前、朝日新聞の野村正男記者のインタビューに答え、中学生時代、富山の薬売りから、「道の歩きかた」を教わった話を披露している。
 野村正男『法曹風雲録』下巻(朝日新聞社、一九六六)から引用してみる。

「その歩くのにはいろいろな方法というものがあるのですね。ぼくが中学二年ぐらいのときに、郷里〔山形県西田川郡温海町〕から鶴岡という中学〔庄内中学校〕のあるところまで約十里の間を時々歩いておったのです。ある日、その途中で越中富山の薬売りに会ったのですよ。その薬売りが私を呼止めて〟おい若いの、わしのうしろについていっしょに歩いてごらん、そうすると明るいうちに鶴岡へ着く〟というのです。そして歩きながらこういう説明を聞いたわけです。大体道を歩くときには左でも右でもどっちでもいいから、片方を歩きなさい。それは、道のりを測るのは片方だけ測って十里なら十里と測るわけだ、だから片端だけ歩けというのです。まん中を歩くとどうしても人間というのは千鳥足になり、まっすぐ歩かない。それで、十里の道を十二、三里も歩く勘定になるというのです。だから左でも右でもいいから片方を歩けというのです。これが原則なんです。たいてい道は曲っているでしょう。曲るところをこちらの一点から向うの一点まで一直線に斜めに突っ切れというのです。そうすると十里の道を二、三里少なく歩ける、これは例外です。それから、登り道は普通より少し早い目に、下り道は反対に、大いにゆっくり歩き、ちょうど登りと下りと速力が平均したようにして歩け、このうち下りを特に気をつけなければならぬというのですね。足は、爪先で歩いてはいかん、必ず踵をしっかり地につげて歩けというのが大体の要領です。それで、そういうことを教わって、非常にゆっくり歩くのだけれども、どうも十里の道を一里か二里ぐらいは倹約出来たような気がするのです。まん中を歩かんから十里以上歩く必要はないわけです。この男すこぶるゆっくりしたもので、日本海の景色のよいところでは時々どりゃ一服して行こうか、などと腰をおろし、水のたまっているところでは、日傘をしぼめて水の中につっこみ、こうすれぼ少し重くなるが涼しくなるなどと語り、することがすべて自然で無理がなかった。鶴岡で別れる際この男は、〟この通りに歩くんだよ。お前は相当なものになる〟と謎めいたことをいって別れた。妙にそれが記憶に残っているんです。それきりその男に会うたことはなく、また、お互いに名乗りもしなかったが、僕は、その男を天来の師匠だと思っているんです。

 斎藤悠輔といえば、同時期に最高裁判所の判事であった真野毅〈マノ・ツヨシ〉と、尊属殺重罰が違憲か否かで激しく争ったことで知られているが(斎藤は合憲説)、その話は、このインタビューでは、話題になっていない。

今日の名言 2013・6・13

◎道を歩くときには左でも右でもどっちでもいいから、片方を歩きなさい

 斎藤悠輔が、中学生時代に出会った富山の薬売りの言葉。上記コラム参照。なお、斎藤は、思想的には、一貫して右側を歩いた人だった。

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「校正畏るべし」福地桜痴の名言

2013-06-12 05:39:30 | 日記

◎「校正畏るべし」福地桜痴の名言

 昨日の続きである。改造文庫版の福地源一郎(桜痴)『懐往事談』(一九四一)に、付録として掲載されている『新聞紙実歴』の一部を紹介したい。
 本日、紹介するのは、「新聞記者並に校正の事」という文章の後半部である。句読点は、改造文庫版に従ったが、テンのみ、若干増やしている。

 要するに明治七八年より十二三年の頃までは凡そ〈オヨソ〉仕途又は世路に攀援なき俊才は概ね各新聞者に身を寄せて以て其才学議論を世に知らるゝの場となしたりければ新聞記者は実に一の登竜門とも見做なされたり、而して意見を当世に知られんと望める論者も亦新聞紙を以て其地と成さんとは冀ひたり。是れ新聞紙が数年の間に於て非常の発達を為したる所以の一なる歟〈カ〉。
 然るに新聞紙発兌に付て余が終始満足を得ること能はずして常に不平に堪へざりしは校正の一事なりき、折角に骨折て〈ホネオッテ〉書たる〈カキタル〉文章も翌朝に至りて之を閲すれば校正の為に誤られて其意を失へること比々〈ヒヒ〉にてありき、尤も平常の著述の如くに原稿を丁寧に書き誤字脱字なき様にして印刷に付し、又その上に自から校正したらんには左までの誤謬はなかるべきが、時間に急がれて筆を下し原稿の疎漏なるが上に校正も亦同じく急がれて校正するが故に、書籍出版と同日には論ず可からざれども、去とて〈サリトテ〉は校正の悪きには辟易したり、当時各社とも豊給の報酬を以て大家先生を聘して、以て校正の任に当らしめなば校正の精なるは必然なりしと雖も、奈何〈イカン〉せん新聞社財政の許さゞる所なりしを以て其事も行はれず、依て余は自己の受用額を割きて補助に充て、市川清流氏を聘して校正主任と為したるに、流石に〈サスガニ〉清流氏が社に在りし間は、稍々〈ヤヤ〉校正の宜きを得たりしが、氏も其煩劇に堪兼てや〈タエカネテヤ〉一年が後に退社したりければ、校正は再び旧の疎漏に復して余を困却せしめたり。余は当時、屡々校正者に諭して、凡そ校正をなすに当り、原稿の意味の通ぜざる所は之に訂正を加へ用字を正し、仮名遣をも改め、以て其文章を完全せしむる、是を第一とす。弐には、原稿の通りさへ印刷せしむれば乃ち〈スナワチ〉可なりとして、謹直に原稿を墨守して、更に其の誤謬を訂正せざる、是を第二とす。己れが聊〈イササカ〉ばかりの文学に誇りて妄りに訂正を加へ、却て原稿の意を害するに至る、是を最下等とす。第一は迚も〈トテモ〉得安からざれば、余は第二の校正にて満足すべきも、動も〈ヤヤモ〉すれば第三の校正あるには閉口なりと云ひたれども、校正者は大抵これを覚らずして自ら第一に居る積〈ツモリ〉にて朱を弄したるには困り切たるなり。余は一日〈イチジツ〉曽て校正の悪しきが腹立しき余りに、校正可畏焉知朱筆之不如墨也四回五回而無訂焉斯亦不足恃也已と紙に大書して校正担当者が机を並べたる傍の壁に貼付け置きたれども、彼輩は一向平気なるものたりき。其後、馬琴が著書を閲したるに、其緒言の中にも、浄書と校正の疎漏なるを憤りて〈イキドオリテ〉彼また夢にだも草稿を見ず書たるを見たり、左れば〈サレバ〉誰も校正には困つたるものと思はれたり、但し今日の諸新聞雑誌の校正は一体に進みて、往時に比ぶれば稍々宜しき方に向ひたるが如し。

「校正畏るべし」(校正可畏)という言葉を最初に言い始めたのが誰かは不明だが、この言葉を普及させたのは、間違いなく福地源一郎(桜痴)であろう。なお、文中に「朱」という漢字が二回出てくるが、原文では、石ヘンに朱である(朱と同義)。

 本日の名言 2013・6・12

◎妄りに訂正を加へ、却て原稿の意を害する

 福地源一郎(桜痴)の言葉。校正者は、これだけは避けなければならない。上記コラム参照。今日の業界用語で言う「サカシラ」であろう。

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初期の新聞事業の困難(福地桜痴『新聞紙実歴』より)

2013-06-11 09:43:05 | 日記

◎初期の新聞事業の困難(福地桜痴『新聞紙実歴』より)

 改造文庫版の福地源一郎(桜痴)『懐往事談』(一九四一)は、やたらに伏字が多く、その意味で、興味深い史料といえる。
もちろん、内容そのものも非常に興味深い。本日は、同書に付録として掲載されている『新聞紙実歴』の一部を紹介したい。句読点は、やや不自然だが、改造文庫の原文を尊重し、テンのみ、若干増やしている。

 新聞事業の困難なりし事
 扨〈サテ〉当初新聞事業の困難なりしは紙筆の竭し得べき〈ツクシウベキ〉所に非ざりき。抑も〈ソモソモ〉新聞紙が依て以財政を維持するの収入は専ら広告料に在り、然るに当初は広告の依頼太だ〈ハナハダ〉少なくして其得意は僅〈ワズカ〉に売薬と書籍との二類に限れるが如くにて、偶々〈タマタマ〉是あれば冒険者の如くに世間にて批評したる位〈グライ〉なれば、収入の少額なるや推て〈オシテ〉知るべきなり。次には活字なり、活字製造は僅に平野富二〈トミジ〉氏一人にて(即ち今の築地活版製造所)、之を供給したるが往々其字母なき文字ありて、或は夜中急に其字を木版に彫みて〈エミテ〉挿入し、或は二字三字を削り偏〈ヘン〉と造〈ツクリ〉とを合せて其文字を自ら作りて急に充たる〈アテタル〉こと毎夜の如くなりき。次には資本に乏しかりしが故に、広大なる印刷器械を購入すること能はず(尤も当時大器械と称せしが漸く〈ヨウヤク〉三十二頁の物にて大抵は十六頁の物が普通なりき)、其為に半面は早く手廻〈テマワシ〉をして昼間に摺上げ、他の半面を夜間に於てせざるを得ずして、編輯に不測の困難を感ぜしめたりき。次には植字印刷とも其職工に乏しかりければ、児童及び少壮の輩〈ヤカラ〉を集めて自ら之を養成するの緊要を感じたりき、而して偶々彼等が意に満たざる事あれば、彼等は容易に罷工同盟〔ストライキ〕をなして発兌〈ハツダ〉に差支あらしむるを以て、之を待遇し制御するに頗る面倒を極めたり。次には新聞社の招〈マネキ〉に応じて探訪者を勤むる者は、皆下流の人物なりければ、随て〈シタガッテ〉で其言行も良し〈ヨロシ〉からず、官省の衙門〈ガモン〉にて忌嫌はれ〈イミキラワレ〉賤奴の如くに対遇せられ世間に於ても亦然り、故に其探訪〔訪問取材〕の報道にて謬説のみ多くて信を置に足るべきの材料を得るに苦しみたり、而して少しく学問あり身分あるものは探訪たるを屑〈イサギヨシ〉とせすして招に応ぜざれば、は勿論その他の記者の如きも自から探訪の労を執りたり、然れども其の記者も亦た少数の人員なれば、力及ばざるが為に、探訪者の報道通信の中に就て、是は事実相違なかるべしと思考する材料を択びて記載したるに、其発行の後に至り、諸方より正誤を要求せられ、又は論責せらるゝこと大抵毎日の如くにて、実に辟易〈ヘキエキ〉の限なりき、【以下略】

本日の名言 2013・6・11


◎探訪者を勤むる者は、皆下流の人物なり

 福地源一郎(桜痴)の言葉。当時の探訪記者は、「下流の人物」が多く、官庁などからは、「賤奴の如くに」忌み嫌われていたと言う。日本の報道の歴史を振りかえるとき、無視できない証言であろう。

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