礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

吉本隆明は「戦後最大の思想家」か?

2013-08-26 04:43:43 | 日記

◎吉本隆明は「戦後最大の思想家」か?

 吉本隆明の思想をめぐって、くどくどと述べてきたが、本日は、結論的なことを述べたいと思う。
 八月七日のコラムでも触れたが、吉本隆明は、世界貿易センタービルで起きたテロにかかわって、「人間の『存在の倫理』」という概念を提示した。この概念を意識しながら吉本は、テロリストたちが、旅客機の乗客を降ろさないままビルに突っ込んだことを激しく非難した(『超「戦争」論』の上巻(アスキー・コミュニケーションズ、二〇〇二)。
 吉本のいうこの「人間の『存在の倫理』」について、多羽田敏夫氏は、その論文「〈普遍倫理〉を求めて――吉本隆明「人間の『存在の倫理』」論註」の最後のほうで、次のようにまとめた。

「人間の『存在の倫理』」とは、すでに見てきたように、オウム‐サリン事件によって、市民社会の善悪の倫理観を解体した果てに、吉本が見出した新たな倫理であることは、もはや明らかだろう。それは、文字通りの「存在」そのものに根拠をおいた倫理にほかならない。もっといえば、それは一切の価値を排除した倫理観なのである。ここで、吉本が、地下鉄サリン事件の二年前に、「〈欠乏〉を根拠とする倫理」の替わりに、「〈非価値〉的なもの」を主体にした倫理が求められるといった発言を想起したい。つまり、「人間の『存在の倫理』」とは、まさしく「〈非価値〉的なもの」を根拠にした倫理なのだ。

 ここで、多羽田氏のいう「一切の価値を排除した倫理観」の意味、あるいは「『〈非価値〉的なもの』を根拠にした倫理」の意味が、私にはよく理解できない。それは、「宗教」とどう違うのだろうか。
 しかし、今、問題にしたいのは、そのことではない。
 吉本隆明が、オウム‐サリン事件に衝撃を受けたことはよくわかる。吉本が、その事件を契機に、「市民社会の善悪の倫理観を解体」した上で、「一切の価値を排除した倫理観」、あるいは「『〈非価値〉的なもの』を根拠にした倫理」といったものを構想しようとしたことも、そのこと自体は理解できなくもない。
 しかし不思議なのは、その若き日に、第二次世界大戦を体験した吉本が、その思想的活動の出発点において、「戦争」という罪悪、あるいは「戦争」における罪責という問題に対して、本格的に取り組んだ形跡がないことである。その晩年において、オウム‐サリン事件に衝撃を受け、これを思想的に受けとめようとした吉本が、なぜ、その若き日に、戦争という大きなテーマと格闘しようとしなかったのだろうか。
 吉本が、その思想的活動の出発点において、「戦争」という「市民社会の善悪の倫理観」を超えた問題を、意識しなかった(意識できなかった)とは言わない。しかし彼は、結局のところ、この問題を、「関係の絶対性」という論理で、安易に処理してしまったのである。この論理は、「自由な選択にかけられた人間の意志」を無視し、相対化しようとする論理であり、戦争責任を解除し、思想責任を解除しようとする性格を持っていたと思う(このことは、すでに、七月二七日のコラムで指摘した)。
 多羽田敏夫氏が、その論文で鋭く指摘したように、吉本の「関係の絶対性」という概念は、親鸞のいう「業縁」と深く結びついている(八月二日のコラム参照)。ということであれば、「戦争」という事態の中で、多くの人々が、予期せぬ死を迎え、予期せぬ不幸に直面したという問題についても、吉本は、「業縁」という論理で処理できたし、事実、そうしていたのだと思う。
 ここで、昨日も引用した吉本の言葉を、再度、引用してみる。

 自分たちが成し遂げようとしている目的とは全然関係がないということが最初からわかっている非戦闘員――一般の人たちをそのまま道連れにしたってことと、戦争状態になって戦闘が行われた結果、非戦闘員である一般の人たちをたまたま巻き添えにして殺しちゃったってこととは、まるで違うことなんです

 まず注意しなければならないことは、吉本が世界貿易センタービル事件を中心としたテロを「戦争」に擬していることである。
 吉本は、この事件における「非戦闘員」を、貿易センタービルにいた人々と航空機の乗客とに分け、テロリストが後者を道連れにしたことを激しく非難した。しかし、さしあたって注目すべきは、そのような「区別」ではない。「戦争」において非戦闘員がそれに巻き込まれて死ぬことは、基本的にはやむをえない、と吉本が考えていることなのである。
 おそらく吉本は、先の大戦で、多くの非戦闘員が戦争に巻き込まれて死んだことについても、「やむをえなかった」と考えていたはずである。
 ある意味で、吉本隆明という人は、正直な人だと思う。先ほど、引用した短い言葉によって、自分が思想家として、「戦争」というものをどう捉えているかを、問わず語りに語っている。「戦争」に対するそうした彼の捉え方が、「マチウ書試論」の発表から半世紀ものあいだ、基本的に変化してこなかったことも、ハッキリと示してしまったのである。
 ここからは推測になるが、吉本は、オウム‐サリン事件もまた、一種の「戦争」として意識していたのではないだろうか。だとすれば、オウム‐サリン事件による被害者も、「戦争」に巻き込まれて死んだ「非戦闘員」であり、その犠牲は「やむをえなかった」ということになる。
 しかし、さすがの吉本も、そこまでは言わなかった。言うまでもなく、オウム‐サリン事件に関する吉本の一連の発言に対して、宗教学者をはじめとする市民主義的知識人やマスコミ等から、激しい批判を投げつけられたからである。吉本が、「一切の価値を排除した倫理観」とか、「『〈非価値〉的なもの』を根拠にした倫理」といったことを言いはじめるのは、それからである。これは吉本が、親鸞的なラディカリズムの立場から、「市民社会のこの狭小な善悪観」に後退していったものと捉える。吉本は、オウム‐サリン事件以前においては、親鸞のラディカリズムを捉えきれておらず、オウム‐サリン事件以降においても、親鸞のラディカリズムを貫けなかった。その意味において彼は、終始、徹底しない親鸞主義者だったと言えるだろう。
 いずれにせよ、オウム‐サリン事件以降における吉本の一連の発言は、吉本の思想というものを理解する上でも、また吉本の思想家としての資質を判断する上でも、非常に重要なものだと思う。
 なお、誤解のないように言っておくが、吉本隆明を「戦後最大の思想家」などと持ち上げる論調には私は賛同しない。「戦争」という罪悪、あるいは「戦争」における罪責という問題に、あえて取り組もうとしなかった思想家であり、そのことによって、戦後の論壇において、一定の地歩を占め、その影響力を保持しつづけたイデオローグのひとりだったというのが、とりあえず今、この思想家に対して私が抱いているイメージである。

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吉本隆明の貿易センタービル発言をめぐって

2013-08-25 06:22:27 | 日記

◎吉本隆明の貿易センタービル発言をめぐって

 吉本隆明は、『超「戦争」論』の上巻(アスキー・コミュニケーションズ、二〇〇二)において、次のように述べているという(多羽田敏夫論文より重引)。

 金融機関が集まっている世界貿易センタービルを狙うということには、象徴的行為であるという観点からいうと、(中略)テロリストたちにとっては、まさに象徴的な戦闘行為だったわけです。
 ですから、世界貿易センタービルの中の金融機関に勤めていたために犠牲になった人たちとか、たまたまそのとき世界貿易センタービルの中に居合わせて犠牲になった人たちとかというのは、(中略)戦争状態になって戦闘が行われた結果、非戦闘員であるにもかかわらず、巻き添えを食って戦闘の犠牲になった一般の人たちに相当するといいましょうか、そういう見方ができると思います。(中略)
 一方、道連れにされた旅客機の乗客たちの場合はどうかというと、それとはまるで意味合いが違います。テロリストたちが目標としていること、やろうとしている象徴的行為にとって、旅客機の乗客たちが全然関係のない人たちであるということは明瞭なことであって、それは最初からわかっていることです。
 ですから、そこで、やはり乗客たちを降ろしたか否かということが重要な問題になるわけです。自分たちが成し遂げようとしている目的とは全然関係がないということが最初からわかっている非戦闘員――一般の人たちをそのまま道連れにしたってことと、戦争状態になって戦闘が行われた結果、非戦闘員である一般の人たちをたまたま巻き添えにして殺しちゃったってこととは、まるで違うことなんです。

 ここで吉本が提示している論理は、吉本の思想を理解する上で、きわめて重要なものだと思う。カギとなる言葉は「戦闘行為」である。しかし、それについては、この話の最後のところで述べる。
 最初、私は、吉本がなぜ、世界貿易センタービルで働いていて犠牲になった人々と旅客機の乗客として犠牲になった人々とを区別するのか、その理由がまったく理解できなかった。
 そのことについて考えているうちに思い出したのが、免田栄さんの体験談であった(昨日のコラム参照)。冤罪事件で死刑の判決を受けていた免田さんに対し、教誨師の僧侶は、「無実の罪で苦しむのも前世の因縁」と諭したという。
 この僧侶(たぶん浄土真宗の僧侶であろう)の論理にならえば、世界貿易センタービルで働いていて犠牲になった人々は、そこで働いていてテロに巻き込まれるという宿命に生まれたのである。旅客機の乗客として犠牲になった人々は、その飛行機に乗っていてテロに巻き込まれるという宿命に生まれたのである。どちらの人々も、その宿命を甘んじて受け入れるしかないのである。
 ところが吉本は、世界貿易センタービルにいた人々と旅客機の乗客とは、犠牲になった意味が「まるで違う」と言っている。吉本のこの論理にしたがえば、世界貿易センタービルにいた人々の場合、その宿命を受け入れるほかないが、旅客機の乗客として犠牲になった人々のほうは、その宿命を受け入れることは困難なものがあるということになる。
 多羽田敏夫氏は、「吉本の造悪論に対する解釈は、オウム事件を契機に一層ラディカルに変容している」と捉えた(今月一九日のコラム参照)。私は、この多羽田氏の捉えかたを批判し、オウム事件以前の吉本は、親鸞のラディカリズムを充分には捉えておらず、オウム事件を契機として、ようやく、親鸞のラディカリズムの域に達したのではないかと見た(今月二〇日のコラム参照)。
 ちなみに、免田さんに対し、「無実の罪で苦しむのも前世の因縁」と言ってのけた僧侶は、「親鸞のラディカリズム」というものをよく理解していたと思う。並の僧侶ではないと思う。だが免田さんは、この親鸞のラディカリズムを拒否したのである。というより、仏教の宿命思想そのものに、激しく反発したのである。
 一方で吉本隆明は、世界貿易センタービル事件について、ビルにいた人々と旅客機の乗客とは、犠牲になった意味が「まるで違う」ということを言っている。少なくともこれは、親鸞のラディカリズムとは異なる発想である。では、吉本は、親鸞的なラディカリズムを批判したのだろうか。あるいは、親鸞的なラディカリズムを乗り越えようとしたのか。
 そのような見方も不可能ではないと思うが、私はそうは思わない。基本的に吉本は、親鸞の思想、あるいは仏教の宿命思想の上に立ってものを言っている。そしてこれは、オウム事件以降においても、また貿易センター事件以降においても、変化していないと考える。
 オウム事件で受けた衝撃を契機として、吉本は、ようやく、親鸞のラディカリズムの域に達することができた。しかし、親鸞的なラディカリズムに立っておこなった発言は、宗教学者、市民主義的知識人、マスコミ等によって、「激しい批判」を浴び、これによって吉本は、「市民社会のこの狭小な善悪観」に後退していったと考える(八月二一日のコラム参照)。
 ただし、世界貿易センタービル事件についての吉本の発言には、「市民社会のこの狭小な善悪観」に後退していったと捉えるだけではすまされない重大な意味が含まれていると思う。【この話、続く】

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「無実の罪で苦しむのも因縁」と諭された免田栄さん

2013-08-24 09:38:12 | 日記

◎「無実の罪で苦しむのも因縁」と諭された免田栄さん

 一九九〇年代後半のことだったと思うが、文京区民センターで開かれた何かの集会で、元死刑囚の免田栄〈メンダ・サカエ〉さんの講演をお聞きしたことがあった。
 今でも印象に残っているが、このとき免田さんは、概略、次のようなことを言っておられた。――刑務所にやってくる教誨師(僧侶)に、自分は無実だということを訴えたが、いくら訴えても聞いてもらえない。かえって、「あなたは無実の罪で死刑になる宿命にある」と諭され、絶望的になった。さいわい、キリスト教の教誨師もいて、その人が、自分の話を聞いてくれたうえ、再審を手助けしてくれた。
 無実の罪で処刑されようとしている死刑囚に対して、「あなたは無実の罪で死刑になる宿命にある」という教誨師がいたと聞いて、鳥肌が立つような恐怖を覚えたが、ある意味で、これが仏教という宗教の本質ではないのかと思った。また、このように諭した教誨師は、多分、浄土真宗の僧侶であろうとも思った。
 ここのところ、吉本隆明に関するコラムを書いているが、その関連から、この免田さんの体験談を思い出した。このことについて論じようと思ったが、講演時の記憶だけを根拠に論じるのもどうかと思ったので、図書館で、免田さんの著書数冊を閲覧してみた。
 該当する箇所はすぐに見つかった。
 免田栄著『免田栄 獄中記』(社会思想社、一九八四)に、次のようにある。

 昭和二十六年〔一九五一〕二月二十三日、控訴審の第三回公判が開かれた。白石裁判長は弁護人が申請した私の精神鑑定を退けた。これは第一審でも同様であった。極刑をまぬかれるため弁護人は私の精神鑑定を求めたのだが、私としては堂々と正面から無罪を主張してたたかってほしかった。そのほか重要証人として申請していた石村高子(丸駒の石村良子の義母)の証人調べも同じく退けられた。裁判長は控訴の審理が終了したことを述べ、次回の三月十九日が判決であることを告げた。
 このころ、朝鮮半島では内戦が勃発し、南と北の軍隊は一進一退をくりかえしていた。
 アメリカのマッカーサー総司令官は原爆投下を主張してトルーマン大統領と対立、とうとう解任されてしまった。一方、日本では吉田内閣が警察予備隊を創設、これが今日の自衛隊に変貌したのである。またGHQは日本共産党の幹部を追及して、いっさいの政治活動を停止させた。そのために共産党の逮捕者がふえ、拘置所職員も多忙をきわめた。居残りはもとより、日勤の役人の臨時夜勤などがかさなった。
 そんなこんなで収容者と看守の対立が激しくなった。収容者は役人暴行という汚名を着せられ、足腰が立たぬほどのなぐる、けるの集団暴行をうけた。そのうえ役人に手むかったというかどでさらに懲罰をうけるので、両者の対立はとげとげしさを増していった。
 ところで教誨にやってきた僧侶の人が数人の死刑囚を前にして、
「今は国難ですぞ。もし日本に共産党が侵入すれは、私どもは殺されるか、捕えられて刑務所に放りこまれる。そんなことになっては大変です。銃がなければ、私たちは竹槍でも戦う覚悟ですから、みなさんもお役人さんの指示に従ってください」
 と、まさに戦争中の姿勢そのままで、感情むきだしだった。日本の仏教関係者のほとんどは軍や政府に協力して戦争を聖戦として礼賛〈ライサン〉し、日本の中国や東南アジア諸国への侵略を支援しなしたことは誰一人しらぬ者はない。それだけではない。自分は冤罪〈エンザイ〉だからと再審を請求しようとする収容者に対しても、
「これは前世の因縁です。たとえ無実の罪であっても、先祖の悪業の因縁で、無着の罪で苦しむことになつている。その因縁を甘んじて受け入れることが、仏の意図に添うことになる」
 と、再審の請求を思いとどまらせるような説教をする僧侶がいる。こんな世の因果をふりかざして、再審請求をさまたげる僧侶が少なくない。

 記憶では、免田さんは、まず僧侶の教誨師に相談して絶望的になり、そのあとキリスト教の教誨師に相談して救われたという時系列で話されていたように思う。この記憶と『獄中記』の記述とはややズレるが、これは私の記憶違いだったのかもしれない。ともかく、免田さんら再審を請求しようとする収容者に対して、「無実の罪で苦しむのも前世の因縁」という説教をした僧侶の教誨師がいたことは、たしかなようである。
 吉本隆明に関するコラムを書いていて、なぜ、こうした免田さんの体験談を思い出したのかについては次回。

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ラーテナウ外相の暗殺とドイツの悲劇

2013-08-23 17:22:20 | 日記

◎ラーテナウ外相の暗殺とドイツの悲劇

 昨日のコラムで、『総天然色で見る日本の終戦』(メディアボーイ、二〇〇八)という本に言及し、そこに出てくるヴァルター・ラーテナウという人物についても言及した。
 ソビエトのレーニンや日本の永田鉄山が、ラーテナウから学んだという同書の見解については、評価を保留するが、このラーテナウなる人物については、やや興味を抱いたので、少し調べてみた。
 国会図書館の検索システムで調べると、かなりの件数がヒットするが、いずれも戦後における専門的研究が中心であって、戦前にその著作が翻訳され、日本の思想界に影響を与えたといったことはなかったようである。
 第一次大戦後の一九二二年、外相の地位にあったラーテナウは、ドイツの民族主義者によって暗殺されている。これが、ドイツに対して、いかに大きな損失をもたらしたかについて、西ドイツ外相のブランドは、一九六七年の論文の中で、次のように述べている。

 彼〔ラーテナウ〕が進もうとした目的に彼は決して到達しなかった。われわれの祖国の数少い偉大た外交的才能の一つは、自分たちをよりよいドイツ人だとさえ思っている連中によって殺害されたのである。彼らは彼らの射撃によって、過去を蘇らせることもできないのに、ドイツの一つのチャンスを殺してしまったのだ。彼の時代のドイツの可能性を認識し、ドイツの利益のために、没我的に、労を借しむことなく仕えた、国家的な男であるラーテナウは、彼を「条約履行政策者」と誹謗する国粋主義的な精神錯乱者たちによって殺害されたのである。彼らは、敗戦の結果を他の人々と共に、われわれの国の人々に軽くしようと望んだ男を、政治的に暗殺してしまったのである。しかしなから、ケーニヒスアレーに於ける射撃によって、敗戦をあとから勝ちいくさにすることができなくなってしまったことは間違いない。現実はあまりにも強かったのである。

 ラーテナウの外交的手腕を以てすれば、「敗戦をあとから勝ちいくさにする」こともできた、とブラントは言っているのである。そのラーテナウが、国粋的なドイツ人によって暗殺されてしまった。暗殺の理由のひとつに、彼がユダヤ人であったということが挙げられるであろう。ドイツの悲劇は、すでにこの時点で始まっていたと言えるかもしれない。
 なお、ブランドの論文は、「両大戦後のドイツの外交政策」と題するもので、これに「ヴァルター・ラーテナウ生誕百年にあたり」というサブタイトルがついている(ラーテナウは一八六七年生れ)。雑誌『自由』一九六八年二月号所載、翻訳はドイツ文学者にして芥川賞作家(一九六七年下半期)の柏原兵三〈カシワバラ・ヒョウゾウ〉が担当している。

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戦時中の日本は「戦時共産主義」だったのか

2013-08-22 09:09:55 | 日記

◎戦時中の日本は「戦時共産主義」だったのか

 この夏、古書店で、『総天然色で見る日本の終戦』(メディアボーイ、二〇〇八)という本を入手した。付録に、当時のカラーフィルムを収めたDVD(三〇分)がついている。
 DVDの映像も含め、なかなか興味深い本だとは思ったが、そこに盛られている「史観」が気になった。
 たとえば、同書一六ページには次のようにある。

 統制経済は事実上の共産主義体制であり、実際にソ連の指導者であるレーニンは、誕生したばかりの同国でラーテナウの方法論を模倣し、これを戦時共産主義と呼んだ。一方の永田〔鉄山〕は、この経済システムを国家総動員体制と呼んだ。戦時経済、統制経済、計画経済、戦時共産主義、国家総動員体制は、言葉は違っても同じ制度を指し示している。こうして、日本とソ連は、ドイツを模倣対象としたために、奇しくも似たような道を歩むことになったのである。
 ただし、日本では一九三五年八月に、人事抗争が原因で、永田鉄山が暗殺されたために、陸軍による軍事独裁が停滞した。永田に替わって統制経済を推進したのは革新華族の近衛文麿だった。一九三七年に内閣総理大臣に就任した近衛は、一九三八年に国家総動員法を成立させることで、総力戦を完遂するための国家総動員体制を成立させた。

 すなわち、戦中の国家総動員体制は、「戦時共産主義」という説明になっている。
 この論でゆくと、ナチス経済も当然、「戦時共産主義」ということになるが、この本によれば、日本の国家総動員体制は、ナチス経済ではなく、ラーテナウの方法論を模倣したものだという。
 ラーテナウというのは、同書によれば、第一次大戦中のドイツで、軍需省軍需物資局長に就任していたユダヤ人の企業経営者、ヴァルター・ラーテナウのことで、彼は一九一七年に『来るべきことについて』という著作を発表しているという。
 戦中の日本における国家総動員体制が、「戦時共産主義」だったというのは、かなり大胆な見方だが、こうした見方は学説として認められているのだろうか。
 治安維持法は、私有財産制を否定する共産主義思想を取り締まるものであった。この法律が戦中に猛威を振るったことはよく知られているが、この本が提示している論に立つと、「戦時共産主義」下において、共産主義思想を取り締まる治安維持法が猛威を振るったという妙なことになってしまう。
 なお、『総天然色で見る日本の終戦』の著者は、中西正紀・瀬戸利春・桂令夫・磐篠仁士の四氏で、巻頭には、東京工業大学大学院社会理工学研究科価値システム専攻教授・田中善一郎氏の推薦文が付されている。

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