◎吉本隆明と「市民社会の狭小な善悪観」
多羽田敏夫氏によれば、吉本隆明は、オウム事件を契機に、「造悪論」に対する解釈を変容させたという。それはありうることであり、そのこと自体をどうこう言うつもりはない。また、吉本は、当時、オウム事件に真っ向から取り組み、積極的に発言したという。もちろん、このこと自体についても批判するつもりはない。
問題なのは、吉本が、オウム事件に対して、どのような立場から、どのような発言をおこなったかということである。
ここで、多羽田氏の論文を引用させていただく。
吉本は、オウム真理教の「極悪非道」の輩〈ヤカラ〉によって、市民社会に流布されている既成の善悪観が根こそぎにされたと見なしたにちがいない。だが、もとよりそれは、吉本が自らの文学、思想に課した積年のモチーフではなかったか。いや、誤解を恐れずにいえば、吉本は自らの文学、思想営為のなかで「造悪論」を行使し、既成の価値観念をことごとく転倒してきたといって過言ではあるまい。実際、吉本隆明ほど、文学、政治、宗教等、あらゆる幻想領域にわたって既成の価値観念をことごとく転倒してきた文学者、思想者はいないのではないか。
おそらく吉本は、オウム‐サリン事件を、己〈オノレ〉とはまったく異なった次元から、市民社会の善悪の倫理観を根こそぎにしたと見なしたのだ。つまり、吉本にとって思想としての「造悪論」を、オウム真理教の「極悪非道」の輩が現実に行使したと見たにちがいない。いわば、吉本にとって、オウム‐サリン事件は、自らの思想の問題であったといってよい。吉本が、オウム‐サリン事件に真っ向から取り組んだのは、まさにそれゆえにほかならない。
それにしても、吉本ほど、オウム事件に積極的に発言した者はいない。だがまた、吉本ほど、甚だしく誤解された者もいないだろう。実際、オウム事件に関する一連の発言に対して、吉本は、マスコミや、吉本いうところのいわゆる市民主義的な知識人たちからの激しい批判に晒されたといってよい。その一つが、「まぜかえされた」とのべているように、吉本が強調した殺傷行為の「次元」の差異が、まるで理解されなかったということである。そして、もう一つは、オウム真理教の教祖に対する吉本の評価をめぐるものであった。すなわち、吉本がオウム‐サリン事件を、一貫してオウム真理教の教義と宗教理念の問題として捉え、教祖の宗教家としての力量を評価したことに対して、宗教学者をはじめとする市民主義的知識人やマスコミ等は、吉本があたかもオウム教団を擁護しているかのように曲解し、激しい批判を投げつけたといってよい。だが、逆に吉本は、自分に投げつけられたこれらの批判のほとんどが、サリン事件によって解体されたはずの市民社会の狭小な善悪観から発せられていることに、激しい苛立ちを覚えたに違いない。あるいは、吉本は、市民社会のこの狭小な善悪観こそ、オウム真理教の教義の無意識が、サリンを散布させた大きな要因の一つと見たのではないか。
吉本が、物議を醸す〈カモス〉ことを恐れずに、サリン事件を「造悪論」として見る視点を積極的に打ち出したのは、それゆえにほかなるまい。つまり、吉本は、サリン事件を「造悪論」として積極的に論じることによって、市民社会の狭小な善悪観を解体しようとしたのである。「悪をすすんでつくる『極悪深重の輩』をじぶんの〈善悪〉観のなかに包括」するとは、このことをいっているのに相違ない。
いくつかコメントしたい。多羽田氏は、「吉本は自らの文学、思想営為のなかで『造悪論』を行使し、既成の価値観念をことごとく転倒してきた」と述べている。これは、どうなのだろうか。もし、吉本が、「自らの文学、思想営為のなかで『造悪論』を行使し、既成の価値観念をことごとく転倒してきた」というのが本当なら、その吉本が、オウム事件に直面し、「市民社会の善悪の倫理観を根こそぎにした」などという感想を抱くはずがないではないか、すなわち、それ以前の吉本は、自らの文学、思想営為のなかで「造悪論」を行使できておらず、「市民社会の善悪の倫理観」の範囲内にとどまっていた。だからこそ、オウム事件に直面して動揺し、「市民社会の善悪の倫理観を根こそぎに」された、と感じたのではないだろうか。だからこそ、造悪論に対する解釈を、「ラディカルに変容」させざるをえなかったのではないか。
また、多羽田氏は、「吉本は、市民社会のこの狭小な善悪観こそ、オウム真理教の教義の無意識が、サリンを散布させた大きな要因の一つと見たのではないか」と述べている。これは、この論文中の多羽田氏の言葉で、最も「ラディカル」な一言であろう。そして、おそらく、この多羽田氏の指摘は、当たっていると思う。問題は、当の吉本隆明が、オウム事件に対して、そうした「ラディカル」な視点を貫けたかどうかである。
宗教学者、市民主義的知識人、マスコミ等によって、「激しい批判」を投げつけられた吉本は、結局このあと、「市民社会のこの狭小な善悪観」に後退していったのではないだろうか。【あと数回続きますが、とりあえず明日は、別の話題に振ります】