礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

吉本隆明と「市民社会の狭小な善悪観」

2013-08-21 09:23:30 | 日記

◎吉本隆明と「市民社会の狭小な善悪観」

 多羽田敏夫氏によれば、吉本隆明は、オウム事件を契機に、「造悪論」に対する解釈を変容させたという。それはありうることであり、そのこと自体をどうこう言うつもりはない。また、吉本は、当時、オウム事件に真っ向から取り組み、積極的に発言したという。もちろん、このこと自体についても批判するつもりはない。
 問題なのは、吉本が、オウム事件に対して、どのような立場から、どのような発言をおこなったかということである。
 ここで、多羽田氏の論文を引用させていただく。

 吉本は、オウム真理教の「極悪非道」の輩〈ヤカラ〉によって、市民社会に流布されている既成の善悪観が根こそぎにされたと見なしたにちがいない。だが、もとよりそれは、吉本が自らの文学、思想に課した積年のモチーフではなかったか。いや、誤解を恐れずにいえば、吉本は自らの文学、思想営為のなかで「造悪論」を行使し、既成の価値観念をことごとく転倒してきたといって過言ではあるまい。実際、吉本隆明ほど、文学、政治、宗教等、あらゆる幻想領域にわたって既成の価値観念をことごとく転倒してきた文学者、思想者はいないのではないか。
 おそらく吉本は、オウム‐サリン事件を、己〈オノレ〉とはまったく異なった次元から、市民社会の善悪の倫理観を根こそぎにしたと見なしたのだ。つまり、吉本にとって思想としての「造悪論」を、オウム真理教の「極悪非道」の輩が現実に行使したと見たにちがいない。いわば、吉本にとって、オウム‐サリン事件は、自らの思想の問題であったといってよい。吉本が、オウム‐サリン事件に真っ向から取り組んだのは、まさにそれゆえにほかならない。
 それにしても、吉本ほど、オウム事件に積極的に発言した者はいない。だがまた、吉本ほど、甚だしく誤解された者もいないだろう。実際、オウム事件に関する一連の発言に対して、吉本は、マスコミや、吉本いうところのいわゆる市民主義的な知識人たちからの激しい批判に晒されたといってよい。その一つが、「まぜかえされた」とのべているように、吉本が強調した殺傷行為の「次元」の差異が、まるで理解されなかったということである。そして、もう一つは、オウム真理教の教祖に対する吉本の評価をめぐるものであった。すなわち、吉本がオウム‐サリン事件を、一貫してオウム真理教の教義と宗教理念の問題として捉え、教祖の宗教家としての力量を評価したことに対して、宗教学者をはじめとする市民主義的知識人やマスコミ等は、吉本があたかもオウム教団を擁護しているかのように曲解し、激しい批判を投げつけたといってよい。だが、逆に吉本は、自分に投げつけられたこれらの批判のほとんどが、サリン事件によって解体されたはずの市民社会の狭小な善悪観から発せられていることに、激しい苛立ちを覚えたに違いない。あるいは、吉本は、市民社会のこの狭小な善悪観こそ、オウム真理教の教義の無意識が、サリンを散布させた大きな要因の一つと見たのではないか。
 吉本が、物議を醸す〈カモス〉ことを恐れずに、サリン事件を「造悪論」として見る視点を積極的に打ち出したのは、それゆえにほかなるまい。つまり、吉本は、サリン事件を「造悪論」として積極的に論じることによって、市民社会の狭小な善悪観を解体しようとしたのである。「悪をすすんでつくる『極悪深重の輩』をじぶんの〈善悪〉観のなかに包括」するとは、このことをいっているのに相違ない。

 いくつかコメントしたい。多羽田氏は、「吉本は自らの文学、思想営為のなかで『造悪論』を行使し、既成の価値観念をことごとく転倒してきた」と述べている。これは、どうなのだろうか。もし、吉本が、「自らの文学、思想営為のなかで『造悪論』を行使し、既成の価値観念をことごとく転倒してきた」というのが本当なら、その吉本が、オウム事件に直面し、「市民社会の善悪の倫理観を根こそぎにした」などという感想を抱くはずがないではないか、すなわち、それ以前の吉本は、自らの文学、思想営為のなかで「造悪論」を行使できておらず、「市民社会の善悪の倫理観」の範囲内にとどまっていた。だからこそ、オウム事件に直面して動揺し、「市民社会の善悪の倫理観を根こそぎに」された、と感じたのではないだろうか。だからこそ、造悪論に対する解釈を、「ラディカルに変容」させざるをえなかったのではないか。
 また、多羽田氏は、「吉本は、市民社会のこの狭小な善悪観こそ、オウム真理教の教義の無意識が、サリンを散布させた大きな要因の一つと見たのではないか」と述べている。これは、この論文中の多羽田氏の言葉で、最も「ラディカル」な一言であろう。そして、おそらく、この多羽田氏の指摘は、当たっていると思う。問題は、当の吉本隆明が、オウム事件に対して、そうした「ラディカル」な視点を貫けたかどうかである。
 宗教学者、市民主義的知識人、マスコミ等によって、「激しい批判」を投げつけられた吉本は、結局このあと、「市民社会のこの狭小な善悪観」に後退していったのではないだろうか。【あと数回続きますが、とりあえず明日は、別の話題に振ります】

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親鸞は「造悪」を否定していない

2013-08-20 04:50:05 | 日記

◎親鸞は「造悪」を否定していない

 昨日のコラムで、「親鸞の造悪論観は、もともと、きわめてラディカルなものであった」と述べた。このことについて、少し補足しておこう。
 ただし、この補足は念のためにおこなうものであり、当コラムですでに述べた(七月二六日、および二八日)内容と、一部重複することをお断りしておく。
 親鸞の「造悪論」観を捉えようとする場合、カギになるのは、やはり『歎異抄』第十三条の読み方である。
 親鸞の存命中、悪人こそが往生できるという、いわゆる「悪人正機説」〈アクニンショウキセツ〉を知った者のなかに、極楽往生を望むあまり、わざと悪いことをする(造悪)ものがあらわれた。そうしたものは、「本願をほこって悪をおそれない者」であるとして、これを非難する「本願ぼこり」という言葉が生れた。
『歎異抄』第十三条のテーマは、この「本願ぼこり」である。第十三条は、『歎異抄』の中でも、特に難解なところであるが、その趣旨を一言でいえば、「本願ぼこり」を非難できるような人はいない、アミダ信仰の本質は、「本願ぼこり」にあるということなのである。あまりに大胆な主張であるが、何度読んでも、そういうことになるのである。親鸞の「造悪」=「本願ぼこり」に対する捉えかたは、最初から、きわめてラディカルなものであった。
 たしかに親鸞は、極楽往生を望むあまり、わざと悪いことをする(造悪)人々に対し、「くすりあればとて毒をこのむべからず」(毒を消す薬があるからといって、わざわざ毒を飲む必要はない)と言ってたしなめている(同条第三節)。
 しかし(ここが重要なところなのだが)、彼らのことを「本願ぼこり」という言葉で非難することはしなかった。むしろ、「願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよほすゆへなり」(本願にほこってつくった罪にしても、やはり宿業によるものなのだ)と言ってのけたのである(同条第五節)。人間が故意に(主体的に)おこなった行為も、その当人の主体性を超えたものによって規定されている。それゆえに非難することはできないという考え方である。
 それだけではない。親鸞は、『歎異抄』第十三条第六節において、「本願ぼこりといましめらるゝひとびとも煩悩不浄具足せられてこそさうらふげなれ。それは願にほこらるゝにあらずや」と語っている。梅原真隆の現代語訳によれば、これは、「本願にほこって悪いことをしてはいけないと警めなさる人にしたところが、煩悩〈ナヤミ〉も不浄〈ケガレ〉もみんな具えていて、現に悪いことをしていられるではないか。それがそもそもそも本願にほこって居られることにならないか」という意味だという。
 すなわち、親鸞は、他人に対して、「本願ぼこり」というレッテルを貼って非難する人に対して、そういう人こそが「本願ぼこり」ではないかと非難したのである(ここも重要なところである)。これは、完全に「造悪」肯定論だという以外ない。
 多羽田敏夫氏は、「吉本の造悪論に対する解釈は、オウム事件を契機に一層ラディカルに変容している」と捉えた(昨日のコラム参照)。私は、この捉えかたは違うと思う。親鸞の「造悪」=「本願ぼこり」に対する考え方は、もともと、きわめてラディカルなものだったのである。オウム事件以前の吉本は、そうした親鸞のラディカリズムを充分には捉えていなかったのではないか。【この話、もう少し続く】

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吉本隆明における「オウム」体験と「造悪論」解釈

2013-08-19 04:55:54 | 日記

◎吉本隆明における「オウム」体験と「造悪論」解釈

 先月二三日以降、しばらく吉本隆明について論じたが、まだ肝心なことを論じ残しているので、再度、論じることにする。
 多羽田敏夫氏は、その論文「〈普遍倫理〉を求めて――吉本隆明「人間の『存在の倫理』」論註」(第五六回群像新人文学賞評論部門優秀作、『群像』二〇一三年六月号所載)において、吉本がオウム‐サリン事件をどのように受けとめたかについて触れている。
 やや長くなるが、関係するところを引用してみよう(傍点は省略したが、「言い切る」の四文字に付されていた)。

「造悪論」とは、親鸞が『歎異抄』第三条で述べた「善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」という、いわゆる「悪人正機説」の教義に対する一つの解釈で、悪人ならなおさら往生できるのなら、すすんで悪をなせばもっと往生できるだろうという説である。
 吉本の言葉で説明すれば、こうなる。「善人なほもて往生を遂ぐ」という段階では、現実社会における「善悪」と信仰における「善悪」は、均衡を保っているが、「いはんや悪人をや」という言葉が教義に付け加わることによって、超越性をもち、「悪の概念のほうがいい」、すすんで悪を行ったほうがいいというところに踏み込んでいき、現実世界との均衡が崩れてしまうということである。
 注意すべきは、吉本が、この親鷲の「造悪論」を、オウム‐サリン事件に見ていることだ。
《親鸞の「造悪論」が、悪人ならなおさら往生できるというのなら、〈悪〉をすすんでやったほうが往生できるようになるじゃないか、それならばかってに〈悪〉をやるからという分派が親鸞の弟子のなかにあらわれるわけです。親鸞はしきりに、わざと〈悪〉をなすことはないだろうってなだめるわけです。しかし、よくよくかんがえますと、十八願を主眼として親鸞がかんがえて選択した「善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」というふうに言い切るだけの〈善悪〉観でいきますと、〈悪〉をすすんでしようがしまいが、やっぱり往生はできるということにどうしてもなります。その問題はもっとはっきりと、〈善悪〉の規模を宗教的にではなくて現在の市民社会に流布して疑われてないような〈善悪〉観を、もうすこし大きな規模の〈善悪〉観に移していくというのがぼくらの思想的課題なんだとおもいます。(「親鸞の造悪論」、同前〔『宗教の最後のすがた』春秋社、一九九六〕所収、傍点引用者)》
 吉本は親鷲の「造悪論」にこと寄せて、ほとんど自らの「造悪論」を語っているといってよい。それは、吉本が、「善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」という親鸞の言葉を、逆説ではなく、文字通りに「言い切」ったものとして捉え、そのままに受容しようとしているということだ。だが、「言い切」っているのは親鸞ならぬ吉本自身にほかなるまい。実際、吉本の「造悪論」に対する解釈は、オウム事件を契機に一層ラディカルに変容しているといった想いを禁じえない。
 たとえば、オウム事件が起きる以前の吉本は、「造悪論」について、これを「異解」と称び〈ヨビ〉、「親鸞は、すすんで悪をつくるところには、必然的に自力が働くがゆえに、本願他力の意趣にそむくものとして卻け〈シリゾケ〉ている」(「和讃」、『最後の親鸞』所収)と述べ、また「徹底的にいってしまえば意志的になされる善悪などは全くあり得ないのだ」(「親鸞論註」、『論註と喩』、言叢社、一九七八年)と捉え、さらには「いわゆる『造悪説』が一部に出てきたとき、親鸞はそれは意識的な(意図的な)悪だから、意識的な(意図的な)善とおなじようにだめだと判断しました」(「自然論」、『未来の親鷺』、春秋社、一九八四年)と、比較的ネガティブに解釈していた。だが、オウム事件以後、吉本の「造悪論」に対する解釈には、明らかな変化がある。それはなぜか。〈一一一~一一二ページ〉

 オウム事件以降、吉本の「造悪論」に対する解釈に変化があったことは事実のようである。多羽田氏は、吉本が「オウム‐サリン事件に真っ向から取り組んだ」(一一四ページ)ことの結果として、このことを積極的に評価しているかに見える。
 しかし、次のようなことは言えないか。親鷲の「造悪論」観に対する吉本の解釈は、オウム事件以前においては、いまだ不徹底なものがあった。それが、オウム事件を契機として、ようやく親鸞の域にまで達することができたのではないか。
 すなわち、吉本の「造悪論」解釈は、オウム事件以前においては、なお、「現在の市民社会に流布して疑われてないような〈善悪〉観」にとどまっていた。しかし吉本は、オウム事件を契機として、親鸞の造悪論観が、「もうすこし大きな規模の〈善悪〉観」であったことに気づいたということではないのか。
 このことを、多羽田氏は、「吉本の造悪論に対する解釈は、オウム事件を契機に一層ラディカルに変容している」と捉えている。あくまでも氏は、吉本に対して、好意的なようである。しかし、親鸞の造悪論観は、もともと、きわめてラディカルなものであった(七月二六日のコラム参照)。オウム事件以前の吉本は、単にそれを、捉えそこなっていたに過ぎないのではないか。【この話、続く】

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「偉人」野口英世から「異人」野口英世へ

2013-08-18 07:55:17 | 日記

◎「偉人」野口英世から「異人」野口英世へ

 昨日まで、三回にわたって、野口英世伝とそれにまつわる「神話」の問題を採り上げたが、本日はその補足である。
 昨日、尾崎光弘さんからいただいたメールによって、以下のような事実がわかった。
 雑誌『ながはま』第二二号(一九九六年一一月九日)に掲載された尾崎さんの論文「野口英世『物語』の発見」は、その後、『今ふたたび 野口英世』(愛文書林、二〇〇〇)に収録されたという。この本は、雑誌『ながはま』の終刊後に、その発行者である「野口英世博士ゆかりの細菌検査室保存をすすめる会」が自費出版したものという。
 さらに、この『今ふたたび 野口英世』は、その後、小暮葉満子・田崎公司編『野口英世 21世紀に活きる』(日本経済評論社、二〇〇四)という形で再刊されたという。
 すなわち尾崎論文は、このような形で、多くの読者・研究者に触れていたわけである。「週刊 日本の100人」『野口英世』の執筆者は、おそらく、『今ふたたび 野口英世』、あるいは『野口英世 21世紀に活きる』のいずれかを参照し、尾崎論文に目をとめたのであろう。ちなみに、今、書店の店頭におかれている「週刊 日本の100人」『野口英世』は、改訂版であって、初版は、二〇〇七年六月に出た「七〇号」である(未見)。
 さて、昨日のコラムで私は、尾崎論文を「野口神話を相対化し、解体する大胆な作業であった」と位置づけた。これでは、言葉が足りなかった。このことについては、尾崎論文から、以下の部分(一〇~一一ページ)を引用することで、説明に替える。特に、野口英世を「異人」として捉えている点、「母シカの語られ方」に再考を求めている点に注目されたい。

 野口復活のきっかけは、やはり筑波常治の『野口英世』(講談社現代新書)ではなかったろうか。広い読者層を維持するこのシリーズで再版〔増刷〕されたことの事実は小さくないと思われる。この本では、従来の世のため人のための立身、身を立てるための忍耐と努力という面は影をひそめ、かわりに名声のための忍耐や努力があらわになっている。読む側に伝わるのは、立身ではなく野心である。それゆえに彼の人間像も欠点の多い人物として提示されているが、反面、あたたかい援助者に生涯を通して恵まれる魅力的な人物と描かれている。一言でいえぱ、偉人ではなく、異人として描かれているのである。異人とは、世間からはみ出しているけれどもそれゆえにパワフルな人物たちの記号である。
 偉人から異人へ。礼讃型の野ロイメージから割に自由だった人たちは筑波の本から、こんなメッセージを受け取ったのではないだろうか。何のために忍耐し努力するか見えにくくなった世相のなかで、狭い世間や日本を顧みず一直線に突き進んでいった野口の生涯に人々が魅了されたとしても不思議はない。
 筑波の本のメッセージをうけとめ、より詳しい伝記小説に仕立てたのが渡辺淳一著『遠き落日』(角川書店、一九七九)だと思われる。これは文庫本化され九十年代に入り映画の原作にもなったために、たくさんの人びとに読まれたと予想できる。したがって異人・野口英世像はかなり世の中に広まったとかんがえていいのだが、ひとつ映画の問題がある。タイトルは同じでも内容から受ける印象は、渡辺の原作本とはずいぶんと隔たりがあったからだ。この映画の脚本を提供した新藤兼人は、脚本化のために『ノグチの母…野口英世物語』(小学館、一九九二)を子供向けに書いた。すなわち渡辺の原作における逞しい異人・野口像は、映画になってみると、すっかりどこかに押しやられ、ストーリーはたくましい母と情けない失恋男の物語にすり替わってしまっている。ちなみに映画『遠き落日』はその年の興業成績がトップだったと聞いているが、これではせっかくの異人像も牙を抜かれてしまう。
 母モノの得意な新藤兼人などに脚本を任せるからだろうが、どうしてこんなことになってしまうのか考えなければならない。一つは、母性が本能などではなく物語=神語に過ぎなかったことが、世相の上からもしだいに明かになってきたことに対する、反動を形成する層があったのではないかということ。もう一つは、野口英世物語における母の生き方に対しては、いまだかつて批判的な評価を下した者がいなかったこと。つまりこの母については、ほとんどの伝記作家が好意的なのである。言い換えると、野口の物語に含まれていた価値のおおかたが、七十年代以降相対化の危機にみまわれた。しかし母の価値=母性だけは無傷だったのである。ならば、これを母性神語の再編成に使わない手はない。しかし、母性を声高に主張することが、かつて兵士増産を理由に、難無く国家総動員体制にくみこまれてしまったことを知る者にとっては、これはアブナイ語なのである。母シカの語られ方も見直す必要があろう。

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野口英世をめぐる「神話」と「物語」

2013-08-17 04:52:18 | 日記

◎野口英世をめぐる「神話」と「物語」

 昨日の続きである。「週刊 日本の100人 改訂版」067号(ディアゴスティーニ・ジャパン、二〇一三年四月三〇日)の『野口英世』の二七ページにある文章は、尾崎光弘さんが、雑誌『ながはま』第二二号(一九九六年一一月九日)に載せた「野口英世『物語』の発見」という論文のダイジェストともいうべきものである。
 にもかかわらず、そこには、「尾崎氏の論文の趣旨を、以下に要約してみよう」といった断りがない。なぜか。それは、この文章の筆者が、尾崎論文に含まれるデータを援用しながら、その結論部において、尾崎さんが主張したかったこととは、異なる方向を示そうととしたからだと思う。
 すなわち、「週刊 日本の100人 改訂版」『野口英世』の二七ページにある文章は、尾崎論文を完全に換骨奪胎したものであり、そうである以上、「尾崎氏の論文の趣旨を、以下に要約してみよう」といったような書き方をするわけにいかなったのである。
 とはいえ、尾崎論文を踏まえている事実を隠すわけにもいかない。そういうわけで、この文章は、どこまでが尾崎さんの指摘で、どこからが自分の見解かが判然としないものになってしまったのであろう。
 ここで、尾崎光弘さんの文章を、少し引用しておこう。

 戦後だけに目をやると、昭和四十九年以降現在〔一九九六年〕まで多くなっている。なぜ言及数がふえたのか、今後の課題となりえよう。おそらく野口評価のコンセプトが変わり始めたのである。変わり目といえばグラフには表れていないが、十年前の昭和三十九年は注目すべき年である。『文芸春秋』三月号に、科学史家の筑波常治〈ツクバ・ヒサハル〉の論文「野口英世もう一つの顔」が発表されたからである。そこには、従来の修身的な偉人・野口ではなく、金銭にルーズで周囲に迷惑をかけどうしの人間・野口が描かれていた。では、それ以前の野口英世伝には筑波常治の指摘するようなマイナスイメージの野口像はなかったのかといえば、そうではない。奥村鶴吉編『野口英世』(岩波書店、一九三三)と、エクスタイン著・内田清之助訳『野口英世伝』(東京創元社、〔一九五九〕原著一九三一)がある。
 この二冊はこころある研究家からは野口伝の基本版にあげられており、これには赤裸々な人間・野口像もきちんと記述されているのである。それなのに世の中には子供向けを主流に、野口自身も「このように完全無欠な人間などいない」と不快感を隠さなかったという・『発見王・野口英世』(大正十年)の系統ばかりが普及している。ここにはあきらかに野口を修身的人物に仕立てた動きがあったと考えなければならない。野口英世「神話」の発生は興味深いテーマになるだろう。

 すなわち尾崎さんは、世の野口英世伝が、野口の実像から離れ、「神話」的に、あるいは「物語」として、語られてきた事実に注目した。そして、これまでの野口英世伝を分析した上で、時代や世相によって、野口に関する「神話」が大きく変容してきたことを、この論文「野口英世『物語』の発見」において、鮮やかに示したのである。
 これは、野口神話を相対化し、解体する大胆な作業であった。ところが、この尾崎論文を援用した「週刊 日本の100人 改訂版」『野口英世』の二七ページにある文章は、その結論部で次のようなことを言っていた(八月一五日のコラムでも引用した)。

 このように「努力」「忍耐」「母性愛」「国際貢献」など、英世の生き方を切り取るキーワードは、否定することのできない根本的な価値観ばかりであり、英世の人生を構成する要素がいつの時代にも必要とされてきたことが分かる。英世の伝記は形を変えながら、これからも多くの人々に読み継がれてゆくのである。

 少なくともこれは、尾崎論文が主張しようとした趣旨ではない。尾崎論文をそのように読むのは自由であるが、執筆者は、そうした「読み込み」が、尾崎論文の趣旨とは異なるものであることを、何らかの形で示すべきであった。ひとの論文を援用するものの最低限の礼儀として。

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