礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

麻生財務相の「ナチス発言」問題を振り返る

2013-08-10 05:02:02 | 日記

◎麻生財務相の「ナチス発言」問題を振り返る

 国際的な問題となった麻生太郎財務相の「ナチス発言」問題だが、ここのところ急速に、マスコミの話題から遠ざかろうとしている。この段階で、少し、この問題について振り返ってみよう。
 この間、いろいろな報道に接したが、最も強烈な印象を与えたのは、日刊ゲンダイの八月五日号(八月三日発売)の第三面に載った記事であった。
 これを読んだことで、麻生財務相の発言の背景がみえてきた。すなわち、安倍内閣は、当初考えていた憲法改正が、それほど容易でないことに気づき、解釈改憲の方向を先行させようと考えはじめたのであろう。いわゆる「いつの間にか変わっている」方式である。
「いつの間にか変わっている」方式は、必ずしも麻生財務相のオリジナルではなく、安倍内閣の方針変更の過程で、すでに閣内で合意されていたのであろう。同様に、「ナチスの手口に学べ」という言葉も、麻生発言の前に、すでに閣内でささやかれていた可能性がある。正直で口の軽い麻生財務相が、ついそれを公の席に出してしまったといったところか。
 この場合、「ナチスの手口」とは、憲法の根幹を、強引な政治手法によって変えてしまう手口を指す。日刊ゲンダイ記事は、その「手口」を、法制局長官の人事問題に見出している。
 以下に、その記事を紹介する。

〇この政権はとっくに学んでいる
〇憲法の番人の交代はナチスの手口
「憲法改正はナチスに学べ」という麻生の妄言は“大バカ大臣の失言”で片付けてはダメだ。なぜなら、安倍政権はとっくに「ナチスの手口」を学んでいる。それが如実に表れたのが「憲法の番人」、内閣法制局のムチャクチャな人事だ。
 安倍は内閣法制局の山本庸幸長官(63)を退任させ、後任に小松一郎・駐仏大使(62)を充てる方針を固めた。8日にも閣議決定されるが、憲法解釈を堅持する立場の内閣法制局は、改憲派の安倍にすれば「目の上のたんこぶ」。そのトップ交代は安倍の独断専行、ゴリ押しで決まった。【中略】
「外務省出身の長官も初めてなら、法制局未経験者の起用も初めて。長官になるには、憲法解釈を内閣に答申する法制局第1部の部長を経て、法制次長を歩むという過去60年に及ぶ慣行があります。職務の専門性や、行政、法律、憲法解釈の継続性を考えれば妥当なルールですが、安倍首相はなりふり構わず、あくまで自分と同じ考えの長官起用にこだわったのです」(霞が関事情通)
 今回の人事について安倍サイドは、解釈変更に断固反対の公明党に一切、連絡を入れなかった。さらに小松氏の手足となって働く法制局第1部の参事官には、安倍の地元・山口県庁に出向経験のある総務省の課長級キャリアを抜擢。これだって法制局に「安倍流」を押し付ける人事だ。
 考えの異なる人物をパージし、自分に好都合な人材を後任に据えるためなら、どんな禁じ手も犯す。この手口は、ナチス同然の恐怖政治そのものではないか。
「憲法9条の解釈変更に邁進する安倍内閣は、中国の海洋進出や北朝鮮危機を必ず結びつけようとする。この姿勢もナチスを彷彿させます。ナチスは第1次大戦の戦勝国である欧州諸国との対立を煽って、ドイツ国民を鼓舞。ナショナリズムの狂騒のドサクサで、独裁を許した『全権委任法』を成立させ、事実上ワイマール憲法を葬り去ったのです。麻生発言のように『誰も気づかないで変わった』わけではありません。安倍政権はナチスの手口で平和憲法をなきものにする気なのでしょうか」(立正大教授・金子勝氏=憲法)
 安倍政権はナチスと同じ独裁の道を着々と前進している。

 八月四日の東京新聞のコラム「筆洗」は、この記事に比べれば冷静で抑制的だが、ほぼ同旨。
 このほか、この間に、自民党の改正草案が出たときに騒がず、麻生発言が出て騒ぐのはおかしいという新聞記事(あるいは読者の投稿)を読んだ。正論だと思ったが、今、それを特定できないことを遺憾とする。

今日の名言 2013・8・10

◎安倍政権はとっくに「ナチスの手口」を学んでいる

 日刊ゲンダイの八月五日号(八月三日発売)第三面に載った記事に出てくる言葉。上記コラム参照。

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吉本隆明における「戦争への加担」という問題意識

2013-08-09 05:45:13 | 日記

◎吉本隆明における「戦争への加担」という問題意識

 昨日は、吉本隆明のいう「関係の絶対性」は、「倫理」ではなく、むしろ、「脱倫理」ともいうべき論理ではないかということを述べた。
 また、吉本のいう「秩序にたいする反逆、それへの加担」という言葉について、多羽田敏夫氏のように、これを「秩序にたいする反逆、その反逆への加担」と捉える解釈もあるが、一方でこれは、「秩序にたいする反逆、あるいは秩序への加担」とも解しうるのではないかということを述べた。
 本日は、あとのほうの問題、すなわち吉本の「秩序にたいする反逆、それへの加担」という言葉を、どう解釈すべきかについて述べてみたい。
 呉智英氏は、その著書『吉本隆明という「共同幻想」』(筑摩書房、二〇一二)の三一ページで、「マチウ書試論」における「秩序にたいする反逆、それへの加担というものを、倫理に結びつけ得るのは、ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である」などの文章を抜き出したのち、三一ページから次ページにかけて、それについて、次のようにコメントしている。

 つまりは、吉本隆明は、政治や歴史への反抗や加担を倫理的に問いつめたり、倫理的評価の基準にすることはできない、ということを主張したいのである。なぜならば、加担にしろ反抗にしろ、人間が自由に選択しているように見えながら、人間と人間の関係が強く関わっているからである、と。これを吉本は「関係の絶対性」と呼ぶ。

 まず、注意したいのは、呉氏が吉本の「秩序にたいする反逆、それへの加担」という言葉を、「秩序にたいする反逆、あるいは秩序への加担」と捉えていることである。このことは、呉氏が、「加担にしろ反抗にしろ」という言いかたをしていることでも明白である。
 この捉えかたは、多羽田敏夫氏の捉えかたとは異なるものである(昨日のコラム参照)。私は、呉氏の本のほうを、多羽田論文よりも早く読んでいたせいもあって、どちらかといえば、呉氏の捉えかたのほうが妥当ではないかという印象を抱く。
 しかし今、どちらの捉えかたが正しいのかという「国語」的な問題には立ち入らない。問題とすべきは、どちらの捉えかたをしたほうが、吉本の思想の本質に迫れるかということだと思う。
 呉氏のように捉える場合、吉本がこの「関係の絶対性」という概念を持ち出す際に、「秩序への加担」という問題も意識していたと捉えることになる。吉本は、潜在的であったにせよ、「秩序への加担」という問題も意識していたのではないだろうか。その場合の「秩序への加担」とは、ハッキリ言えば、「戦争への加担」のことだったのではないか。すなわち、吉本の思想の本質に迫るためには、呉氏の捉えかたのほうを支持すべきではないだろうか。
 ただし、呉氏は、「加担にしろ反抗にしろ、人間が自由に選択しているように見えながら、人間と人間の関係が強く関わっている」と述べるだけで、「戦争への加担」には言及していない。呉氏の『吉本隆明という「共同幻想」』を再読した際、私はそこに不徹底なものを感じた。
 七月二四日のコラムで、私は、呉氏の本について、いくつかコメントしたが、そのうちのひとつを再掲する。

一 「関係の絶対性」という言葉を思いついた際、吉本は、「戦争協力」や「戦争責任」という問題を考えていた可能性がある。つまり、ここで吉本が問題にしたかった「加担」とは、「戦争への加担」だったのではないか。呉氏のコメントを読むと、そうした可能性を想定しているようには思えない。

 ここでのコメントを、詳しく説明すれば、今日のような話になる。
 一方で、多羽田論文においては、吉本のいう「秩序にたいする反逆、それへの加担」が、「秩序にたいする反逆、その反逆への加担」と理解されていた。そこには、「秩序への加担」という発想そのものが見られない。もちろん、「戦争への加担」という問題意識をうかがうこともできないのである。

*この話は、まだまだ続きますが、明日は、とりあえず、別の話題に振ります。

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吉本隆明のいう「関係の絶対性」は、「脱倫理」の論理

2013-08-08 04:00:36 | 日記

◎吉本隆明のいう「関係の絶対性」は、「脱倫理」の論理

 昨日の続きである。多羽田敏夫氏は、吉本隆明のいう「関係の絶対性」を、「人間の存在の最低の条件である倫理的な責任」として捉えている。これについて私は、昨日、これは恣意的な解釈なのではないかと指摘した。
 本日は、この点について、もう少し述べる。
 多羽田氏は、論文のなかで、「マチウ書試論」について、次のように論じている(傍点は省略した)。

 周知のように、吉本隆明は初期の代表作「マチウ書試論」(一九五四年)において、イエスの歴史的実在を否定した聖書学者アルトゥル・ドレウスの『キリスト神話』に依拠し、ジェジュ(=イエス)をマチウ書(=マタイ伝)の作者が仮構した人物であるとみなし、ローマ帝国の支配的な秩序と結託したユダヤ教に対する激しい近親憎悪と被虐意識を抱いた原始キリスト教の宗教的な抗争を、徹頭徹尾思想的な抗争と読みかえ、そこに「反逆の倫理」を見出そうとした。今日、福音書の実証的な歴史研究の進展によって、イエスの存在の史実性がほぼ明らかにされているが、しかし、吉本にとってそれらの事実は、「マチウ書試論」のモチーフに何ら変更を認めるものではなかっただろう。なぜなら、吉本の関心は、「人類最大のひょうせつ書」を書いたマチウ書の作者にあり、なによりその主要なモチーフは、原始キリスト教の反逆を「関係の絶対性」という視点の導入によって倫理的に救抜することにあったからだ。
《ここで、マチウ書が提出していることから、強いて現代的な意味を描き出してみると、加担というものは、人間の意志にかかわりなく、人間と人間との関係がそれを強いるものであるということだ。人間の意志はなるほど、撰択する自由をもっている。撰択のなかに、自由の意識がよみがえるのを感ずることができる。だが、この自由な撰択にかけられた人間の意志も、人間と人間との関係が強いる絶対性のまえでは、相対的なものにすぎない。(中略)
 ……関係を意識しない思想など幻にすぎないのである。(中略)秩序にたいする反逆、それへの加担というものを、倫理に結びつけ得るのは、ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である。(「マチウ書試論」)》
 人間と人間との関係を決定するのは、個々の意志を超えた絶対性であるということ。すなわち、人間の意志ではどうにもならない絶対的なものが、人間と人間との関係を決定してしまうこと、それを吉本は、「関係の絶対性」というのである。重要なのは、吉本が、この「関係の絶対性」という視点を導入することによって、「秩序にたいする反逆、それへの加担というものを」倫理的に救抜しようとしていることである。当時勤めていた東洋インキで労働組合の責任ある立場にあり、「壊滅的な徹底闘争」(「過去についての自註」、『初期ノート』、試行出版部、一九六四年所収)に「加担」していた吉本にとって、このモチーフは切実なものであったにちがいない。

「マチウ書試論」のサブタイトルは、「反逆の倫理」である。そこで、吉本は、たしかに「倫理」という言葉を使っている(「秩序にたいする反逆、それへの加担というものを、倫理に結びつけ得るのは……」)。
 しかし、ここでいう「倫理」とは、すなわち人々を倫理的に「救抜」する論理であり、人々を倫理意識から解除しようとする論理である。いずれにせよ、「倫理」そのものではない。むしろ、「脱倫理」ともいうべき論理である(「倫理への反逆」とまでは言わない)。
 ところが、吉本は、米国同時多発テロ以降、「人間の『存在の倫理』」ということを言いはじめた。これは、主張の内容からみて、文字通りの「倫理」である。
 それはそれでよいのだが、多羽田氏のように、「人間の『存在の倫理』」という概念を、一九五〇年代まで遡らせ、それによって「関係の絶対性」を、「人間の存在の最低の条件である倫理的な責任」として捉えるのは、やはり行き過ぎた解釈ではないのだろうか。
 ところで多羽田氏は、先ほど引用した箇所のなかで、「壊滅的な徹底闘争に加担」という表現を用いていた。
 このことから多羽田氏が、吉本のいう「秩序にたいする反逆、それへの加担」という言葉を、「秩序にたいする反逆、その反逆への加担」というふうに理解していることがわかる。しかし、ここで吉本が言おうとしたのは、「秩序にたいする反逆、あるいは秩序への加担」だったのではあるまいか。これは、細かいセンサクのように思えるかもしれないが、吉本の「マチウ書試論」を理解する上では、かなり重要な論点であると思う。しかし、この点については次回。

今日の名言 2013・8・8

◎歴史に無知な者は保守を名乗る資格がない

 本日の東京新聞「こちら特報部」は、歴史に無知な日本の政治家二名について特集している。これは必読の記事である。末尾の「デスクメモ」(署名は「牧」)に、「歴史に無知な者は保守を名乗る資格がない」とある。

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吉本隆明のいう「関係の絶対性」は「倫理」なのか

2013-08-07 03:29:03 | 日記

◎吉本隆明のいう「関係の絶対性」は「倫理」なのか

 昨日の続きである。多羽田敏夫氏は、その論文で、吉本隆明のいう「関係の絶対性」と親鸞のいう「業縁」に由来することをハッキリと指摘している。思うにこれは、非常に重要な指摘である。すでにそのことを指摘している論者がいるのであれば、「すでに誰々によって指摘されているように」などの注記がほしいところだが、たぶんこれは、多羽田氏のオリジナルな視点なのではないだろうか。もしそうだとすれば、多羽田氏は、この視点がオリジナルなものであることを、この視点が重要な意味を持つことを、もっと強調してよかったのではないか。
 ところで多羽田氏は、この「オリジナルな視点」を、どのような「文脈」のなかで提示しているのか。
 吉本隆明は、世界貿易センタービルで起きたテロにかかわって、二〇〇二年に、「人間の『存在の倫理』」という概念を提示した。この概念を意識しながら吉本は、テロリストたちが、旅客機の乗客を降ろさないままビルに突っ込んだことを激しく非難した。
 多羽田氏は、吉本の「人間の『存在の倫理』」という概念、あるいは、乗客を降ろさなかったテロリストを非難した論理を、この論文において再解釈した。吉本隆明のいう「関係の絶対性」が、親鸞のいう「業縁」に由来するという多羽田氏の「オリジナルな視点」は、この「再解釈」にあたって援用されているのである。
 昨日引用した箇所に続く部分を、次に引用してみよう。

 ……すなわち「偶然の出来事」も「意志して撰択した出来事」も恣意的な、相対的なものにすぎない。真に弁証法的な「契機」は、意志や偶然を超えて、ただそうするよりほかにすべがなかったという「関係の絶対性」からしかやってこない。つまり、人間は、「関係の絶絶対性」によって、意志とかかわりなく、千人、百人を殺すほどのことがありうるし、「関係の絶対性」が関与しなければ、たとえ意志しても一人だに殺すことはできない存在であるということである。
 この註釈を米国同時多発テロに当てはめてみれば、テロリストたらが、世界貿易センタービルを狙ったのは、「〈不可避〉的な契機」(=「関係の絶対性」)によってであるということになるだろう。
 それでは、テロリストたちが旅客機の乗客を降ろさずに、そのまま道連れにしてセンタービルに突っ込んだ行動についてはどうなのか。いうまでもなく、それは、吉本が、テロリストたちがやろうとしている象徴的行為にとって、旅客機の乗客たちが「全然関係のない人たち」であると強調しているように、テロリストたちに、旅客機の乗客たちを道連れにする「不可避的な契機」などまるでないということである。だが、テロリストたちは、「乗客たちの人間としての存在自体を、初めっから無視」することによって、「存在の倫理」そのものを根こそぎにしてしまったのだ。いいかえれば、人間の存在の最低の条件である「関係の絶対性」という倫理的な責任を全く放棄してしまったのである。吉本が、「乗客たちを降ろしたか否かということが重要な問題になる」と強調し、「人間の『存在の倫理』」に反するというのは、まさにそれゆえにほかならない。

 個人的な感想を言えば、吉本隆明が、世界貿易センタービルで起きたテロにかかわって、旅客機の乗客たちを道連れにしたことを重大視していることに、どうも違和感がある。また、吉本が、テロリストを非難するために、「人間の『存在の倫理』」という概念を創出したことに対しても、共感しがたいものがある。しかし、今は、この問題について論じない(数回のちに論ずることになろう)。
 それ以上に気になるのは、多羽田氏が、引用した箇所の最後のほうで、「人間の存在の最低の条件である『関係の絶対性』という倫理的な責任」という表現を使っていることである。
 ここで、多羽田氏は、「関係の絶対性」を、「人間の存在の最低の条件である倫理的な責任」として捉えているようだ。氏がここで、吉本のいう「人間の『存在の倫理』」という概念を用いて、「関係の絶対性」を再解釈しようとしているのであろうということは推測がつく。しかし、吉本のいう「関係の絶対性」をそのように捉えることは妥当なのか。
 吉本が「マチウ書試論」で「関係の絶対性」を使ったとき、それを「人間の存在の最低の条件である倫理的な責任」のいう意味で用いていたとは、とても思えない。おそらく多羽田氏は、これは、二〇〇二年に吉本が提示した「人間の『存在の倫理』」という概念を、一九五〇年代の用語である「関係の絶対性」に遡って、適用したのではないだろうか。だとすればこれは、「関係の絶対性」に対する解釈としては、かなり恣意的なものと言えるのではないだろうか。
 多羽田氏は、吉本隆明のいう「関係の絶対性」が親鸞のいう「業縁」に由来することを指摘した。おそらくこれは、多羽田氏のオリジナルな視点であろう。ところが、氏はこれを、吉本の世界貿易センタービル事件についての言説を再解釈するなかで提示した。そのために、せっかくのオリジナルな視点を、印象的に提示することができなかった。これは、ある意味で、残念なことだと思う。のみならず氏は、吉本の「関係の絶対性」について、かなり踏み込んだ解釈を示している。これは、せっかくの氏の「オリジナルな視点」を帳消しにしかねない恣意的な解釈であり、このことについてもまた、残念だという感想を抱くのである。【この話、もうしばらく続く】

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多羽田敏夫氏が指摘する「関係の絶対性」と「業縁」の関連性

2013-08-06 07:20:21 | 日記

◎多羽田敏夫氏が指摘する「関係の絶対性」と「業縁」の関連性

 話を戻して、多羽田敏夫氏の論文「〈普遍倫理〉を求めて――吉本隆明「人間の『存在の倫理』」論註」について述べる。この論文は、第五六回群像新人文学賞評論部門の優秀作に選ばれ、『群像』六月号に掲載されたものである。
 多羽田氏は、論文の冒頭で、二〇〇一年の同時多発テロ事件に対して、吉本隆明がおこなった発言について紹介する。続いて「マチウ書試論」における「関係の絶対性」に触れ、次に『歎異抄』第十三条に触れ、さらに吉本のいう「関係の絶対性」と親鸞のいう「業縁」の関連性について指摘している。
 該当する部分を引用してみよう。

 ……むろん吉本は、テロによる殺人を許容しているわけではない。殺人を許容しようがしまいが、人間は、個々の意志を超えた「関係の絶対性」によって人を殺し、また殺されることもある。その冷厳な事実を目を背けずに認識せよ、と吉本はいっているのだ。
 たとえば、吉本が『最後の親鸞』(春秋社、一九七六年)、『歎異抄』第十三条の挿話について触れた註釈は、「関係の絶対性」と無縁ではあるまい。その挿話とは次のようなものなのだ。あるとき、親鸞が弟子の唯円に「わたしのいう言葉を信ずるか」「わたしのいうことに背かないか」と問うと、唯円は、「おおせのとおり信じます」「おおせの主旨をうけたまわります」と答える。その唯円にむかって親鸞は、「たとえば人を千人殺してみよ、そうすれば往生は疑いないだろう」というのだが、唯円は「一人でさえもわたしのもっている器量では、人を殺せるとはおもえません」と返答する。すると、親鸞が「何事も心にまかせたことならば、往生のために千人殺せといえば、その通り殺すだろう。けれども一人でも殺すべき機縁がないので殺害しないのである。自分の心が善いから殺さないのではない。また殺害しまいと思っても百人千人を殺すこともあるだろう」と言うのである。吉本は、親鸞のこの言葉を次のように註釈している。
《人間は、必然の〈契機〉があれば、意思とかかわりなく、千人、百人を殺すほどのことがありうるし、〈契機〉がなければ、たとえ意志しても一人だに殺すことはできない、そういう存在だと云っているのだ。それならば親鸞のいう〈契機〉(「業縁」)は、どんな構造をもつものなのか。ひとくちに云ってしまえば、人間はただ、〈不可避〉にうながされて生きるものだ、と云っていることになる。もちろん個々人の生涯は、偶然の出来事と必然の出来事と、意志して撰択した出来事にぶつかりながら決定されてゆく。しかし、偶然の出来事と、意志によって撰択できた出来事とは、いずれも大したものではない。なぜならば、偶発した出来事とは、客観的なものから押しつけられた恣意の別名にすぎないし、意志して撰択した出来事は、主観的なものによって押しつけた恣意の別名にすぎないからだ。真に弁証法的な〈契機〉は、このいずれからもやってくるはずはなく、ただそうするよりほかすべがなかったという〈不可避〉的なものからしかやってこない。(『最後の親鸞』)》
 人間は、必然あるいは不可避的な〈契機〉があれば、個々人の意志に関わりなく、人を殺してしまうことがありうること。ここで吉本が述べている不可避的な〈契機〉や「業縁」が、「関係の絶対性」という概念とほとんど同義であることは明らかである。いや、吉本は、まぎれもなく、この『歎異抄』第十三条の註釈を「関係の絶対性」の認識で説いているのだ。実際、吉本がここでいっている「必然に〈契機〉」や「業縁」、また「不可避」という言葉を、すべて「関係の絶対性」という言葉に置き換えてもその論旨に変更はあるまい。

 引用が長くなったが、ここで多羽田氏は、吉本のいう「関係の絶対性」と親鸞のいう「業縁」の関連性をハッキリと指摘している。
 私はこれを非常に重要な指摘だと思うが、多羽田氏は、このことはみずからが初めて指摘したことであるなどを、この論文で強調してはいない。
 これはなぜか。おそらく、吉本がその文章のなかで(『最後の親鸞』)、ほとんどそれに近いことを述べており、多羽田氏はこれを、半ば自明のことと考えておられたのではないだろうか。あるいは、多羽田氏以前に、すでに誰かが、吉本のいう「関係の絶対性」と親鸞のいう「業縁」の関連性を指摘しているということがあり、多羽田氏がそのことを知っておられたのかもしれない。【この話、続く】

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