礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

雑誌『ながはま』に載った尾崎光弘氏の野口英世研究

2013-08-16 08:06:10 | 日記

◎雑誌『ながはま』に載った尾崎光弘氏の野口英世研究

 昨日の続きである。昨日、「週刊 日本の100人 改訂版」067号(ディアゴスティーニ・ジャパン、二〇一三年四月三〇日)の『野口英世』の二七ページにある文章を引用した。
 そこには、「尾崎光弘氏が『英世伝』出版数の推移を分析した結果によると、英世伝ブームには5つのヤマがあるという」とあった。この部分だけを読むと、尾崎氏が分析したのは、「『英世伝』出版数の推移」に限定され、尾崎氏が提示したことも、「英世伝ブームには5つのヤマがある」ということに限定されるかに思えるが、そうではない。尾崎氏は、「5つのヤマ」のそれぞれに関して、そこで、どういう「キィワード」が強調されたかを詳細に分析している。
 すなわち、「週刊 日本の100人 改訂版」『野口英世』のうち、昨日、引用した部分は、実質的には、尾崎氏の所論のダイジェストともいうべきものなのだが、一見したところ、そうとは思えないような微妙な書き方がなされている。
 昨日のコラムで、「この執筆者は、ひとの所論を援用する際、どこまでがひとの指摘で、どこからが自分の見解かということを区別して書くという文章上の基本を、わかっていないのではないだろうか。もしくは、そういう基本については十分に承知した上で、あえて、そのあたりをボカして書いているのではないだろうか」と述べたのは、このことなのである。
 尾崎光弘さんに確認したところによれば、氏が「野口英世伝」の出版数の推移を分析した文章というのは、雑誌『ながはま』第二二号(一九九六年一一月九日)に掲載された「野口英世『物語』の発見」という論文である。なお、この『ながはま』という雑誌の発行元は、「野口英世博士ゆかりの細菌検査室保存をすすめる会」という長い名前の会(事務局・横浜市)である。
 尾崎さんは、四段組で一〇ページに及ぶこの論文のなかで、「野口英世伝」の出版数の推移を分析し、そこに、「五つのブーム」を見出した。順に、①死去後のブーム、②戦争期のブーム、③復興期のブーム、④高度成長期のブーム、⑤七十年代のブームである(七ページ)。
 尾崎さんは、それぞれのブームにおいて、野口英世の、どのような一面が強調されたのか、それが、その当時の時代背景とどういうに結びつくのかを、詳細に、かつ説得的に論じている。
「週刊 日本の100人 改訂版」067号の執筆者(あるいは、そのうちのひとり)は、当然ながら、この尾崎さんのすぐれた研究に接し、それを踏まえて、文章を執筆したのであろう。ではなぜ、その執筆者は、「尾崎氏の論文の趣旨を、以下に要約してみよう」といったような書き方をしなかったのか。そういった書き方ができなかったのか。おそらくそこには、それなりの理由があったものと思われる。【この話、さらに続く】

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野口英世伝とそれに関わるキーワード

2013-08-15 21:22:20 | 日記

◎野口英世伝とそれに関わるキーワード

 数週間前、新刊書店で、「週刊 日本の100人 改訂版」067号(ディアゴスティーニ・ジャパン、二〇一三年四月三〇日)の『野口英世』を買ってみた。
 パラパラと読んでいると、その二七ページに、歴史民俗学研究会でご一緒している尾崎光弘さんのお名前が登場していた。尾崎さんに、メールでその旨を伝えると、この本のことは知らなかったとのことであった。
 同書では、どのような形で、尾崎さんの名前が登場するのか。それは、過去に尾崎さんが発表した野口英世論を援用するという形で、その名前が出てくるのである。ともかく、関連するところを引用させていだだこう。

 会津若松市に建つ英世の銅像台座には「忍耐」の文字が刻まれている。この言葉は、野口英世を評価する上で欠かせないキーワードであり、英世伝記の中心を成す価値観である。
 英世伝は第2次世界大戦前に54冊、そして戦後から1989(平成元)年までの間に217冊出版されている。ひとりの人間についてこれ程たくさんの伝記本があることは珍しく、これは読者のニーズがなければ生まれない事実である。そして尾崎光弘氏が「英世伝」出版数の推移を分析した結果によると、英世伝ブームには5つのヤマがあるという。すなわち①死去後②戦争期③復興期④高度成長期⑤70年代である。尾崎氏は、これらのヤマはすべて日本社会の大きな転換期にぴったり当てはまっていると指摘する。
 まず①死去後の頃、1936(昭和11)年の『尋常小学修身』では「志をたてよ」という単元で英世が取り上げられ、立派な人になろうと志を立てたことに焦点が当てられている。当時、立派な人間とは国家のために仕事をする人間のことである。②戦争期では1942(昭和17)年の『初等科音楽二』で唱歌「野口英世」が採用されている。歌詞には「人の命すくはうとじぶんは命すてた人」とあり、立派な死に方をした人という側面が強調される。時代は国のために死ねる、たくさんの兵隊を必要としていた。
 そして戦後の③復興期、軍人・乃木希典や楠木正成などは教科書から姿を消したが、英世は1954(昭和24)年の理科の教科書で復活。「人類平和の勇士ともいうべき人です」と紹介された。④高度成長期になると、出版数は最大規模になる。英世は忍耐と努力で経済成長を成し遂げた戦後日本の姿である。しかし、1969(昭和44)年の道徳の副読本『あたらしいせいかつ』で取り上げられる英世は、何のために勉強するのか目的もなく、劣等感を抱いたひよわな少年である。生活が豊かになった一方で、公害などの新たな問題、学校においては学園闘争、いじめなどの問題が現われた頃。英世の姿は、このままで良いのかと逡巡する世相を投影している。
⑤70年代以降になると、世のため人のため、という面は影をひそめ、自分のために一直線に突き進んでいったたくましい人物像ができ上がる。映画化もされた渡辺淳一『遠き落日』では、欠点は多いが魅力的な人物として描かれ、90年代になると、これまで空白の多かった外国の英世を詳細に描く伝記が増えた。これらは「国際化」や「国際貢献」という現代が必要としている価値観に符合している。
 このように「努力」「忍耐」「母性愛」「国際貢献」など、英世の生き方を切り取るキーワードは、否定することのできない根本的な価値観ばかりであり、英世の人生を構成する要素がいつの時代にも必要とされてきたことが分かる。英世の伝記は形を変えながら、これからも多くの人々に読み継がれてゆくのである。

 文中、「1954(昭和24)年」とあるのは、原文のママ。これは誤記で、「1949(昭和24)年」が正しい。
「週刊 日本の100人 改訂版」『野口英世』の編集体制については、よくわからない。上記に引用した部分を執筆したのが誰であるかも不明である。ただし、多少、文章を書き、公にしたことがある人であれば、すぐ気づくことがある。それは、この文章が、はなはだ問題の多い文章だということである。
 尾崎光弘氏の所論を踏まえて書いた文章であることはわかるが、どこまでが尾崎氏の所論であり、どこまでが筆者の所論であるのか、全くわからないような書き方をしているということである。
 この文章の執筆者は、ひとの所論を援用する際、どこまでがひとの指摘で、どこからが自分の見解かということを区別して書くという文章上の基本を、わかっていないのではないだろうか。もしくは、そういう基本については十分に承知した上で、あえて、そのあたりをボカして書いているのではないだろうか。【この話、続く】

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小平事件(小平義雄連続暴行殺人事件)研究の重要性

2013-08-13 04:25:04 | 日記

◎小平事件(小平義雄連続暴行殺人事件)研究の重要性

 先日、批評社から連絡があり、住所・氏名不詳の読者から、礫川全次に対し、「小平事件」についての執筆を促す内容のハガキが来たとのことで、その文面を読ませていただいた。
 小平義雄による一連の暴行殺人事件、いわゆる小平事件については、よほどの年長者か、あるいは戦後の日本犯罪史に関心を持っている人でなければ、イメージが浮かばない人がほとんどではないかと思う。
 ウィキペディアの「小平事件」には、次のような要を得た紹介がある。

 小平事件(こだいらじけん)は、1945年(昭和20年)から1946年(昭和21年)にかけて、東京とその周辺で発生した連続強姦殺人事件である。
 太平洋戦争末期から敗戦直後の東京において、言葉巧みに若い女性に食糧の提供や就職口の斡旋を持ちかけ、山林に誘い出したうえで強姦して殺害するという手口で行われた連続事件である。
 初めの強姦・殺人事件から1年以上を経た1946年(昭和21年)8月17日、7人目の被害者女性が遺体となって発見されたが、直前にこの女性と会っていた小平義雄(こだいら よしお。当時41歳)が逮捕され、犯人であると判明した。小平が他の事件への関与も自供したことから、連続強姦殺人事件が発覚した。小平は事件10件について起訴され、3件が無罪、7件が有罪となった。1948年(昭和23年)11月16日、小平に対する死刑判決が確定し、翌年10月に執行された。

 私はかつて、『戦後ニッポン犯罪史』(批評社、一九九五)という本の中で、「小平義雄連続暴行殺人事件」というタイトルのもとに、この事件について論じたことがある。
 おそらく、このハガキを投函された方は、同書をお読みになられたのであろう。
 ハガキの主は、「強盗強姦は日本軍隊にはつきものですよ」という小平の言葉などを引いた上で、次のように述べられている。

 こう言っては、戦死した兵士の遺族の方々には申し訳ないが小平の陳述(予審調書)を読むと、“英霊”の中には、小平と同じような蛮行をした兵士も数多くいたと考えるのが自然である。“英霊”になりそこねた小平は、戦後引きおこした事件で、生きたまま捕ったために、その供述(予審調書)は、はからずも中国における日本軍の“三光”を明らかにした点で、“貴重”である。…というわけで、犯罪(事件)ものを多く手がけている礫川全次氏に小平事件についての作品を希望したい。

 このハガキを読んで、私は、「小平事件についての作品」は、ぜひ、この未知の読者に書いていただきたいと思った。この方には、お葉書を勝手に紹介させていただいたことのお詫びも、申し上げなければならない。ぜひ再度、連絡をいただきたいと思う。

*都合により、明日から数日間、ブログの更新をお休みします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松尾正路の紹介で知るプレヴォーパラドルの生涯

2013-08-12 08:25:05 | 日記

◎松尾正路の紹介で知るプレヴォーパラドルの生涯

 昨日のコラムを補足する。『近代思想の成立―フランス・モラリスト―』の著者プレヴォーパラドルという人物について、わかる範囲で紹介してみよう。
 ウィキペディアによれば、Lucien-Anatole Prévost-Paradolは、フランスのジャーナリスト、エッセイスト。一八二九年にパリで生れ、一八七〇年にワシントンで没した。
 松尾正路〈マサミチ〉訳『近代思想の成立―フランス・モラリスト―』(一九四八)の原題は、Études sur les moralistes françaisである。これが、一八六五年に出版された本であることは、昨日のコラムで述べた。
 このプレヴォーパラドルについて、『近代思想の成立―フランス・モラリスト―』の訳者・松尾正路(一九〇五~一九九一)は、同書の巻頭「訳者の言葉」で、以下のごとく、印象的な紹介をおこなっている。

 プレヴオーバラドルは、こういうフランス的な産物の代表的な一人である。彼はエコール・ノルマルの秀才で、特に文学評論に抜群の才を発揮している。同校卒業者の年(一八五〇年)にはベルナルダン・ド・サンピエールに関する論文を書いてフランス翰林院〔アカデミー〕の賞を獲得、文筆によつて立つことを決意した。一八五五年には「エリザベスとアンリ四世」(Elisabeth et HenriIV)、「スウイフト論」(Jonathan Swift)を書いて文学博士となり、間もなくエークス大学の文学教授に任命されたのであるが、翌年にはもう大学教授を辞めて新聞「デパ」に関係、「日曜通信」(Courier du Dimanche)を創設、いわゆる舌端火を吐く名論説に声価を高め、帝政攻撃の陣を張つた。その結果、「日曜通信」は廃刊を命ぜられ、彼は代議土選挙に立つたが、二回とも落選している。しかし、この間、彼れがフランス翰林院の選挙に当選したことは政治生活の不遇を補つているように思われる。ところが、文学者としてこの名誉もなお、彼を文学のなかにひきとどめるには足りなかつたらしい。一八七〇年、彼はフランス大使となつてアメリカに赴任した。そしてこれが、ヴオヴオナルグを評したとき彼自身が引用した言葉をかりるならば、「不幸の絶頂」となることを知らなかつたのである。ナポレオン三世から、ヨーロツパ平和確立の使命を帯びて赴任した彼が、ワシントンで信任状を呈出したその日に普仏戦争勃発の報があつた。名誉を失つた彼は、孤独と懊悩のはて、遂に自殺をとげたということである。
 彼のこの悲劇的な最後は、何故か、その運命を暗示するかのごとく、彼自身の著述「フランスのモラリストに関する研究」に染み出ている。彼のモラリスト研究は、むしろ熱情と死に関するエツセエともいうべきもので、パスカルの場合も、特にヴオーヴナルクの場合にそうであるが、彼の筆が怪しく冴えるのは、いつもこの問題に触れるときである。原文はやゝ勇弁にすぎる名文で流れてやまぬその名調子をそのまゝ日本語に移すことは殆ど不可能である。
 訳は、故手塚教授文庫のÉtudes sur les moralistes français,1865によつた。ワルラスを訳された先生の厳しい学問的良心と熱情に関しては、背に鞭うたれる思いがする。しかし、初版と思われるこの良書を巴里〈パリ〉のどこで買い求められたのか経済学者の好奇心がこのように幸いしたことについては深く感謝の意を表する次第である。

 上の引用で、「故手塚教授文庫」とあるのは、小樽商科大学の手塚文庫のことであろう。これは、小樽経済専門学校教授だった手塚寿郎〈ジュロウ〉教授の蔵書六〇〇〇冊余(フランス語文献が中心)を収めたものだという。訳者の松尾正路も、当然、小樽経済専門学校(前進は小樽高等商業学校、後身は小樽商科大学)関係者ということになる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プレヴォーパラドルの「ラ・ボエシー」論を読む

2013-08-11 09:51:32 | 日記

◎プレヴォーパラドルの「ラ・ボエシー」論を読む

 先月の一三日から一九日まで、ルネサンス期のフランスの思想家ラ・ボエシーについて採り上げた。
 すると、今月三日、ラ・ボエシー研究に関しては、今日、第一人者である大久保康明氏から、コメントをいただいた(コメントの対象は、七月一九日のコラム)。全くの門外漢の駄文に目をとめていただいたばかりでなく、コメントまでいただいたことに恐縮した。
 ところで、ラ・ボエシーについては、ひとつ書き落としたことがあるので、ここに追加する。
 終戦直後の一九四八年、現代評論社から出たプレヴオーパラドル著・松尾正路訳『近代思想の成立―フランス・モラリスト―』という本がある。原著は、何と、一八六五年刊である。
 この本で著者は、モンテーニユ、ラ・ボエシイ、パスカル、ラ・ロシユフコウ、ラ・ブリユイエール、ヴオーヴナルグという六人のモラリストを採り上げている。
 ラ・ボエシイについても、二六ページにわたって解説している。
 これを読んでひとつ疑問を抱いたのは、ラ・ボエシイについて、本格的に解説した本、あるいは、『自発的隷属論』の翻訳は、戦前にも出されていたのだろうか、ということである。
 断定することはしないが、少なくとも、『自発的隷属論』の翻訳は出ていなかったのではないだろうか。ラ・ボエシーの死後、モンテーニュは、『自発的隷属論』の出版を断念したという。同様に、戦前の日本における研究者、あるいは出版社も、『自発的隷属論』の出版には、二の足を踏んだのではないかと推測する。このあたりについて、大久保康明氏の知見をお伺いできれば幸甚である。
 以下に、プレヴォーパラドルの著書の一部を抜き出す(四二~四三ページ)。

 美に対するおなじ愛、古代へのおなじ趣味、何事にも見られるおなじ節度など、彼らは肝胆相照すためにつくられていた。モンテーニユはこの友人〔ラ・ボエシイ〕が夭折した後、故人の名誉のために「自発的隷属」の出版を断念した。というのは、この論文がすでに、国家を改革することができるかどうかも知らずに無用な撹乱を企てる人々によつて悪用されていたからである。ラ・ボエシイが死期に際して静にモンテーニユの弟ド・ボオルルガール氏にむかい、教会を改革しようとする熱望のあまり、過激な極端な行動をとつてはいけない、と勧告している声が、吾々の耳にも聞えるのである。しかし、このように極端な言動を避ける共通性にもかゝわらず、ラ・ボエシイには、モンテーニユに見られなかつたある種の烈しい野心を俗事に立入る傾向があつた。つまり彼は、社会の様々な変動のなかに、人間の知性と誠実さが果し得る有益な役割について、モンテーニユよりも多くの信頼と夢とを持つていたのである。モンテーニユは、彼の友人がサルラよりもヴエニスに生れることを好んだであろうと、吾々に語っている。宰相ド・ロピタルに宛てた書翰のなかではさらにはつきりと、ラ・ボエシイが「家庭の暖炉の側を離れなかつたことは、社会公益のために大きな損失であつた」と惜しんでいる。そしてなおつけ加え、「こうして公のために役立ち、彼自身の名誉ともなるべき多くのすぐれた才質が空しく終つた。」といつている。この愛惜の言薬は、ラ・ボエシイ自身が、その死後、失人の口をかりて囁き〈ササヤキ〉もらしているように思われるが、ヴオーヴナルグと同様、年齢のさかりに生命を奪われたね彼は、またヴォーヴナルグが生涯繰返したおなじことを、死に臨んでもらしている。モンテーニユに向い、「まさか私は、公のためにすこしも役立つことができないほど無益に生れたのではあるまい? いずれにせよ、神のお召しがあり次第、いつでもお別れする準備備はできている。」
 自分の半身が刻一刻失われてゆく思いをしながら、ラ・ボエシイの臨終を見守つたモンテーニユが自ら描くこの死ほど静かな美しい、そして吾々の規範たるにふさわしいものはない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする