礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

読んでいただきたかったコラム・ベスト10(2014年後半)

2014-12-26 06:17:05 | コラムと名言

◎読んでいただきたかったコラム・ベスト10(2014年後半)

 本年も、あますところ五日となった。恒例により、「読んでいただきたかったコラム・ベスト10」(二〇一二年七月~一二月)を挙げさせていただく。

一位 12月12日 ◎昭和18年(1943)のヘイトスピーチ

二位 12月6日 ◎黒岩涙香、藤村操の死を悼む

三位 12月2日 ◎菅原文太さんと秩父事件

四位 11月15日 ◎マーク・ゲインが石原莞爾に発した二つの質問

五位 9月6日 ◎鵜崎巨石氏による書評『日本保守思想のアポリア』

六位 9月13日 ◎9月12日の「大機小機」欄に拍手

七位 12月18日 ◎ようやく報道された菅原文太さんの「遺言」

八位 11月26日 ◎「邪宗」を弾圧して疑似宗教国家が生まれる

九位 10月19日 ◎研師としての柏木隆法氏

十位 9月16日 ◎松田幾之助、ルビつき活字について語る

*このブログの人気記事 2014・12・26

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生方恵一アナウンサーと「ミソラ事件」

2014-12-25 04:59:10 | コラムと名言

◎生方恵一アナウンサーと「ミソラ事件」

 今月一五日に、NHK の元アナウンサー生方恵一〈ウブカタ・ケイイチ〉さんが亡くなった。生方さんと言うと、まず思い出すのが一九八四年に起きた「ミソラ事件」である。訃報とともに、この事件に言及したメディアもあったと記憶する。
 今さら、こんな事件を持ち出しても、故人の追悼にはならないことはよくわかっているが、やはり書かずにはいられない。
 今日、ウィキペディアで「生方恵一」の項を見ると、「ミソラ事件」という見出しがある。これを見て初めて、あの事件に対して「ミソラ事件」という呼称が定着していることを知った次第である。以下は、ウィキペディア「生方恵一」からの引用。

 1984年12月31日、『第35回NHK 紅白歌合戦』で総合司会を担当。同紅白でラストステージを公言していた都はるみが、涙のアンコール曲となった「好きになった人」を歌い終えた直後、得点集計に移ろうとした生方は、「もっともっと、沢山の拍手を、ミソラ…(首を振りながら絶句、一瞬固まる)、ミヤコさんに、お送りしたいところですが…何ぶん限られた時間です。結果の方に移らさせて頂きます」と、都の名前を美空(ひばり)と言い間違えてしまうという失態を演じた。この映像はNHKの公開ライブラリーで視聴することができる。

 この生方アナウンサーの「失態」を私は、当時、リアルタイムで見ていた。そのことについて、小文で触れたこともある(『無法と悪党の民俗学』批評社、二〇〇四「あとがき」)。
 本日は、その小文からの引用である。

 一九八四年の大晦日に「NHK紅白歌合戦」を見ていた数千万人の日本人は、番組終了まぎわに、ひとつの重大な事件を目撃したはずである。
 この年、赤組のトリとして出場したのは、都はるみであったが、総合司会の生方恵一アナウンサーは、彼女を紹介する際、「ミソラ……」と言いかけてしまったのである。
 当時、美空ひばりは、ある理由でNHKから出演を拒否されていた。当然、「紅白歌合戦」にも出ることはできなかった。視聴者の多くは、なぜNHKは、実力ナンバーワンの美空を出さないのかという不満を抱いていた。その日、赤組のトリとして都はるみが登場しようという時、少なからぬ視聴者は、ここはヤッパリ「美空」でなくてはね、という気持ちを抑えることができなかったし、茶の間によっては、実際にそういう会話が飛びかったと思われる。
 まさにその時、視聴者は、生方アナの「ミソラ……(以下絶句)」という叫びを聞いたのである。
「起こりうる」誤りであった(フロイト理論によれば、錯誤行為にはその人の無意識が反映するという)。しかし同時に、「絶対に犯してはならない」誤りであった。そんな間違いを犯せば、全国の視聴者は、美空がなぜか排除されているという事実を改めて意識してしまうし、第一、都はるみに対して非常に失礼である。
 実は、私もその日に、生方アナの「ミソラ」発言を聞いた視聴者の一人であった。思わず、「ヤッテしまった」と頭を抱えた。画面の中の「他人事」にもかかわらず、何か自分自身が重大なミスを犯してしまったような気がして、全身に鳥肌が立った記憶がある。
 生方アナは、この事件のあと、NHKを辞めることになった。辞めたあと、新聞か何かのインタビューで、そのとき「ミソラ……」と言ってしまったわけを話していたのを読んだことがあるが、彼の言う「理由」はあたりさわりのないもので、何らの説得力もなかった。
 さて、当時の美空が、NHKから出演を拒否されていた理由は、「暴力団」との関わりであった。
 しかし、そもそも自ら「暴力団」を自称している団体が存在するのだろうか。「暴力団〇〇組」という看板を見た人がいるのだろうか。「暴力団」とは、警察やマスコミによる「他称」にすぎない。どんな「暴力団」でも、博打・興行・露天商・ブローカー等々の生業を持っているのであって、「暴力団」という生業があるわけではない。
 美空が「暴力団」に関わっているという事実にしても、それは、美空というスターを抱え、芸能興業を生業としていた団体に対し、警察がそれを「暴力団」と位置づけたという事実以上のものではなかったはずである。美空と「暴力団」との関わりを強調し、それを理由に「紅白」から締め出す措置は、はたして正しかったのだろうか。【以下、略】

*このブログの人気記事 2014・12・25

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

和田秀樹氏、郡山で官僚批判を展開

2014-12-24 06:09:01 | コラムと名言

◎和田秀樹氏、郡山で官僚批判を展開

 昨日の続きである。昨日のコラムでは、菅原文太さんと和田秀樹さんが、福島県知事選に出馬した熊坂義裕候補のために、決起大会の応援弁士を務めたという話を紹介した。
 本日は、「et5652さん」のブログにあった「福島県知事選が終盤戦に突入~菅原文太を応援弁士に招いた熊坂陣営」という記事(一〇月二四日)から、和田秀樹さんの演説内容をまとめている部分を紹介させていただきたい。

 10月26日投開票の福島県知事選に立候補している熊坂義裕(元宮古市長)が10月23日、郡山市文化センターで決起大会を開いた。応援弁士は和田秀樹(精神科医)、菅原文太(元俳優)、荒井広幸(参院議員)、白岩康夫(寿泉堂クリニック名誉院長)の4人。和田と熊坂の関係はよく分からない。菅原は、熊坂を応援する全国勝手連の賛同人だ。荒井は熊坂の親戚。白岩は福島県常葉町(現田村市)出身。弘前大助教授時代の教え子が熊坂だ。その後、福島県立医大教授となり、定年退職後は郡山市の寿泉堂綜合病院で院長を務めた。兄の敏夫も医師で、元常葉町長。
 このうち、和田は官僚批判を熱っぽく展開した(発言の要旨)
「今日は福島ファンとして、東京から来ました。私は、広野町にいる原発の作業員のメンタルケアをするために、1カ月に1回の割合で福島に来ています。ボランティアです。
 最近、福島県警の警官2人が相次いで自殺しました。東京から来た警察官僚がパワハラで追い込んだからです。県警本部長はなぜ、東京から来たやつ(警察庁のキャリア官僚)がなるのか。なぜ地元の人がなれないのか。
 福島は全国で2番目に産婦人科医が減っています。県立大野病院(大熊町)の手術で産婦が亡くなったのは医療ミスが原因だとして、警察が執刀した産婦人科医を逮捕したからです(その後、裁判で無罪が確定)。民事でやるべきものを刑事事件にして、手錠をかけた。これが原因で産婦人科医が減少したんです。
 福島の原発は、東京に電力を供給するためにつくられました。知事選で自民党が相乗りしたのは、長州の安倍晋三首相が福島を支配するためです。東京オリンピックの開催が決まったことで、福島で働く人(作業員)が少なくなります。東京は、福島を差別するようなことをやってきたんです。
 原発の作業員のメンタルケアをして東京に戻ると、最初は汚い物を見るような目をされました。東京の新聞は、東京に都合のいい記事を書いてきました。福島が東京の言いなりにされかけている。知事を東京から来た官僚に取られてはなりません。本当の地方自治を確立しなければならない。福島は自由民権運動が盛んだったので、東京に支配されることはありません」

「et5652さん」は、応援弁士四人のうち、菅原、荒井、白岩の三氏については、熊坂義裕候補のの関係を記している。しかし、和田秀樹氏については、「和田と熊坂の関係はよく分からない」としている。
 演説の冒頭で和田氏は、「今日は福島ファンとして、東京から来ました」と言っている。「今日は熊坂ファンとして、東京から来ました」とは言っていない。昨日のコラムでも述べたように、和田氏がこの決起集会に参加することになったのは、同月に菅原文太氏と意気投合したからだったと思われる。ということであれば、和田氏は熊坂候補と、それまで、特に交友関係はなかったのではないか。もちろん、断定はしないが。

*このブログの人気記事 2014・12・24

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元俳優・菅原文太さんと精神科医・和田秀樹さんの接点

2014-12-23 06:10:51 | コラムと名言

◎元俳優・菅原文太さんと精神科医・和田秀樹さんの接点

 今月三日のコラム「菅原文太さんと『獅子の時代』」では、菅原文太さんが福島県知事選で、熊坂義裕候補者を応援するため、一〇月二三日に郡山市文化センターで開かれた同候補の決起大会に参加していたことを紹介した。
 この日のコラムでは、「et5652さん」のブログにあった「福島県知事選が終盤戦に突入~菅原文太を応援弁士に招いた熊坂陣営」という記事(一〇月二四日)から、その一部を引用させていただいた。引用させていただいた文章のうち、最初の部分だけを、再度、引用してみる。

 続いて、菅原がマイクを握った。司会者が「俳優の菅原文太さんです」と紹介すると、「俳優は引退しました。今は農業をやっています。無農薬の農業を」と言った。

 ここに、「続いて、菅原がマイクを握った」とある。菅原文太さんは、誰に続いて、「マイクを握った」のか。
 その日のコラムでは言及しなかったが、菅原文太さんの前に、マイクを握っていたのは、精神科医の和田秀樹さんである。菅原文太さんと和田秀樹さんという組み合わせは意外だった。また、和田秀樹さんが、共産党と新党改革が推していた熊坂義裕候補者を応援したということも意外だった(保守的な思想傾向の人だという先入観があったので)。
 数日前、「任侠高倉健と実録菅原文太」という記事を読むために、『週刊アサヒ芸能』の一二月二五日号を買った。この記事を読んで、なぜこの日、このお二人が郡山に赴き、熊坂義裕候補者を応援したのかという事情がわかったような気がした。
 同記事から引用してみよう(五四ページ)。

「文太さんはヒーローなんだけど、どこか泥臭く人間臭い感じがある。ボクは圧倒的に文太さんが好きです」
 と、語るのは精神科医で映画監督でもある和田秀樹氏。これまで3本の映画を撮っている和田氏は、この10月に会食の機会を得て映画出演を打診した。文太は「俳優は引退しているから」とやんわり断ったが、脱原発で話が盛り上がり、福島県知事選の応援に行くことになったという。
「福島は中央政府や東京都から植民地のような扱いを受けている。文太さんは原発問題があるのに、緒局、原発を容認しかねない自民党の子分のような侯補が当選するのは看過できないというのがあって、応援演説に出かけたんです。実はその時、かなり病状も深刻だったそうなのですが、演説になると、文太さんは『政治家というのは暗殺(されること)を覚悟でやらないといけない』『この地は自由民権の本場』などと、しんみりとした言い回しで聴衆を魅了するんです。人に訴えかける力は最後まで健在だった」(和田氏)
 白髪を隠すこともなく、病身でボロボロになりながらも、聴衆の前に現れ、「何とかしましょうよ」と訴え続ける文太。
「俳優の菅原文太さんですと紹介されると、『俳優はやめました。今は農業です』と現れ、『何とかしましょうよ』と訴えかける。一方の健さんはずっと役者でいようとした。健さんに憧れる人はロマンチストなのかもしれない。そこが2人の大きな違いです。健さんはイメージとしては、ハリウッド的なスターという感じ。映画という別世界の中に生きた人だと思いますね」(和田氏)

 このお二人には、「映画」という接点があったのである。
 郡山に赴く直前、菅原さんに映画出演を依頼しようとした和田さんが、逆に菅原さんから、福島知事選挙の応援に行こうと誘われたのではなかったか。もちろん、断定はしないが。【この話、続く】

*このブログの人気記事 2014・12・23

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国民工業学院と生活科学叢書

2014-12-22 03:40:24 | コラムと名言

◎国民工業学院と生活科学叢書

 戦後の一時期、国民工業学院が発行していた「生活科学叢書」という叢書があった。いま手元に、その一冊である三堀三郎著『医薬の知識』という本があるが、どうやらこの本は、同書の最終冊のようだ。奥付を見ると、「生活科学叢書/医薬の知識/著者 三堀三郎/編纂者 生活科学研究会」とある。発行日は、一九四九年七月二五日、発行者および発行所は、「財団法人 国民工業学院」となっている。
 同書は、生活科学叢書の第一四輯にあたるが、奥付にその旨の記載はない。ただし、表紙および背表紙には「14」という数字がある。
 同書巻末(奥付の前のページ)に「生活科学叢書目録」という書目の一覧がある。この資料、あるいは国立国会図書館のデータなどによって、同叢書の概要を紹介してみたい。

第1輯 電熱器 生活科学研究会編 1946 74頁 14円
第2輯 じゃがいもの科学 生活科学研究会編 1948 136頁 27円
第3輯 光と燈火 生活科学研究会編 1947 94頁 30円
第4輯 家庭の三害虫(南京虫・イヘダニ・蚤) 生活科学研究会編 飯村保三著 1947 140頁 28円
第5輯 家庭用刃物 生活科学研究会編 1947 120頁 35円 
第6輯 家庭の燃料 生活科学研究会編 1947 148頁 30円
第7輯 ラジオの知識 生活科学研究会編 1947 174頁 45円 
第8輯 感冒の科学 生活科学研究会編 1948 168頁 34円
第9輯 水飴 生活科学研究会編 山口鎮雄著 1947 140頁 28円
第10輯 (調理と生態) 生活科学研究会編 花岡資・谷井潔著 1948 120頁 40円
第11輯 家庭電気の知識 生活科学研究会編 1948 120頁 40円
第12輯 靴の科学 生活科学研究会編 1949 136頁 70円 
第13輯 甘酒とイースト 生活科学研究会編 1947 130頁 70円
第14輯 医薬の知識 生活科学研究会編 三堀三郎著 1949 176頁 80円
第15輯 甘味手帳 続刊
第16輯 ラジオの組立と調整 続刊

 全冊が、「生活科学研究会編」ということになっているが、それぞれに著者があって、その名前は、巻頭の「序」の署名によって確認できる。ただし、第4輯、第9輯、第10輯、第14輯以外は、著者を確認していない。
 なお、第15輯、第16輯は、未刊に終わったもようである。
 生活科学研究会については、詳しいことはわからないが、たぶん、国民工業学院が、「生活科学叢書」を発行するにあたって作った会であって、実体はなかったのではないだろうか。
 国民工業学院というのは、戦前からある組織であるが、詳しく研究してみたことはない。ただ、かつて井上角五郎という人物のことを調べたときに、国民工業学院という名前が出てきたことは、よく覚えている。また、一九三五年(昭和一〇)に国民工業学院から出た、井上角五郎編『二宮尊徳の人格と思想』という本を読んだこともある。
 ちなみに、『医薬の知識』の奥付によると、一九四九年(昭和二四)七月現在における国民工業学院の代表者は近藤吉雄、住所は東京都中央区銀座六ノ四交詢社ビルとなっている。

*このブログの人気記事 2014・12・22

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする