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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

服装は袴着用又は洋服たるべきこと(講道館)

2015-04-25 05:44:16 | コラムと名言

◎服装は袴着用又は洋服たるべきこと(講道館)

 昨日の続きである。昨日は、服部興覇著『図解説明最新柔道教範』(藤谷崇文堂、一九三三)の「付録」から、「講道館入門規則」を紹介した。本日は、「講道館柔道修業者心得」というものを紹介してみよう。

講道館柔道修業者心得
一、本館に於て柔道を修むる者は、身体を鍛錬し、精を修養し以て国家人類の為に裨益〈ヒエキ〉すべき人たらん事を期すべきこと。
一、道場に出席及び退席の節は師範席に向つて敬礼をすべきこと。
一、道場に出席の時は師範並に各役員及先進者の指揮に従ふべきこと。
一、師範並に先進者に対しては勿論、総て〈スベテ〉館員相互に礼儀を重じ〈オモンジ〉、先進者は後進の者を懇篤〈コントク〉に導き、後進の者は之に従順なるべきこと。
一、道場に出席の時は直に〈タダチニ〉出席簿に姓名を楷書に記入し稽古を為せし毎に〈ナセシゴトニ〉、其上欄に稽古したる者、互に相手の姓の頭字を記入すべし。
但〈タダシ〉無段者にして有段者と稽古せしときは有段者の分をも記入し、有段者にありでは下級者之を為す可きこと。
一、疾病〈シッペイ〉其他已むを得ざる〈ヤムヲエザル〉事故あるにあらざれば猥に〈ミダリニ〉欠席すべからざること。
一、但予定の日を限り稽古を乞ふものは、其旨幹事に届出で〈トドケイデ〉、予め〈アラカジメ〉許可を受くべし。
一、保証人又は自己転宿〈テンシュク〉の節は直ちに幹事に届け出す可きこと。
一、服装は袴〈ハカマ〉着用又は洋服たるべきこと。
一、更衣所外に於て裸体となり、域は肌を脱ぎ又は吸煙すべからざること。
一、道場内にありては、立〈リツ〉、坐〈ザ〉、共に姿勢を正しく、決して立て膝、横臥〈オウガ〉、胡坐〈アグラ〉、懐手〈フトコロデ〉又は足を投げ出す可からず。
一、存京者は師範及同所の者に対して、新年を賀する為めに毎年一月一日〈イチガツイチジツ〉より七日〈ナノカ〉迄に鏡餅〈カガミモチ〉壱重〈ヒトカサネ〉を贈呈すべきこと。

 以上の「心得」の中で、まず目を引くのが、「服装は袴着用又は洋服たるべきこと」という規定である。講道館は、こういう形で、館員のレベルを維持すると同時に、その「風紀」を統制しようとしたのであろう。

*このブログの人気記事 2015・4・25

 

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講道館への入門と「五箇条の誓文」

2015-04-24 04:35:30 | コラムと名言

◎講道館への入門と「五箇条の誓文」

 昨日、紹介した服部興覇著『図解説明最新柔道教範』(藤谷崇文堂、一九三三)という本だが、これは、一九二六年(大正一五)に出た、同じ著者による『柔道入門』(藤谷崇文堂)という本と、実質的に同じ本なのではないのだろうか。というのは、国立国会図書館の書誌情報を見ると、『柔道入門』の題簽〈ダイセン〉等に、「柔道教範」、「柔道図解」とあるという注記があるからである。本当に同じ本なのかどうかは、まだ確認できていない。ちなみに、『柔道入門』は、国立国会図書館の関西館のみに架蔵されている。
 ところで、『図解説明最新柔道教範』の巻末には、「付録」として、いくつかの資料が載っている。これが、いかにも時代がかっていて興味深い。本日は、これら資料のうち、「講道館入門規則」というものを紹介してみよう。

 講道館入門規則
一、入門を請ふ者は願書(第一号書式)に履歴書(第二号書式)を添へ講道館幹事に差出すべし。
一、入門を許可する際には左の五箇条の誓文に記名調印せしむ。
第一条 此度〈コノタビ〉御門〈ゴモン〉に入り〈イリ〉柔道の御教授を相願上〈アイネガイアゲ〉候上は猥に〈ミダリニ〉修行中止仕間敷〈ツカマツルマジク〉候事〈ソウロウコト〉。
第二条 御道場の面目〈メンボク〉を汚し候様の〈ソウロウヨウノ〉事一切仕間敷き〈ツカマツルマジキ〉事。
第三条 御許可なくして秘事を他言し、或は他見為仕〈タケンサセ〉間敷き事。
第四条 御許可なく柔道の教授仕間敷候事。
第五条 修業中諸規則堅く相守可〈アイマモルベキ〉は勿論、御免許後と雖も〈イエドモ〉教導に従事仕〈ジュウジツカマツリ〉候ときは必ず御成規に相背き申〈アイソムキモウス〉間敷候事。
一、入門の許可を得たる者は金弐円を添へ、扇子一封〈センスイップウ〉を入門の儀として納むべし。
一、外国其他〈ソノタ〉遠隔の地にありて入門を請ふ者は、講道館有段者の紹介を以て、願書、履歴書に扇子及び入門金弐円を添へ、誓文に記名調印して送付するときは詮議の上之を許可すべし。
但外国に在住するものに限り、扇子に代ふるに適宜の扇子料を以てする事を得〈ウ〉。
一、外国其他地方の道場に於ては、特に本館の許可を得て此規則を取捨する事を得。

*このブログの人気記事 2015・4・24

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柔術のルーツは同心、岡っ引の捕縛術

2015-04-23 06:59:50 | コラムと名言

◎柔術のルーツは同心、岡っ引の捕縛術

 今月二〇日の鵜崎巨石さんのブログに、『嘉納治五郎 わたしの生涯と柔道』(日本図書センター、一九九七)という本の紹介があった。この本をまだ読んでいなかっただけに、興味深い記事であった。
 同記事によれば、講道館柔道の創始者である嘉納治五郎は、初期の講道館の雰囲気について、次のような回想をおこなっているという。
《何万という講道館員の中には、乱暴したものもあり、喧嘩したものもあり、中には不道徳な罪を犯したものさえもある。もし講道館が彼等を世話しなかったならば、この不都合者は、はるかに、より以上以上多かったであろうと考える。講道館というものが、社会の乱暴者をできるだけ、訓化善導し得たと見るのが至当である》
 よく知られている通り、柔道といういう言葉は、嘉納治五郎が普及させたものであり、それまでは「柔術」と呼ばれていた。江戸時代においては、この柔術は、剣術や弓術に比べて、武術としての地位が、数段、低かったらしい。その柔術を柔道と改称し、その後、「剣道」に匹敵する「武道」の地位にまで引き上げたのは、まさに嘉納治五郎の功績であった。
 嘉納が回想するように、初期の講道館には、相当の乱暴者もいたようだが、こうした乱暴者が、既存の柔術諸派と対戦して、これを打ち負かし、講道館柔道の名を、世に知らしめたという見方もできなくはない。
 さて、先日、私は、近所の古本屋で、服部興覇著『図解説明最新柔道教範』(藤谷崇文堂、一九三三)という本を入手した。よくある柔道のワザの解説書のひとつにすぎないと思ったが、柔術・柔道の歴史についてもふれていて、そこに、かつての柔術は「不浄役人」が用いた「捕縛術」である旨の記述があった。
 柔術・柔道のルーツは、捕縛吏が伝承していた捕縛術ではないかということは、私もかねて考えていたことであり、「自説」を文章にしたこともあったが(二〇〇八)、昭和初期、すでに、同じ趣旨のことを書いていた人がいたことは知らなかった。以下に、当該部分を引用する。なお、著者の服部興覇〈ハットリ・コウハ〉は、講道館員、二段である。

 第三編 結 論
 第一章 柔道の史的観察
 【前略】
 それまで、乃ち〈スナワチ〉文学が隆盛期にある時武芸、殊に柔道は如何なる地位に置かれてゐたか、家光の時世に、渋川伴五郎、関口八郎が江戸市内に門戸を張つて、相当の隆盛を極めて居たが、その門弟は如何なる種類の人であつたか、余は独断的に左〈サ〉の如き考証を発表して先輩の示教〈ジキョウ〉を得んと思ふ。
(一)門弟は役人……それも同心以下所謂〈イワユル〉岡ッ引〈オカッピキ〉の類〈ルイ〉だらうと思ふ。
(二)門弟は町人の若い衆
であつたらうと思はれる、当時柔道は柔術の部類に入れられる可き(無手〈ムテ〉或は短かき武器を持つて、無手或は武器を持つ敵を、防ぎ又攻る〈セメル〉)技で、重に〈オモニ〉関節を挫いたり〈クジイタリ〉、突き殺したり、当て殺したりする術〈ジュツ〉で、体育的とか道徳的とかには余程かけ離れた未開発の柔術であつた。而して此の技を撮も必要とする、生活の根拠である職業上から盛んに稽古をしたと思はれるのは、罪人〈ザイニン〉を縛る役目の同心、岡ッ引たる人々であらう。彼等にはこの技がとつて付けた程必要であつた。何故〈ナゼ〉なら十手〈ジッテ〉と称する短かい武器を持つて長刀〈チョウトウ〉を振り翳す〈フリカザス〉罪人をも捕縛しなくてはならない、それには此の柔術は持つて来いの便利な技であつたから。
 それから町人階級の若者である。彼等は何時〈イツ〉特権階級たる武士から生命を脅威〈キョウイ〉されない共〈トモ〉限らない。それの予防として柔術を修めて置く事は決して徒労な事ではなかつたらう、で彼等は機会の許す限り柔術をほんの少々を知つて置きたい願望に燃えてゐたに異ひ〈チガイ〉ないが、後者の修業は余り熱心でなかつた。それは諸種の事情にも依らふが、前者の修業程度及心掛〈ココロガケ〉に比較すると余りに低級であつた。故に柔道の修行者の大半、並びに其活用者は警察役人であつたとも云へる。
 徳川時代の柔道は斯うした〈コウシタ〉種類の人々によりてその存在を持続してきた。其時多少の盛衰はあつた。之又余輩の独断的観察に依れば、幕府の諸大名に対して武芸圧迫のハケ口として角力〈スモウ〉が徳川政府の中期に勃興した、当時に在つて角力流行の関係から柔道も、相当盛んであつたやうに思はれる。又投技〈ナゲワザ〉を専らとする起倒流が抬頭して書た、これは角力の刺戟〈シゲキ〉に依る関係があるやうに想像される、起倒流の如き上品な流技が出現するやうになると漸く〈ヨウヤク〉社会の視聴を集めるやうになつて、各藩主は次第に柔道指南番を抱へる〈カカエル〉やうになつた、従つて柔術は、不浄役人の手から諸藩の武士に開放されるに至つたのであるが、剣道と比較する時は、未だ柔道は継子〈ママコ〉扱ひにされてゐる傾向に在つたと考へる、而してその原因としては柔術が今日の柔道の如く完全に近い発達を遂げてゐなかつた、いづれも技芸【ワザゲイ】の種類が僅少で、而も危険で、且単純だつた上に諸流まちまちに部分的な事を教授してゐた故であらうと思ふ。
 斯く〈カク〉徳川三百年の歴史に於て、柔道が占めてゐた地位は、たいしたものでなく、奉行下役人〈シタヤクニン〉及諸藩内の少数者の雑多の流儀を伝襲して、世は明治大帝の御統制遊るゝ〈アソバサルル〉社会へ移動した、
 政治組織の変革と共に、幕府は滅亡し武士も廃亡した。そして普通人が帯刀をする事が禁ぜられ、立憲君主国への道程に進まんとする明治初期に於ては、剣術は武士階級の廃亡と共に衰微し、柔道又之に軌を一〈イツ〉にするを余儀なくせしめられるに至つた。
 柔道は観覧料を取つて見物の慰めの道具に興行されるやうな悲惨な堕落をした、又各流儀の残党は時勢に適しない技術を只大事相〈ソウ〉に守つてゐるに止まり〈トドマリ〉、創作的意気と、昂然〈コウゼン〉たる研究に進む気慨を失なつて惰力のやうに生きてゐる時、敢然と奮起し柔道を今日の発達をなさしめた人、それは余人〈ヨジン〉たらず現講道館師範嘉納治五郎〈カノウ・ジゴロウ〉氏である、柔道は嘉納氏の出現に依つて再生した、氏の講道館柔道は現在までに存存してゐた諸流の技の長所を今日の時勢に適合するやうに改良して採用し、之に加ふるに自己の創案した技を加へ、尚且柔道の道徳を教授される、総合的真〈シン〉の柔道である。

*このブログの人気記事 2015・4・23

 

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タカマノハラではのど口ぬれない

2015-04-22 04:56:34 | コラムと名言

◎タカマノハラではのど口ぬれない

 安田徳太郎著『天孫族』(カッパブックス、一九五六)から、「明治維新」を論じた部分を紹介している。本日は、その四回目(最後)。
 昨日は、同書第一章第2節の第二項「無一文から世界一の金満家に」の前半を紹介したが、本日は、その後半を紹介する(三一~三五ページ)。
 

 ある老人が、わたくしに、こういう話をしてくれた。御一新のとき、江戸屋敷にいた大名が、幕府がつぶれて、いよいよ国元〈クニモト〉に引きあげる段になって、当時、植木屋であった、そのひとのおやじを呼びつけて、「この土地と屋敷を全部おまえにやるぞ。」とおっしゃった。おやじはびっくり仰天〈ギョウテン〉して、「めっそうもございません。この儀はひらに御辞退いたします。」と申しあげたら、殿様がおこって、「手討ちにするぞ。」と刀に手をかけたので、泣く泣く大きな土地と屋敷をちょうだいした。ところが、明治六年の地租改正によって、えらい税金がかかってきて、けっきょくタダのような値で、政府に全部、没収されてしまったそうである。
 しかし、これは植木屋で、金がなかったためで、金をうんと握っている高利貸〈コウリガシ〉資本家は、地租改正や明治十三年の官業払いさげの機会にボロもうけして、あっぱれの資本家に成りあがった。
 わたくしは、若いころに、こういう話を聞いた。九州の柳川藩〈ヤナガワハン〉の家老が、三池炭坑を九十万円で政府へ売った。政府はこれに厖大〈ボウダイ〉な国費をかけて、近代的に整備したが、明治十三年にわずか三百万円で三井にポンと払いさげ、払いさげを斡旋〈アッセン〉した井上馨〈カオル〉に顧問料として、毎年十万円を出すことになった。この話をそばで聞いていた大阪の商人が「ボロイ話やな。わしも一生に一度はあやかりたいな。」とヨダレを流した。
 貧乏公卿〈クゲ〉の天皇族を日本一の大金持にして、黄金の光で威厳をつけるという手も、さっそく実行に移された。
 古代から日本の各地の山林はその地方のの共有林であった。農民はじぶんたちの共有林にたいして、入会権〈イリアイケン〉を持っていて、材木や薪〈マキ〉を自由にとってもよかった。ところが、明治政府ができると、こういう共有林や共有地が、農民に一言の相談もなしに、おまげにタダで、かたっぱしから政府に没収されて、それ以来、官有林の枝を折っても、監獄にぶちこまれるということになってしまった。
 わたくしはこんどの戦争のときに、赤城山〈アカギヤマ〉の麓〈フモト〉に疎開〈ソカイ〉したが、薪や炭がどうしても手にはいらないために、ひどい目にあった。村の人は、みな、熊笹〈クマザサ〉や桑の枝を薪にしていた。目の前に、大きな森林があるのに、と思って聞いてみたら、「赤城山は官有林で、熊笹や落葉〈オチバ〉はとってもよいが、木の枝の方は一本折っても、刑務所いきだ。」とにが笑いした。
 こういう手によって、木曾〈キソ〉や秋田、高知の山林が国有林になり、それがまたいつのまにか皇室の料地に書きかえられたり、安い値で政商に払いさげられてしまった。皇室財産というものは、京都御所をのぞいて、はじめはゼロであったが、それが明治十五年には一千百十町になり、明治十九年にはその三十倍になり、だんだんふくれて、いつのまにか、帝政ロシアのツァーをしのぐ世界一の金満家になってしまった。
 天皇の権力をカサにきた藩閥政府のあくどいやり方にたいして、日本の民衆もだまってはいなかった。明治維新の革命家は、日本の民衆に民主主義というものを一つも宣伝しなかった。かれらの政治の目的は、はじめから民主主義ではなかったからである。たしかに、「五箇条の御誓文」は、ちょっと見ると民主主義のにおいがして、ひっかかりそうであるが、天皇親政から、主権在民というほんとうの民主主義のスジが出るはずはなかった。だから、はじめに釣られた民衆もあとでがっかりして、「やれやれ皆さん、聞いてもくんない、天皇御趣意〈ゴシュイ〉はまやかしものだよ、高天原【たかまのはら】ではのど口ぬれない、りっぱじゃけれども、内証【ないしよ】はつまらん。」と歌ったほどであった。つまり、古事記のありがたい高天原では、お腹〈オナカ〉がふくれんという意味であった。
 じっさい日本の民衆は、封建制度からの解放を求めて、四民平等を宣伝する藩閥政府に、大いに期待をかけた。その証拠に、明治五年に、「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ、人ノ下ニ人ヲ造ラズ」ではじまる福沢諭吉の『学問のすすめ』が出たときは、民衆は熱狂して、この本をむさぼり読んで、たちまち二十万部も売れたほどであった。その時代に二十万部とは、おそろしい数である。
 民衆は、日本の民主化にこれほど熱心であったたが、肝心の政府ときては、口先だけはハイカラでも、中身はすべてまやかしものであった。これに気がついた民衆は、とうとうカンニン袋の緒を切って、各地で藩閥政府に反抗しはじめて、ここから主権在民を求める自由民権の運動が盛りあがっていった。
 わたくしの母方の祖母の弟は、明治十五年に中江兆民〈チョウミン〉の訳したルソーの『民約論』を読んで大いに感激して、さっそく白由党にとびこんで、天皇廃止論をとなえたが、そのために尾行がつき、何度も何度も、監獄にほうりこまれた。だから、わたくしの祖母は小さいわたくしをつかまえて、そのころ弟の保釈金や弁護士代に、どれほどお金を使ったかしれないと、グチをこぼしたほどであった。祖母の頭からいうと、じぶんの弟は不良のヤクザであったのである。
 この叔父に、わたくしは、若いころにいろいろ聞いてみたが、憲法発布までは、日本人はべつに天皇などはえらいと思っていなかったし、「やめさせろ。」ということも平気で言えたが、憲法発布以後は、やはり命がけになってしまったそうである。
 言いかえると、自由民権運動によって、はじめて、京都から連れてきた「つくられた天皇」が、大きな問題になってきた。藩閥政府にとっては、天皇をどこまでも、じぶんたちの権力の道具にするというのが、最初からの目的であったので、じぶんたちのやり口を非難する自由民権運動にたいして、カクレミノとしての天皇制を真正面〈マショウメン〉に押し出すことになった。その結果、伊藤博文が明治十五年(一八八二年)にドイツにいって、プロイセンの法学者のシュタインやグナイストに会って、半封建的な君主憲法のコツを教えてもらい、翌年に帰ってきた。かれは、法律顧問としてドイツからレスラーとモッセを呼んで、この二人にこっそり君主憲法の原案をつくってもらい、これを日本語に訳して、明治二十二年(一八八九年)二月十一日のいわゆる紀元節の日に発布した。この日に文部大臣の森有礼〈モリ・アリノリ〉が、神宮参拝のときに、伊勢神宮の御簾〈ミス〉をステッキであげたという理由で、国粋派の壮士に殺されたのも、けっして偶然ではなかった。つまり、世界でいちばん時代おくれのプロイセンの君主制憲法が、そのまま日本の欽定〈キンテイ〉憲法になり、「天皇は神聖にして犯すべからず」と、かってにきめられてしまったのである。

 安田徳太郎は、「やれやれ皆さん、聞いてもくんない、天皇御趣意はまやかしものだよ、高天原ではのど口ぬれない、りっぱじゃけれども、内証はつまらん。」という歌を紹介しているが、安田はたぶん、これを、羽仁五郎の論文「明治維新における革命および反革命」(『新生』一九四六年正月号)から引いたのではないだろうか。
 ただし、これは、インターネット情報に依拠した推測にすぎないので、羽仁の同論文に当たるなどした上で、再度、報告させていただきたい。
 高天原の読み【たかまのはら】、内証の読み【ないしよ】は、いずれも原ルビ。なお、内証〈ナイショ〉は、内緒とも書く。ここでは、「うちうちの様子」という意味であろう。
 明日は、いったん、話題を変える。

*このブログの人気記事 2015・4・22

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京都からは大将も大臣も出ていない

2015-04-21 09:23:06 | コラムと名言

◎京都からは大将も大臣も出ていない

 安田徳太郎著『天孫族』(カッパブックス、一九五六)から、「明治維新」を論じた部分を紹介している。昨日は、同書第一章第2節の第一項「民衆を裏切った明治維新」を紹介したが、本日は、それに続く第二項「無一文から世界一の金満家に」を紹介してみたい。
 ただし、この項は非常に長いので、本日、紹介するのはその前半である(二八~三一ページ)。

 無一文から世界一の金満家に
 さて、御一新に成功した薩長は、十七歳の天皇をかついで、江戸に進駐したが、江戸の市民はもちろんのこと、日本人のすべても、将軍は知っていても、京都の天皇族というものは知らなかった。だから、その当時の日本人の頭からいうと、藩閥政府の宣伝する天皇というものは、じつに奇妙なものであった。ある老人がわたくしに、こういう話をしてくれた。明治十何年までは、東京の絵双子紙屋〈エゾウシヤ〉の店先に、まんなかに大きく江戸城を描いて、その隅っこに小さいチンがすわっている絵があって、その上に「江戸城は、朕の城には広すぎる」と書いた錦絵〈ニシキエ〉が大びらに飾ってあったし、日比谷練兵場で、はじめて観兵式がおこなわれたときは、薩摩出身の巡査が長い竹竿〈タケザオ〉をもって、うしろの土手にずらりとならんで、天皇が通るときに、見物人の頭をうしろから竹竿でポンとたたいて、最敬礼を強制したという。つまり、明治十何年でも、日本の国民は、まだ天皇に最敬礼をすることを知らなかったのである。
 この話がウソでない証拠に、『ベルツ日記』の明治十三年十一月三日のところに、「日本の天皇の誕生日、東京の市民が君主にたいして関心のないのを見るのは悲しい。家の前に国旗を出すのは、警察力によらねばならないしまつである。自発的に国旗を出した家は、ほんのわずかしかなかった。」と書いている。ベルツはドイツ人で、天皇の侍医だったから、日本人のこういう傾向を悲しんだのも、むりはない。
 以上のような、いろいろの話にたいして、それでも日本を近代国家に引きあげたものは、やはり明治天皇を中心とした薩長の革命家だという人があるかもしれない。しかし、こういう意見を吐く人は、その身元を洗うと、たいてい士族の出身で、明治維新にあやかって立身出世したえらい人の子孫である。
 ほんとうをいうと、倒幕派の中には、封建制度を根こそぎぶっつぶすために命をかけた人もたくさんあったが、そういう人は意見のちがいで、途中でのぞかれたり、殺されたりしてしまった。たとえば、大村益次郎〈マスジロウ〉は周防〈スオウ〉の田舎医者であったが、長崎に出て、蘭学と西洋医学を学び、毛利藩に抱えられて、サムライに西洋の兵学を教えていた。維新のときは、サムライでなしに、ほんとうの庶民を集めて奇兵隊を組織して、江戸に乗りこみ、上野に立てこもる彰義隊を、一晩でかたづけてしまった。この人はフランス革命を理想として、職業軍人のサムライではなく、庶民を中心としたフランス式の兵制を採用して、封建制度を根こそぎつぶして、日本を民主主義にしなければならないとさかんにとなえて、それを実行に移そうとした。
 ところが、この人の説を入れて、日本を民主主義にすると、かつぎあげた天皇はもちろんのこと、サムライは全部メシの食いあげになってしまう。そこで薩長の保守派が合同して、明治二年に進歩派の人気者であるこの大村益次郎を殺してしまった。靖国神社の入口に銅像が立っているが、殺して銅像とは、おかしな話ではないか。
 明治維新は、けっきょく薩長の下級武士と幕府の官僚が妥協して、将軍と天皇の首をすげかえた中途半端な革命であった。これによって、薩長を中心として各藩の士族は官僚階級に成りあがって、これまでどおり、一段上から国民を支配するようになった。だから、百姓も職人も町人も、御一新によって、べつに解放されたわけではなかった。京都から大将や大臣がひとりも出なかったのは、京都出身の天皇がたんなるロボットで、革命の中心でなかった、りっぱな証拠である。だから、小学校の先生が、「京都の人間はアカン。」と、いくら叱りつけても、町人が立身出世するイモヅルなどは、はじめからなかったのである。この意味でも、御一新はブルジョア革命ではなかった。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2015・4・21

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