◎タカマノハラではのど口ぬれない
安田徳太郎著『天孫族』(カッパブックス、一九五六)から、「明治維新」を論じた部分を紹介している。本日は、その四回目(最後)。
昨日は、同書第一章第2節の第二項「無一文から世界一の金満家に」の前半を紹介したが、本日は、その後半を紹介する(三一~三五ページ)。
ある老人が、わたくしに、こういう話をしてくれた。御一新のとき、江戸屋敷にいた大名が、幕府がつぶれて、いよいよ国元〈クニモト〉に引きあげる段になって、当時、植木屋であった、そのひとのおやじを呼びつけて、「この土地と屋敷を全部おまえにやるぞ。」とおっしゃった。おやじはびっくり仰天〈ギョウテン〉して、「めっそうもございません。この儀はひらに御辞退いたします。」と申しあげたら、殿様がおこって、「手討ちにするぞ。」と刀に手をかけたので、泣く泣く大きな土地と屋敷をちょうだいした。ところが、明治六年の地租改正によって、えらい税金がかかってきて、けっきょくタダのような値で、政府に全部、没収されてしまったそうである。
しかし、これは植木屋で、金がなかったためで、金をうんと握っている高利貸〈コウリガシ〉資本家は、地租改正や明治十三年の官業払いさげの機会にボロもうけして、あっぱれの資本家に成りあがった。
わたくしは、若いころに、こういう話を聞いた。九州の柳川藩〈ヤナガワハン〉の家老が、三池炭坑を九十万円で政府へ売った。政府はこれに厖大〈ボウダイ〉な国費をかけて、近代的に整備したが、明治十三年にわずか三百万円で三井にポンと払いさげ、払いさげを斡旋〈アッセン〉した井上馨〈カオル〉に顧問料として、毎年十万円を出すことになった。この話をそばで聞いていた大阪の商人が「ボロイ話やな。わしも一生に一度はあやかりたいな。」とヨダレを流した。
貧乏公卿〈クゲ〉の天皇族を日本一の大金持にして、黄金の光で威厳をつけるという手も、さっそく実行に移された。
古代から日本の各地の山林はその地方のの共有林であった。農民はじぶんたちの共有林にたいして、入会権〈イリアイケン〉を持っていて、材木や薪〈マキ〉を自由にとってもよかった。ところが、明治政府ができると、こういう共有林や共有地が、農民に一言の相談もなしに、おまげにタダで、かたっぱしから政府に没収されて、それ以来、官有林の枝を折っても、監獄にぶちこまれるということになってしまった。
わたくしはこんどの戦争のときに、赤城山〈アカギヤマ〉の麓〈フモト〉に疎開〈ソカイ〉したが、薪や炭がどうしても手にはいらないために、ひどい目にあった。村の人は、みな、熊笹〈クマザサ〉や桑の枝を薪にしていた。目の前に、大きな森林があるのに、と思って聞いてみたら、「赤城山は官有林で、熊笹や落葉〈オチバ〉はとってもよいが、木の枝の方は一本折っても、刑務所いきだ。」とにが笑いした。
こういう手によって、木曾〈キソ〉や秋田、高知の山林が国有林になり、それがまたいつのまにか皇室の料地に書きかえられたり、安い値で政商に払いさげられてしまった。皇室財産というものは、京都御所をのぞいて、はじめはゼロであったが、それが明治十五年には一千百十町になり、明治十九年にはその三十倍になり、だんだんふくれて、いつのまにか、帝政ロシアのツァーをしのぐ世界一の金満家になってしまった。
天皇の権力をカサにきた藩閥政府のあくどいやり方にたいして、日本の民衆もだまってはいなかった。明治維新の革命家は、日本の民衆に民主主義というものを一つも宣伝しなかった。かれらの政治の目的は、はじめから民主主義ではなかったからである。たしかに、「五箇条の御誓文」は、ちょっと見ると民主主義のにおいがして、ひっかかりそうであるが、天皇親政から、主権在民というほんとうの民主主義のスジが出るはずはなかった。だから、はじめに釣られた民衆もあとでがっかりして、「やれやれ皆さん、聞いてもくんない、天皇御趣意〈ゴシュイ〉はまやかしものだよ、高天原【たかまのはら】ではのど口ぬれない、りっぱじゃけれども、内証【ないしよ】はつまらん。」と歌ったほどであった。つまり、古事記のありがたい高天原では、お腹〈オナカ〉がふくれんという意味であった。
じっさい日本の民衆は、封建制度からの解放を求めて、四民平等を宣伝する藩閥政府に、大いに期待をかけた。その証拠に、明治五年に、「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ、人ノ下ニ人ヲ造ラズ」ではじまる福沢諭吉の『学問のすすめ』が出たときは、民衆は熱狂して、この本をむさぼり読んで、たちまち二十万部も売れたほどであった。その時代に二十万部とは、おそろしい数である。
民衆は、日本の民主化にこれほど熱心であったたが、肝心の政府ときては、口先だけはハイカラでも、中身はすべてまやかしものであった。これに気がついた民衆は、とうとうカンニン袋の緒を切って、各地で藩閥政府に反抗しはじめて、ここから主権在民を求める自由民権の運動が盛りあがっていった。
わたくしの母方の祖母の弟は、明治十五年に中江兆民〈チョウミン〉の訳したルソーの『民約論』を読んで大いに感激して、さっそく白由党にとびこんで、天皇廃止論をとなえたが、そのために尾行がつき、何度も何度も、監獄にほうりこまれた。だから、わたくしの祖母は小さいわたくしをつかまえて、そのころ弟の保釈金や弁護士代に、どれほどお金を使ったかしれないと、グチをこぼしたほどであった。祖母の頭からいうと、じぶんの弟は不良のヤクザであったのである。
この叔父に、わたくしは、若いころにいろいろ聞いてみたが、憲法発布までは、日本人はべつに天皇などはえらいと思っていなかったし、「やめさせろ。」ということも平気で言えたが、憲法発布以後は、やはり命がけになってしまったそうである。
言いかえると、自由民権運動によって、はじめて、京都から連れてきた「つくられた天皇」が、大きな問題になってきた。藩閥政府にとっては、天皇をどこまでも、じぶんたちの権力の道具にするというのが、最初からの目的であったので、じぶんたちのやり口を非難する自由民権運動にたいして、カクレミノとしての天皇制を真正面〈マショウメン〉に押し出すことになった。その結果、伊藤博文が明治十五年(一八八二年)にドイツにいって、プロイセンの法学者のシュタインやグナイストに会って、半封建的な君主憲法のコツを教えてもらい、翌年に帰ってきた。かれは、法律顧問としてドイツからレスラーとモッセを呼んで、この二人にこっそり君主憲法の原案をつくってもらい、これを日本語に訳して、明治二十二年(一八八九年)二月十一日のいわゆる紀元節の日に発布した。この日に文部大臣の森有礼〈モリ・アリノリ〉が、神宮参拝のときに、伊勢神宮の御簾〈ミス〉をステッキであげたという理由で、国粋派の壮士に殺されたのも、けっして偶然ではなかった。つまり、世界でいちばん時代おくれのプロイセンの君主制憲法が、そのまま日本の欽定〈キンテイ〉憲法になり、「天皇は神聖にして犯すべからず」と、かってにきめられてしまったのである。
安田徳太郎は、「やれやれ皆さん、聞いてもくんない、天皇御趣意はまやかしものだよ、高天原ではのど口ぬれない、りっぱじゃけれども、内証はつまらん。」という歌を紹介しているが、安田はたぶん、これを、羽仁五郎の論文「明治維新における革命および反革命」(『新生』一九四六年正月号)から引いたのではないだろうか。
ただし、これは、インターネット情報に依拠した推測にすぎないので、羽仁の同論文に当たるなどした上で、再度、報告させていただきたい。
高天原の読み【たかまのはら】、内証の読み【ないしよ】は、いずれも原ルビ。なお、内証〈ナイショ〉は、内緒とも書く。ここでは、「うちうちの様子」という意味であろう。
明日は、いったん、話題を変える。
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