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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

歩兵一般基礎訓練を7月23日から実施

2016-07-21 03:07:05 | コラムと名言

◎歩兵一般基礎訓練を7月23日から実施

 この間、中村正吾秘書官、および黒木勇治伍長の「日誌」によって、七一年前(一九四五年)の「今ごろ」の出来事を紹介している。出典は、それぞれ、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)、および黒木雄司著『原爆投下は予告されていた』(光人社、一九九二)である。
 本日は、『原爆投下は予告されていた』から、七月二一日~七月二三日の日誌を紹介する(二二二~二二九ページ)。

 七月二十一日 (土) 曇時々雨後晴
 朝から風が強い。板壁のあちこちから風が舞い込み、横殴りの雨は、窓枠の敷居のところから室内に入ってさんざん。屋根も棕櫚〈シュロ〉の葉が軒から落ちそう。午後に
なってやっと雨も止み、風も治まり、棟に上がって棕櫚の葉の屋根を荒縄で括【くく】りあげる。晴れれば晴れて太陽光線が強すぎ、屋根作業も大変だったが、なんとか恰好はできた。【中略】
 午後四時、上番する。明日は日曜日で勤務時間変更の日、したがって今日は三勤で午後十二時まで勤務するが、明日は二勤の勤務で午前八時からの勤務となる。今日は上山中尉だけ詰めておられ、隊長の姿は見えない。連隊本部への報告など忙しいのであろう。
 上山中尉は非常に真面目な人で、そのうえ博学多識、冗談などまったく言われることはない。自分と二人だけの勤務のときでも、めったに言葉をかけられたこともなく、またこちらからはあまりに立派な人なので言葉をかけにくい。要するに、常に畏敬の立場の人で、近づき難い感じがする。
 一方、芦田隊長には遠慮なく話もできたが、上山中尉がおられるときには隊長にも遠慮しなけれぱならないような気になった。
 上山中尉は軍隊口調の言葉の中に東京弁に近い標準語そのもので、関東地区の出身か、あるいは長く関東に住んでおられたものと思う。聞けばよいのに、身分が違うと心の中が止めるので、聞けなかった。年齢はやはり自分より一、二年年長と思う。
 七時のNHKのニュースは、戦況放送などまったくなく、今日は遅れていた旅行者外食券制度が実施されることになって、駅弁や列車内のパン購入の際も、外食券が必要になると放送していた。NHKは内地があれだけ空襲され爆撃を受けているのに、なぜ言わないのだろう。国民の士気低下を恐れてのことだろうか。あるいは針小棒大にデマとして流布されるのを恐れてのことだろうか。
 午後十時、ニューディリー放送が流れてくる。
 ――こちらはニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべき情報によれば、本日(七月二十一日)、米艦載機数機は南鮮釜山付近の船舶を空襲し爆撃致しました。繰り返し申しあげます。…………。――
 とうとう朝鮮まで手を伸ばしたかと思う反面、朝鮮は敵にあらずとして都市攻撃はしないで、日本の船舶だけを狙ったのか。【後略】

 七月二十二日 (日) 晴
 午前七時三十分起床し、大急ぎで洗顔して朝食を取り、上番準備にかかる。ここはありがたいことにゆっくり歩いても、出勤の時間は一分で情報室に入れる。今日から二勤勤務だ。
 午前八時、上番する。昨晩申し送りをした田原候補生から申し受け、午後四時、またこの田原候補生に自分は申し送りをすることとなり、本日、田中候補生が休日となるわけである。上下番の挨拶をきちんとして勤務につく。今日は珍しく隊長がもう席に着いておられる。何かいいたそうな顔をしているところへ、田中候補生が入って来た。
「田中候補生入ります。田中候補生、黒木班長殿の許〈モト〉に参りました」といって書面を持って来て見せた。隊長名の全員に告ぐと題し、当分の間、一切の外出を禁止するという通達であった。とくに日用品などについては、炊事横に簡易な酒保を置いて販売すると書いてあった。むしろ酒保ができるのは、われわれには有難いことで、大歓迎の通達だった。
 自分は「よし」といって黒木と鉛筆で書き、書いた名前を○でかこんだ。そして書類を渡した。
「田中候補生、帰ります」といって出て行った。
 終始見ておられた隊長は、
「おい黒木、よく仕込んだな」と自分を褒められる。
「隊長殿、彼も田原も二人とも真面目なんです」と振り向いて言った。
 その直後、隊長から、「おい黒木。ちょっと来い」といわれた。びっくりして「はッ」といって起立し、隊長の前に立った。
 隊長「諸般の事情により、本日をもって次の監視所は閉鎖する。梧州、横石、海晏、広海、平沙、恵東以上の六監視所で、前回閉鎖した陽江、河源、多祝、海三の四監視所と共に閉鎖した監視所は、十ヵ所となった。以上である」
 礼をして席に着いた。本日付の外出禁止令は、隊長の雑談でよくわかっているが、今回の監視所縮小は、隊長自身の意志で閉鎖されたものでなく、南支軍としての戦線縮小で、やむを得ず他部隊と合同して監視所縮小となったものと思われる。【中略】
 午後四時、下番する。下番後はいつもの通り洗濯し入浴する。内務班でひとり煙草を吸う。煙草の煙を見ながら一体、いつまでこうしてここにいることだろうかと思う。
 田中は、今日は休日の番でゆったりした顔だ。
「おい田中、五目並べでもしようか」と紙製の盤を出そうとしたら、
「班長殿、碁盤作りました」という。立派な碁盤だ。こんな板に碁盤目もくっきり引かれている。
「碁石は田原が作りました」という。見れば木製の碁石だ。よくもこんなに何の道具もないのに、丸く作ったものだ。しかも黒の色と白の色に塗ってある。板を縦横に鋸【のこぎり】で引いて四角な板の角を取ったもので、碁石の全般的に丸いのよりも下部が平らで安定度がある。
「貴様ら、どこからか掻っ払った〈カッパラッタ〉んじゃあないだろうな」
「班長殿、全部棄てられたもんから作ったんです」という。それにしても驚くほど立派なものだ。
 盤を真ん中に碁石にあらざる碁木を一つ二つ置いたときだ。
「この先任者はだれか」といって、見たこともない上等兵が入って来た。
「おれだ」と答えると、通達書面を渡してくれた。隊長からの指令だ。
「よしわかった。もらっておく」と答える。相手はこちらが褌一枚の裸が、二人で五目並べをしているのでびっくりしたようだ。
 通達の書面は次の通りであった。
【一行アキ】
  指令
 昭和二十年七月二十二日
 各係班分隊先任者殿
      情報室長芦田
諸般の事情により来る七月二十三日より十日間の予定で次の訓練を行なう。各班各係とも原則として一勤二勤の勤務明〈アケ〉者とするが、各係各班各分隊では出来る限り左記訓練の未経験者は必ず参加するように勤務時間の変更を行なってでも参加させられたい。
  記
(場所)情報室入口北側山手空地
(訓練内容)歩兵一般基礎訓練
(訓練時間)毎日午後四時十分より二時間
(服装)鉄帽、夏衣袴、脚絆、帯剣着用
(担当教官)高橋中尉
           以上
【一行アキ】
「今週はおれが二勤だが、この指令の主旨を生かして、この勤務時間はおれが勤務する。今週は二勤からつづけてやる。来週も同様とする。来週についてあらためて指示するが、三勤の者は訓練終了後に上番すればよい。田原にも申し送ってくれ」と田中に話す。
「班長殿、この夏衣袴とは、いま着ているのでよいのですか」
「いや違う。巻脚絆は半パンツには巻けない。長い袖、長いズボンの正規の夏服のことや。匍匐【ほふく】のときに半袖や半パンツやったら、手足が擦り剥けるぞ」
「この服、ここに来てもらっただけで着たことがないです」
「着て見ろ。階級章と座金もちゃんと付けとけよ。その服のときには襦袢と袴下も下に着るもんだ」
「えッシャツもパッチもですか」
「そうだよ。君のズック靴はそれでよいとして、かならず靴下を履き、襦袢・袴下をつけ、その上に夏衣袴を着る。さらに脚絆を巻くのだ。その上衣の上に帯革をし剣を下げるのだ」
 服を着ると兵隊らしく見える。暑い、暑いという。服はやや大きいけどやむを得ないだろう。タ食後一勤に備えて田中は、早くも横になる。
 それにしても、隊長の頭の回転の早いことよ。あの放送の南支一般人の受け取り方として、場合によってはいつ、どこから攻撃を受けても、他少泥縄式であるにしても、歩兵の基礎訓練を受けていれば、対応はできると考えたのであろう。さらに考えれば、この地でもいつゲリラ作戦に移る時期を迎えるかも知れぬが、その対応策の必要性からもあるのだろう。
 隊長は十日間は安全で大丈夫と見られたのか。あるいは高橋中尉が二時間の十日、二十時間は最低限必要といわれたのであろうか。その辺のところはわからない。

 七月二十三日 (月) 晴
 午前八時、上番する。下番者田中候補生の報告は、
「昨夜の前任者の申し送りでは、午後十時のニューディリー放送によれば、昨日(七月二十二日)、米軍P51二百機が近畿地方の航空基地および交通機関を空襲し銃爆撃をしたといっております」
「よし、わかった」と答えた。が、交通機関といっても、軍人も乗っているかも知れないが、大多数の乗客は一般人ではないか。一般人を対象にする米軍の卑怯きわまりないやり方に憤懸やる方なし。【中略】
 正午のNHKの放送によると、鉄道も軍隊組織に編成替えをして鉄道義勇戦闘隊となるよう要望すると、阿南陸相が示達したと放送があった。午後は午前中の空爆の後ということもあって、静かな午後だ。今日から歩兵基礎訓練をやることになって、午後四時の下番が約二時間延びることとなった。
 午後六時五分、下番する。上番の田原候補生の勤務は、従来通り午後十二時までとし、変更はしないことにした。
 下番後、入浴、洗濯、夕食と時間的にもうまく運んだ。夕食時、田中に、「今日は何を習ったか」と聞くと、
「今日は銃の持ち方、銃の使い方、銃の撃ち方、伏せ撃ち、座り撃ち、台を置いての撃ち方などであります」
「勉強になったか」
「はじめてのことばかりで、よい勉強になりました」
という。早く一人前になって欲しい。夕食後は明日の一勤が控えているので、彼はすぐ横になる。自分も今日は十時間勤務でだいぶ疲れてもおり、早くも横になる。

 一七日のブログで紹介したように、黒木勇治伍長が執務していた情報室では、七月一八日のニューデリー放送によって、ソ連政府が同日、「日本政府より要請のあった近衛文麿氏の特使としての訪問については、その持つ意味が不明なるを理由として特使派遣を拒否」した事実を把握した。
 この情報に接した芦田隊長は、ただちに上山中尉に対して、「今度の日曜日〔七月二二日〕以降、外出は一切中止しろ」と指示した。その理由は、「日本は和平交渉に失敗した=【イクオール】日本は勝てる見込みはなくなった=日本は負けた=支那は勝ったということになって、外出中の一人、二人の兵隊に、何十人と一般支那人が棒でも持って来られたらやられる」という事態を予想したからであった。
 この外出禁止令は、七月二二日朝、実際に発令されている。のみならず、同日付で、翌二三日から十日間、「歩兵一般基礎訓練」を実施する旨の通達も出された。その理由は、基本的に、外出禁止令を発令した理由と異なるものではない。
 いずれにしても、芦田隊長の情報分析は鋭く、それに対する対応も機敏かつ適切であった。
 一方、当時の政府中枢の判断はどうだったのか。中村正吾の『永田町一番地』によれば、佐藤尚武大使から、待望のソ連政府回答が報告されてきたのは、七月二〇日であった。「日本政府の申入れは具体的といふわけにいかぬ。また近衛公派遣の目的も明瞭でない、従ってソ連政府としては現在、回答を与えるわけにいかぬ」というものであった(一昨日の当ブログ参照)。
 ソ連政府は、近衛公派遣の目的が「和平の斡旋」であることを、十分に承知した上で、この派遣を拒否したのである。つまり、「和平の斡旋」を拒否するという意思表示である。そもそも、ソ連政府は、七月一五日、佐藤尚武大使に対し、スターリン首相がポツダムに赴く予定であるとの連絡をおこなっている。この時点で、ソ連がポツダム宣言に加わる可能性、ソ連が日本に宣戦布告する可能性を予想すべきであった。
 ところが、七月二〇日午後六時、急遽、開かれた「最高戦争指導者会議構成員会合」の結論は、「近衛公の派遣は対米、英和平の斡旋をソ連政府に依頼するためであることを申入れ、且つ近衛公は日ソ間の問題につき交渉を進めるとともに、戦争終結に関する日本の具体的意図を齎してモスコーに赴くものであることを通告する」というものであった。あいもかわらず、ソ連に頼ろうとしたのである。
 おそらく、この最高戦争指導者会議構成員会合のメンバーに、「七月一八日のニューデリー放送」の情報は届いていない。仮に届いていたとしても、その時点で、「日本は和平交渉に失敗した」と受けとめることができたようなメンバーは、おそらくいなかったであろう。
 特に問題なのは、東郷茂徳〈シゲノリ〉外相のセンスの悪さである。東郷外相は、ポツダム宣言が発せられたあとの最高戦争指導者会議構成員会合(七月二六日)においても、まだ、「ソ連に向かい和平の仲介を依頼した手前があるので、この三国共同宣言に対する我方の態度の決定はソ連政府の我が和平仲介の申入れに対する態度を見極めた上になすべきである」と主張していたという(一昨日の当ブログ参照)。

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鈴木首相、ポツダム宣言を無視すると声明

2016-07-20 04:47:20 | コラムと名言

◎鈴木首相、ポツダム宣言を無視すると声明

 この間、中村正吾秘書官、および黒木勇治伍長の「日誌」によって、七一年前(一九四五年)の「今ごろ」の出来事を紹介している。出典は、それぞれ、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)、および黒木雄司著『原爆投下は予告されていた』(光人社、一九九二)である。
 本日は、『永田町一番地』から、七月二〇日~七月三〇日の日誌を紹介する(二一八~二二三ページ)。

 七月二十日
 待望のソ連政府の回答が佐藤〔尚武〕大使より報告されて来た。ソ連の回答は要するに、日本政府の申入れは具体的といふわけにいかぬ。また近衛公派遣の目的も明瞭でない、従つてソ連政府としては現在、回答を与へるわけにいかぬ、といふことである。
 佐藤大使からはネゴシエーテッド・ピース(商議和平)に入り得る見込みはない、無条件降伏でなければ、和平は不可能である旨の意見を具申して来た。
【一行アキ】
 午後六時、最高戦争指導者会議構成員会合が開かれた。右のソ連の回答についての緊急協議の必要が生じたからである。協議の末「近衛公の派遣は対米、英和平の斡旋をソ連政府に依頼するためであることを申入れ、且つ近衛公は日ソ間の問題につき交渉を進めるとともに、戦争終結に関する日本の具体的意図を齎してモスコーに赴くものであることを通告することに決定した。(註)
 東郷外相は、これに基き、佐藤大使に再び詳細なる訓電を発した。
【一行アキ】
 外電によれば、ポツダム会談は十八日すでに第二次三頭会談をなし、会談の議題は欧州問題の一応の討議終了に従ひ、早くも極東問題に入らんとしつつある。
【一行アキ】
 (註)
 余が軽井沢から丁度帰京した七月十二日、宮中の御召があつて拝謁、特派使節として渡ソする御下命を拝した。これに対し佐藤大使から更に重ねて交渉条件は無条件降伏でなければ不可なりとの進言があり、一方陸軍は又急に強硬なことを言ひ出したので余は非常手段を決意した。それは嘗て余がルーズヴエルト大統領に会談を申込んた時と同様の手段だ。即ちあの時は陸軍の承知しなつた中国よりの撤兵問題を彼と会つで解決すると同時に会見地から陛下に直接電報を以て御裁可を仰ぎ、決定調印するといふ非常手段を用ひようとしたのであるが、今回も同様の手段によらんと決意したのである。即ちソ連に対しては何等の条件をも提示せずモスコーで話合の上そこで聞いた条件を以て陛下の御勅裁を仰ぎ、これを決定することとした。で、七月十三日ソ連宛近衛を出向かせる旨の電報が打たれたが、十六日から開かれるポツダム会談にスターリン氏が出席間際にこの電報が到着したので、返事が後れる旨の通知があつた。さらに七月二十日にソ連から電報が來て、近衛特使の使命が明確でないから明かにしてもらひたいとのことであつた。と言ふのは、七月十三日の電報が極めて抽象的なもので
「陛下は平和を希望して居られる。それについて近衛公爵を派遣される」
 といふ漠然としたものであつたからだ。従つて、七月二十一日の返電には、
「陛下が平和を希望して居られ、近衛はソ連の仲介によつて米国との講和を依頼に行くのである。その条件は近衛がそちらへ行つてから話をする」
 と大体かやうなことが書かれたのである。(近衛公遺稿「週刊朝日」掲載)

 七月二十二日
 ボツダム会談の内容、経過については、簡単な公表だけで、連合国特派員らはこれに対し大いに不満であると報ぜられてゐる。が、諸種の外電を綜合すると今日の会談において、正式に極東問題、即ち対日問題が討議された模様である。

 七月二十六日
 英国における総選挙のため、二十四日ポツダム会談は休会となり昨二十五日チヤーチル首相、アトリー国璽相らが帰英したと報ぜられた。ところが、今日に至つて突如、ポツダムからトルーマン大統領、チヤーチル首相、蒋介石主席の連名で米英華三国共同宣言が発表された。
 この宣言には、スターリン首相の名が入つてゐない。然し、スターリン首相は当然これに対し諒解を与へたと見るの外はない。ただソ連は日本と交戦関係にないために、共同宣言に参加してゐないものであらう。
 三国共同宣言をもつて、ソ連を通ずる日本の和平提議に対する事実上の回答と見做すべきであるかどうか。
 最高戦争指導者会議構成員の会合では、鈴木〔貫太郎〕総理、東郷〔茂徳〕外相はじめ大多数は、このポツダム宣言を受諾するの外に途なしといふ意見であつた。ただ東郷外相は、ソ連に向ひ和平の仲介を依頼した手前があるので、この三国共同宣言に対する我方の態度の決定はソ連政府の我が和平仲介の申入れに対する態度を見極めた上になすべきである、との意見を述べた。豊田〔副武〕軍令部総長は意見を異にした。ポツダム宣言は士気にも影響するので陛下の大号令を得て、拒絶的態度を明かにすべきである、と主張した。ために、ポツダム宣言を受諾すべきか、受諾すべからざるかは未決定となり、ソ連の回答を待つため、暫く事態を見極めることとなり、散会した。
【一行アキ】
 ひきつづく同日の閣議においても、ほぼ同様の意見が繰り返へされた。結局、事態を見極めた上、我方の回答を発することになつた。他方、ポツダム宣言の発表の方法について種々、論議が重ねられたが、これは、ノー・コメント(批判を加へず)で発表し、国民に刺戟を与へないやう大袈裟に取扱はないことに意見が一致した。

 七月二十八日
 定例情報交換会議の席上ポツダム宣言の発表方法が再び問題となつた。東郷外相は欠席していたが、ノー・コメント(批判を加へず)といふよりはむしろ、イグノーア(無視する)の方が適当であるとの空気である。
【一行アキ】
 鈴木首相は午後、内閣記者団と共同会見した際、日本はポツダム宣言を無視するとの意味を述べた。

 七月三十日
 鈴木首相声明に対する反響が続々打電されて来る。何れも、日本はポツダム宣言を拒否した。日本は与へられたる和平への最後の機会を自ら抹殺した、といふのである。
 日本の真意を計りかねて、世界は日本との和平問題が全くデツド・ロツクにのしあげたとの印象を受けた。日本に於てさへ、消息通の間では、これで、近衛公派遣の件はもとよりソ連を通ずる和平提議はすでに絶望ではないかと危ぶまれるに至つた。

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広瀬豊作蔵相、悪性インフレの徴候を指摘

2016-07-19 01:21:19 | コラムと名言

◎広瀬豊作蔵相、悪性インフレの徴候を指摘

 この間、中村正吾秘書官、および黒木勇治伍長の「日誌」によって、七一年前(一九四五年)の「今ごろ」の出来事を紹介している。出典は、それぞれ、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)、および黒木雄司著『原爆投下は予告されていた』(光人社、一九九二)である。
 本日は、『原爆投下は予告されていた』から、七月一九日、二〇日の日誌を紹介する(二二〇~二二二ページ)。

 七月十九日 (木) 晴
 今日も朝から暑い日射しがさして来る。日射しのあたる方向に手拭をかけてまた眠る。昨夜、自分も興奮したのか寝つかれず、いろいろ考えたが、頭の悪い自分はどうしようもない。若い田中や田原を、どうなってもかばってやらねばならないと、現実的な考え方が先行してくる。朝のうちに洗濯、掃除をする。昼間になると暑くてとても無理だ。【中略】
 午後四時上番。昨日の今日で、敵さんは休みの日らしい。静かなようだ。
 午後七時、NHKのニュースでは、(一)逓信院が機構改革を実施。中央事務の地方への大幅委譲。本院職員の半減と地方への重点配置をするという。(二)医師不足の解消のため歯科医で医師を志願する者の試験受付を三十一日まで、東京都民生局で実施するという。(三)戦災を受けた仙台では、軍事交通の重要施設のほかは農耕地に決定したという。戦いについてはまったく何もふれない。
 今日はどうしたことか、隊長も上山中尉も朝から来られていないようだ。連隊本部に情報の報告に行かれたのだろうか。今日はニューディリー放送もない。静かな日である。耳にレシーバーをかけ机に向かい、マイクに向かって対談するよう待機する。午後十二時、下番する。

 七月二十日 (金) 晴後曇
 今日も朝から暑い。暑いはずだ、娑婆〈シャバ〉にいれば暑中見舞状の最中だから無理もない。それにここは南支だ。炎暑もあたりまえか。洗濯から掃除と毎日の行事は同じこと。それにしても暑い。頭がボケーとするようだ。【中略】
 午後四時、上番する。今日も隊長、上山中尉の二人とも見えない。前任者の報告によれば、朝から来られてないという。今日も本部に報告に行かれたのか。
 午後七時、NHKニュースでは、広瀬〔豊作〕蔵相は閣議で、悪性インフレの徴候が見えはじめたとその危険を、「国民がお金を軽視するようでは経済面から勝ちぬけぬ」と強調し、あらためて「欲しがりません勝つまでは」を、全国民に要望したいとのことである。
 今日も電話はない。しかし、いつあってもよいように待機する。今日も午後十時のニューディリー放送もない。
 静かだといろいろのことを考えさせられる。米国では原子爆弾の動き、ソ連経由の和平交渉の失敗と二つの問題がある。このまま日時が経過すれば、原子爆弾は日本のどこかに落とされる。今までの空襲ですら家は焼かれ、離散の家族が多いにかかわらず、もし原爆投下となれば、何万、何十万の人々が生命を失うこととなる。
 上山中尉の話によると、すぐ生命を落とす場合ももちろんあるが、場所や爆風などの関係では半死半生の状態が一週間、あるいはそれ以上もつづく可能性があるという。
 だから原子爆弾は、毒瓦斯【ガス】以上の化学的兵器で毒瓦斯禁止協定の項目に該当するといわれる。その禁止協定の範囲に入る入らないは別として、その落とされる前に、戦争はぜひ止めるべきではないか。ソ連を仲介にしての和平交渉に失敗したが、何らかのルートを見つけて一日でも早く一刻でも早く和平交渉の話し合いに入ってもらいたい。
 しかし、こんなことを口にしたら、下士官のくせにと、銃殺されるのが落ちだろう。
 隊長芦田大尉は、なかなか物事の見きわめが早く、考え方が柔軟で、問題点の掴み方が早く、事に当たっては五通りくらいも対策をたてられる。こんな人が日本の首脳に、あるいは軍の中枢におられればだいぶ違うであろう。頭の固い奴は前例のみを重んじ、自己の地位を安定させることに汲々とし、国民の安全、平和、幸福、生死を考えない。そんな輩【やから】ばかりが右往左往しているように思える。
 いろいろと考えて行くと、大きく流れる歴史があって、その歴史の中の一員に自分もいることがあらためてわかるような気がする。その歴史の流れは急ピッチに最近流れだして、どうやら一ヵ月か二ヵ月もすると、大転換するような大きな瀧壷〈タキツボ〉の中にみんな流れ込まれる気がする。こんな考えごとをして勤務する奴は重営倉だぞ。午後十二時、下番する。

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映画『憲兵とバラバラ死美人』(1952)について

2016-07-18 03:28:50 | コラムと名言

◎映画『憲兵とバラバラ死美人』(1952)について

 一昨日のコラムで、小坂慶助著『のたうつ憲兵』(東京ライフ社、一九五七)に言及した。この本は、小坂慶助が、実際に担当した事件について綴ったものであるが、厳密に言えば、ノンフィクションではなく、どちらかと言えば「小説」である。
 事件というのは、一九三二年(昭和一二)、仙台で起きた、歩兵第四連隊の下士官による女性殺害・遺体損壊遺棄事件である。小坂徳助という有能な陸軍憲兵曹長が、事件の捜査にあたるが、そのモデルは、著者の小坂慶助本人である。その他、登場人物の一部が「仮名」になっているという。
 この『のたうつ憲兵』という小説(推理小説)は、まれに見る傑作だと思う。一九五七年(昭和三二)三月三〇日の発売直後に、映画化が決まったらしく、同年八月六日には、新東宝映画『憲兵とバラバラ死美人』として公開されている。
 昨日、久しぶりに、この映画を鑑賞してみたが(DVD)、改めて、なかなかの作品だと思った。特に、当時の軍隊の雰囲気、当時の地方都市の雰囲気などが、それらしく再現されていたのには感心した。
 ただし、タイトルは感心しない。最初から「三流」を吹聴しているようなものだ。また、ストーリーは、原作から、かなり離れている部分があり、その離れた部分に無理が感じられた。
 製作は大蔵貢、監督は並木鏡太郎。主な登場人物と、それを演じた俳優は、以下の通り。

小坂徳助(主役、東京から出張してきた憲兵曹長) 中山昭二
高山忠吉(憲兵伍長、小坂の部下) 鮎川 浩
萩山憲兵曹長(小坂と対立する) 細川俊夫 (好演)
刈田憲兵伍長 小高まさる
井部憲兵隊長 倉橋宏明
君塚八太郎軍曹(犯人) 江見渉(のちに改名して江見俊太郎)
伊藤百合子(事件の被害者) 三重明子
恒吉軍曹(当初、犯人に擬せられる) 天知 茂
守谷刑事部長(仙台署) 岬 洋二 
馬渡老刑事(仙台署) 久保春二(好演) 
石川博士(東北帝大) 児玉一男 
加島喜代子 若杉嘉津子
加島しの 江畑絢子
鴨下妙子(君塚の婚約者) 松浦浪路〈ナミウラ・ナミジ〉 
清の家の女将 津路清子〈ツジ・キヨコ〉
老婆およし 五月藤江〈サツキ・フジエ〉(好演)

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なぜ、勝っているときに和平交渉をしなかったのか

2016-07-17 04:03:15 | コラムと名言

◎なぜ、勝っているときに和平交渉をしなかったのか

 この間、中村正吾秘書官、および黒木勇治伍長の「日誌」によって、七一年前(一九四五年)の「今ごろ」の出来事を紹介している。出典は、それぞれ、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)、および黒木雄司著『原爆投下は予告されていた』(光人社、一九九二)である。
 本日は、『原爆投下は予告されていた』から、七月一七日、一八日の日誌を紹介する(二一五~二一九ページ)。七月一八日の日誌は、ソ連が、近衛文麿の特使派遣を拒否したことに言及している。

 七月十七日 (火) 曇
 朝方からようやく雨も上がって、ときどきは薄日もさすように回復して来た。まず一番にと洗濯に走る。ついで内務班内外を掃除していると、汗だくになって来る。気温十時過ぎには三十度となる。汗をかくときは水を飲むとよいといわれるが、水を飲むと汗は余計に出て来る。昼食後は三十五度くらい、午後二時すぎには三十七度を越えるように思う。ただ内務班で静かに煙草でも吸っていると、風もあってそんなに暑いとも思わない。【中略】
 午後四時、上番する。昨日一日降った雨の影響か、今日は敵さんの動きはまったくなし。奥地から雨は上がっているから、午後出発しても可能だが、格納庫がなければ、爆弾積載にしろ、点検にしろ雨中では不可能だ。
 日本が全支那大陸に制空権を持っていた時代、各地飛行場の格納庫は完全にたたかれ、どこもないはずである。飛行機は米軍から貸与され、滑走路は整備したようだが、それ以上は手は回ってない。そう推測すると、今日の敵の空襲はまずないだろう。
 今日は隊長も上山中尉も、情報室に詰められていない。あるいは昨日の原爆実験成功の件で、隊長は上山中尉をともなって連隊長のところに報告に行かれたのかも知れない。午後七時、タ食がすんでも来られない。【後略】

 七月十八日 (水) 晴
 今日は朝から暑い。文字通り炎暑にして裸で外に出ようものなら、皮膚が火傷【やけど】にあったように赤くなるので、洗濯といえども上衣や帽子をかならずつけていかねばならない。やっぱり南支は暑いところだ。屋根のある内務班のようなところは風があって涼しい。
 一勤の者は午前八時に下番しても、わりに涼しいのでぐっすり眠れる。もちろん裸で寝る。このころは昼間に限って蚊帳〈カヤ〉をはずす。蚊帳があっては風が通らないから。その代わり蚊取線香をくゆらす。
 午前十一時、空襲警報発令。田原を起こして鉄帽をかぶらせる。暑いときの鉄帽は今まで以上に重さを感じる。二十分ごろやって来た。白雲飛行場はよはど目につくのか、かならず一番にやって来る。ドオーン、ドオーンと地をゆるがす音に加えて、高射砲の弾丸の炸裂する音がつづく。彼我の攻防が長いい。五分もつづくか。敵機は天河に飛んだか、黄埔に行ったか。爆音からするとB29らしい。
 起こされた田原は、せっかく起きたので昼食を食べて寝る。そういえば、この間の空襲も非番の日だった。非番の日というと、まったく日をおぼえていない。何時〈イツ〉だったかしら。
 午後四時、上番する。下番者田中候補生の報告によると、
「本日連江沿いに下って来た敵機B29七機は、午前十時四十分に横石を広東に向け南下し、午前十一時十五分から広東上空を旋回、飛行場各部隊陣地を目標に、攻撃し、黄埔から東莞を経て恵州から北に向け東江沿いに脱去致しました。その間、各所の軍事基地が狙われ、攻撃を受けました」
「ご苦労。昼食はともかくとして、厠にいけたか」と聞いたら、
「上番後、十時半に厠に行き、昼食を後で致しましたので、とくに厠は気になりませんでした」という。
「よし。ご苦労」と声をかけてやった。敵機が来襲中で、余裕ある時間帯なら食事してよいが、敵機脱去後に食箏するようにと言っておいたことが、実際に勤務中にされたことは嬉しい。
 午後九時、上山中尉が部屋に入って来られて、
「田中候補生、一人前に今日は放送しておった。貴様、よく仕込んだなあ」と、こっちが賞められた。
「二人とも真面目です」と答えた。
 午後九時半、今日も隊長は浴衣で入って来られた。
 午後十時、ニュディリー放送が流れてくる。
 ――こちらはニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべきところの情報によりますと、本日(七月十八日)、米海軍艦隊は茨城県沖合から海岸に艦砲射撃を行ないました。また艦載機八百五十機は関東各地を空襲し、銃爆撃を行ないました。しばらくお待ち下さい。ただいま入りました別の情報によりますと、本日(七月十八日)、ソ連政府は日本政府より要請のあった近衛文麿氏の特使としての訪問については、その持つ意味が不明なるを理由として特使派遣を拒否致したることを発表しました。繰り返し申しあげます。…………。――
 隊長「関東地方はえらいこっちゃなあ。艦砲射撃はどんどんやられるわ。八百五十機のカーチスやグラマンが、ぶるんぶるんやられたんじゃあかなわんなあ」
 上山中尉「それもそうですが、近衛さんのソ連行きは、日本政府が和平斡旋の仲介交渉を頼むために企画したのでしょうか」
 隊長はやや撫然として、
「それはそうだろうが、近衛さんはソ連のだれと親しいのだろうか。こういう交渉は、ソ連駐在大使とか公使など、先方の当局担当者と非常に親しい間柄の者同士が連絡を充分に取って、そのレールの上に乗って交渉成立ができると見なされたうえで、近衛さんを担ぎ出したらよい。ポンと特使です、公爵が行きますといっても共産国だ。くそ食らえと思っているだろう。それよりもおれは、最初から気になっていたが、米国を相手にするとき今まで戦っていた支那(蒋介石)となぜ和平交渉を結んだうえで、新しい戦いに突入しなかったのかといいたい。
 秀吉は信長が光秀にやられたのを知るや、ただちに眼前の敵、備中高松城に手を打ち、毛利の大軍と和平交渉をまとめあげ、とって返して光秀と山崎の合戦でこれを破っている。
 支那と和平を結んでできれば味方にして、兵を全部引きあげるとか、あるいは支那を味方にするまではいかなくても、敵にしないだけでも兵力の温存ができる。何よりも問題なことは仏印、タイ、ビルマをはじめ東南アジア各国、太平洋の各島々に兵を向け、停止戦を知らず戦線を拡大しすぎた。しかも勝っているときに、なぜ和平交渉をしなかったのか。場合によっては部分的な国だけでよい。和議をととのえれぼ、軍は原則として駐留しない。軍は目的達成で内地に帰す。必要に応じ召集したらよい。
 日清・日露の両大戦は勝っているときに止めた。日清・日露どちらも、あれ以上戦えば絶対に負けただろう。どちらも相手の方が人間が多い。生産能力も相手の方が上だ。経済力も遥かに相手の方が上だ。明治のあの時代の日本の力で、両方とも勝てたことは、和平の持ってゆき方が、日英同盟など列強各国のおかげだといってもおかしくない。
 いずれにしろ、勝ったときに和平交渉をしなかったことが間違いだ。ああそれから、今度の日曜日以降、外出は一切中止しろ。この放送を南支でうちが聞いてるほかに、軍としてはラジオを南支軍司令部以外は持っていないが、一般支那人の中には相当数聞いているだろう。日本は和平交渉に失敗した=【イクオール】日本は勝てる見込みはなくなった=日本は負けた=支那は勝ったということになって、外出中の一人、二人の兵隊に、何十人と一般支那人が棒でも持って来られたらやられる。おれの名前で外出中止命令を出してくれ。諸般の事情で、当分の間としておけ」
 上山中尉「はッ、外出禁止令は当日朝、通達を隊長名で出します。本論の和平交渉に大本営は関与しているでしょうか。政府といえぽ、陸軍大臣や海軍大臣は知っているでしょうか」
 隊長「おそらく知らないだろう。総理や一部の大臣が、このまま本土決戦になっては国体護持も不可能になることと、毎日毎日、日本中が爆撃され、いたるところに親を失い、子を失い、家を失う惨状を、もうこれ以上放っておけないとして、天皇の御勇断を願って戦争終結を計ろうとしたのではないだろうか。この際、政治家が悪者になってでもと思って、中立国であるソ連の仲介を依頼したのだろう。それにしても、ソ連という国は、ダメならダメと依頼国の日本に返事をすればよいのに。中立であるどころか、こんな情報を、軽々しくも米英側の情報機関に流すとはもってのほかだ。おれは本土決戦だけは避けなければならないと思っている。貴様は不満だろうが」
 上山中尉「自分は不満です。死をもってむかって行けばかならず開けます」
 隊長「馬鹿野郎。貴様が死んだだけですむか。貴様のようなやつがいるから、特攻隊が花が咲くんだ。特攻隊というが、上山、貴様のような優秀なよい腕、よい頭を持った若い前途ある飛行士ばかりだ。生きて帰って再度、戦いに臨むことをなぜ教えないのか。自分たちの不忠を考えず、つぎつぎに若者を狩り立てて若者を殺しているのは、おれにはわからん。飛行機も消耗品という考え方は愚の骨頂だ。傷つきいたんでも修理してでも、何度でも使うことを考えねばならん。現実を正しく認識して、高所、大所から物を観るようにしてくれ。目先だけの刹那的な現象で考えることのないよう総合的な物の考え方をして欲しい」
 隊長は今日も雪駄の音をさせながら出て行かれた。上山中尉は、じっと腕を組んで考え込んでおられる。自分も日本が負けるとは思いたくない。しかし、制空権も制海権もないのは事実である。それは全戦線がそうである。【後略】

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