礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

銀河の内翼主桁の合否をめぐる論争(1944)

2017-11-20 05:30:17 | コラムと名言

◎銀河の内翼主桁の合否をめぐる論争(1944)

 森伊佐雄〈モリ・イサオ〉著『昭和に生きる』(平凡社、一九五七)という本がある。「人間の記録双書」の一冊である。
 著者は、もともと、東北の漆塗り職人だったが、戦時中は徴用されて、群馬県尾島町〈オジママチ〉の中島飛行機株式会社尾島工場の中の、「海軍関係の内外翼主桁〈シュゲタ〉製作工場」に配属された。
 著書には、このときの徴用生活の日々が、リアルに描き出されているが、本日は、「検査工の人間性」と題する節の全文を紹介してみよう(一一〇~一一一ページ)。

 検査工の人間性

 昭和十九年三月九日 塗装のほうは専ら女工員に委せ、男工員は未発送の縦通材、内翼、外翼の整理をする。組長は現場事務所の机にもたれて本を読んでいる。工場の発送関係の帳簿と本を重ね、守衛とか上司が巡視にくると、巧みに帳簿で本を隠し何か調べているようなふりをする。読んでいる本は講談『鍋島騒動記』で、一昨日から読み始めたようだが、まだ十頁くらいしか読んでいない。組長は別に学歴とてなく、長い工員経験がものをいって組長の地位にのし上った人で、読むのもたいていは講談本で、一日最低二時間以上は読み続けているのだが、それでも一冊を読了するのは一月近くかかるようだ。仕事のほうはすっかり私たちに委せっきりで大した干渉もせず、たまに渉外関係を受持つだけで、組長の権威を振り回さないだけ工員には御しやすい組長の訳だ。薄っぺらな偽善者である。
 午後、銀河〔海軍の双発爆撃機〕の内翼主桁合格の是非をめぐって、製作現場側と検査側が私の職場で議論した。塗装を終えて発送するばかりの内翼主桁の傷が検査工に発見され、材質不良で検査が保留されたのである。その傷というのは、米粒くらいの小さいものである。現場側は緊急命令で今月中に十台分を完成発送しなければならない。一にも飛行機、二にも飛行機と叫ばれている現今、内外翼ができないばかりに完成しない半完成機が組立工?の格納庫に眠っている。このくらいのす(傷)なら実用に耐え得るかも知れないから合格にしてくれ、というのである。しかし、検査側は、もしこのまま合格させて完成し、実戦に使用された場合、この傷のため翼が折れでもしたらどうする。すくなくとも双発の爆撃機には四人以上の乗員が搭乗するに違いない。この人たちを自分(検査工)や君たち(現場側)の利害や情実で、不良品を合格させたばっかりに、その犠牲になって犬死させることはできない。耐え得るかもしれない、というのは、或いは耐え得ないかも知れないということだ。絶対に耐え得ると認定したのでなければ良心が許さない、といって合格を拒否した。ヒューマニズムの問題である。
 第二職場の係長も来て、その検査工に立場を説明して頼んだが、彼は拒否した。もし、係長の伜〈セガレ〉が乗る飛行機だとしたら、恐らくこの内翼を不合格にしてくれ、と反対に頼むかも知れない、と彼はあとで私に語った。結局、化学反応検査をしてみることで両方が納得して別れたが、私はその検査工の態度を尊いと思った。

 以上の短い文章をもとに、あれこれ言うことは控えるべきだが、少なくとも、次のようなことを言うことは許されるだろう。以下、箇条で記す。
○戦中に海軍航空機を製造していた中島飛行機では、各製作工程ごとに、「検査工」が製品を検査し、合格・不合格を判定する制度が導入されていた。
○この「検査工」は、中島飛行機の従業員であると同時に、海軍から検査を委託されているという立場にあった(正式な呼称は不明)と推定される。
○実際の現場では、利害や情実によって、不良品を合格させてしまう場合が多かったのではないか。この一件は、むしろ例外的なケースであり、それゆえに著者は、この一件を記憶にとどめていたのではないか。

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ナチ空軍における製品検査制度

2017-11-19 03:10:47 | コラムと名言

◎ナチ空軍における製品検査制度

 新聞紙上では、完成車の「無資格審査」の問題が、あいかわらず話題になっている。日産自動車の一部工場では、三十八年前の一九七九年から、無資格審査がおこなわれていたという(毎日新聞2017・11・17)。
 この問題に関するコラム子の立場は、一貫して変わらない。長期にわたって「無資格審査」がおこなわれてきたにもかかわらず、そのことによって、これまで、大きな問題が起きてこなかった以上、この問題で、大騒ぎする必要はないと考える。
 無資格審査で問題が起きなかったということは、完成車の審査に「資格」などいらないこと、あるいは、完成車審査(初回車検)そのものが必要のない制度だったかもしれないということを、事実によって示しているのではないのか。そうした視点に立って、さらに、この問題を追究した論説があらわれることを期待する。
 さて、本日は、戦中の一九四四年(昭和一九)に出た飯島正義著『ドイツの航空機工業』(山海堂)という本から、ナチ空軍の製品検査制度を紹介した文章を引いてみたい。管見では、日本における製品検査制度のルーツは、ナチ軍需工場における製品検査制度にある。この製品検査制度は、戦中の日本において、すでに導入され、その後、態様を変えながら、二一世紀の今日まで引き継がれてきたのではあるまいか。
 以下は、同書「附録」の「製品の検査と空軍検査班」の全文である(ただし、各種の「表」は省いた)。

  2. 製品の検査と空軍検査班

 軍需経済運営の保護援助機関としては軍需監督庁が配置されて居ることは本文に記述した通りであるが,空軍は更に自己の直接代表者として所要の軍需工業に検査班を分置し,次のやうな業務を担当させて居る.
(1)国家註文器材の製造監督及び製品の合否を判定すること.
(2)空軍註文品の生産実施に関し会社へ助言すること.
(3)会社が調達及び供給計画を策定する際助言し且援助すること.
(4)会社より提出する製用材料交付請求書を下検査すること.
(5)納入予定を監督し供給状況を報告すること.
(6)武器弾薬等を貯蔵し所要に応じこれを会社へ交付すること.
(7)修理の方法を認可しその実施を監督すること.
(8)新製第1回完成機の堪航証明精密検査を実施すること.
(9)新製或は修理飛行機に堪航証明飛行許可を与へること.
(10)航空機堪航証明所の委託に甚き民需註文品及び輸出註文品の製造を監督し合否を判定すること.
(11)合格品を受領すること.
(12)器材の完成を報告し空軍他官衙との間にこれを授受すること.
(13)国有器材を管理すること.
(14)修理に際し屑金及び残つて居る油脂を監督しその授受を立証すること.
(15)会社から空軍へ提出する各種の勘定書を下検査しチエツクすること.
(16)会社から組立艤装工を社外へ派遣することを指導し且会社から提出するその報告及び支払請求書を立証すること.
(17)試作問題に関し空軍の当該局課へ助言すること.
(18)シリース製造器材の改修に際し協力すること.
(19)軍需監督庁を援助し且助言すること.
(20)社内検査員を監督しこれに飛行許可を与へること.
 検査班一般の隷族関係並に検査班編成の一例を示せば次のやうである.
【このあと、二ページにわたって、ふたつの表があるが、略】
 即ち検査官長は数個の製作所を有する各コンツエルンに1名宛〈ズツ〉配置されるもので,該コンツエルンの試作になれる器材の生産及び合否判定に関するすべての問題の統一を策するを任とし,コンツエルンの基幹製作所に配置された検査班に位置するを通常とするも,時としてコンツエルン内の他製作所及び製作権を買収して,多量生産に従事する他会社製作所の全般を指揮するに便なる中央位置の検査班に位置することもある.そして自己コンツエルン内の各検査班に対しては直属上官として,又他コンツエルン或は単一会社で製作権を買収して生産に従事する製作所の検査班に対しては助言者としての地位を持つて居るのである.
 検査班は製作所に常時在勤するか又は一時的に分遣せられるもので,班長の指揮により班員は在勤製作所に於ける所謂検査業務を執行するのである.又試作検査班は試作器材の製作所に試作期間設置せられるもので,試作指導に必要な特殊の人員を以て臨時に編成し,試作器材のみに関する所謂検査業務を執行するのである.
 製品はその加工間より完成に到るまで屡々社内検査員に依り検査せられるもので,検査班長は以上のやうな社内検査中,官の検査を実施すべきものを指定するのである.勿論これ等の官の検査は厳密な全数検査を本則として居る.しかし検査班本来の編成人員のみでは到底斯くの如き全数検査を負担し得るところでないから,検査班作業力の欠を補ひ且官の検査と社内検査との重復を避くるの見地から,免許検査員といふ特殊の制度を採用して居るのである.
 免許検査員とは,優秀な社内検査員を官の委託検査員としたやうなもので,次の如き性質を持つて居る.
(1)会社の命に依り社内検査に従事しある某社内検査員に対し,検査班は会社の同意を得てその社内検査業務の全部又は一部を官の検査として実施することを委託する.斯くの如き委託を受けた社内検査員は委託された業務の範囲内に於ては免許検査員である.
(2)委託は会社の仲介によることなく,官と本人との間に実施し,免許検査員の責務は官史服務規定をそのまま適用することなく,官と間の対個人契約書に基き法律的に発生するものである.例へば官吏に対し贈賄となる行為も,免許検査員に対しては業務干渉となるやうなものである.
(3)免許検査員の雇傭関係は会社と本人との間にある.そして官より何等報酬を受くることがない.但し会社は検査班の同意を得ず労働条件等身分関係を変更することが出来ない.
(4)委託された範囲内に於て免許検査員が実施する検査は,社内検査であると同時に官検査たるの特質を有し,検査の実施や合否の判定に関しては自己の所属する官の合否判定全権者の指示を受け,且その結果を直接同官に報告するのである.
 又一般社内検査員のやうに会社の検査具や測定具を使用せず,官のものを使用し官の検印を捺すのである.
(5)免許検査員の実施した検査に対しては,適時官の検査員が抽出検査してその適否を点検する.
 検査班の駐在しない下請部品製作所の製品は,親会社への持込検査を原則とし,要すれば空軍検査班は親会社の社内検査員を派遣して駐在せしめ,下請製作所に於て検査業務を実施させる場合もある.又材料の検査は本文に記述したやうに航空工業連盟の検査に一任し,会社は入庫時これが点検試験を自ら実施して居るが,空軍検査班は要すればこの点検試験に立会つて居る.
 何はともあれ会社がその製品の検査を重視して居ることは非常に大である.製作転換を指導する場合にあつても,第一に移しうゑるのは検査技術のやうであるし,又日本へ製作権を譲渡する場合にあつても特に優秀な検査技術員の招聘を推奨するのが常のやうである.勿論各会社の技術陣にはそれぞれ自負心があり,日ならずして同じやうな品物が製作出来るやうになるのは当然であろう.しかしドイツ航空機の信頼性はかうした小さい心遣ひにも基因して居ることの大なのを再思すべきで,以て他山の石とすベきものと考へる.
 因に〈チナミニ〉ドイツの或る発動機製作所で,製作発動機100台当りに使用して居る社内検査工の数とその編成とを示せば次のやうである.
【このあと、六ページにわたって、六つの表があるが、略】

 以上の文章のみを根拠に、あれこれ言うことは控えなければならない。しかし、この文章に出てくる「免許検査員」の性格は、今日の日本の自動車産業で、完成車審査(初回車検)を担当している「審査員」(正規検査員)に酷似している。
 おそらく、これは偶然の一致ではない。後者のルーツが、系譜的に前者にあるということを、明白に語っているということではないのか。

*このブログの人気記事 2017・11・19

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青木茂雄自伝・その2「最初の移住」

2017-11-18 04:25:52 | コラムと名言

◎青木茂雄自伝・その2「最初の移住」

 昨日に続いて、青木茂雄氏の「自伝」を紹介する。本日、紹介するのは、「わたしの幼少期(2)」と題する文章で、「最初の移住」という見出しがある。
 なお、この「自伝」は、このあとも、折を見て断続的に紹介してゆく予定である。

記憶をさかのぼる    青木茂雄
わたしの幼少期(2)

最初の移住
 昭和26年の6月頃、私たち家族7人は私の生地茨城県日立市から、県庁所在地の水戸市に移住した。新居住地は常磐線の水戸駅から約3キロほど離れた、市街地の外れに位置した当時「新屋敷」とよばれていた住宅地の一角であった。徳川時代に御三家の一つの水戸徳川家には参勤交代がなく、藩の一部が藩主とともに江戸に常駐していた。江戸後期の徳川斉昭の時代に、財政立て直し策として斉昭自身が水戸に居を構えると同時に、江戸詰の藩士(主として上級藩士)を水戸に居住させた。そのために新しく郊外に開かれた藩士の居住地区が「新屋敷」と呼ばれた区域であった。そこは1町歩四方に整然と区画されていた。町名も「〇〇小路」というしゃれた名で、「桜」「花」「松」「楓」「梅」「桃」などを配した。私の住むことになったのは「梅小路」(うめのこうじ)という町名がつけられていた。
 私たち家族が移り住んだ一角は、鵜飼(うかい)という藩士の旧居住地であり、その敷地約300坪ほどが4つに区画されたものの一つであった。戦災で旧住居は灰燼に帰していた。鵜飼家が当時の水戸藩でどのような役職であったかは確認できないが、比較的上級であり、おそらく「処世派」とよばれた水戸藩内の保守派であったろうと思われる。鵜飼家の末裔は、旧敷地内の一角の焼け跡に狭い小屋を建てて、そこに住んでいた。通り抜けに私たちの家のすぐ裏の敷地内を使った。旧上級士族とはとうてい思えない、貧相ないでたちの偏屈な老人で、通りすがりに私達の敷地内に平気で音をたてて痰や唾を吐くという習性があり、人に会うと「瓦解(がかい)だ」と嘆くのを常としていたという。「瓦解」とはすなわち旧勢力から見た「明治維新」のことである。その鵜飼老人もいつの日かいなくなった。
「新屋敷」の一角には元医事掛の菅(かん)氏、元教育掛の名越(なごや)氏などが居住していた。その名越氏の子孫が水戸学の在地の研究グループである水戸史学会の元締である名越時正氏で、私の母校の水戸第一高等学校で日本史の教師をしていた。私も2年生の時に直接に彼の授業を受けた。信条である皇国史観についてはともかく、徹底した細事にわたる人物中心主義(しかも史観に基づいて善玉か悪玉かに2分される)にはいささか、否かなり閉口した。私は最前列で脚を投げ出して、ややふてくされた態度で聞いていたが、そのことが彼の記憶の中にあったからなのか、あるいはテストの答案に古代天皇制国家は奴隷制国家であるなどということを書いたからなのか、ある日、家の近くの路上で自転車ですれ違いに鉢合わせになった際に、彼はくるっと後ろに向きを変えて去ってしまった。彼の目には私は当時から明らかな「左翼」であった。その頃我が高校内にも名越時正信奉者がいて、何人かは新屋敷にあった名越邸で定期的な研究会にも参加していたが、その研究会での定例行事が宮城遙拝であった、ということを誰かから聞いた。同じ教育掛に飯村家があった。しかし、ここは水戸学の継承家ではなく普通の教育掛であったようである。私の長姉がこの家に嫁いだ。根っから平民の出自の青木家にあって唯一士族の嫁となった。
 さて、その引っ越しの日の出来事は今でも良く覚えている。私が一日の行動としてまとめて覚えている最初の一日が、この引っ越しの日である。
 朝、庭先にトラックが着いた。積み出した後、兄2人はトラックの助手席に乗り、私は、母たちとともに鉄道で移動した。これが記憶している最初の鉄道の旅である。「みと」という町へ移るということは、しばらく前に聞いていた。私は「みと」の姿をあれこれと思い描こうとしたが、土台、「街」という概念もイメージもない。私は、平べったい一繋がりの西洋風の城のファサードのようなものを漠然と浮かべていた。このイメージのもとが何であったかはまったく不明である。  
 蒸気機関車に曳かれた列車の旅、薄黒い客車の暗い車中の中からとびきり鮮やかに見えたのが車窓からの移り行く景色である。それは私の心を奪うのに十分であった。水戸駅を降りて、路面電車で移動した。初めて目にした水戸の市街地。商店が連なり、人が行き交っている「街」の姿はとりわけ印象が深かった。路線電車を降りて、わが新居まで歩いた。途中、交差している道路(幅が10メートル以上はあろうかという広い道)の奥には、まるで竜宮城のような独特の形をした建物が見えた。その桃色の線で縁取られたあの建物は何かと私はいぶかった。これが水戸商業高等学校の伝統ある木造建築であった(私の記憶はこの頃から時に色彩を伴うようになった)。
 出生地と異なった世界があるという最初の経験であった。 (つづく)

*このブログの人気記事 2017・11・18(8位にかなり珍しいものが入っています)

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青木茂雄自伝・その1「最初の記憶」

2017-11-17 05:18:58 | コラムと名言

◎青木茂雄自伝・その1「最初の記憶」

 畏敬する映画評論家・青木茂雄氏から『記憶をさかのぼる』と題する自伝の一部が送られてきた。氏はかねて、「七〇歳になったら自伝を書く」と公言されていたが、ついに、その自伝に着手されたらしい。
 本日、紹介するのは、「わたしの幼少期(1)」と題する文章で、「最初の記憶」という見出しがある。

 記憶をさかのぼる    青木茂雄

わたしの幼少期(1)

最初の記憶
 私が生まれたのは昭和22(1947)年10月31日、ということになっている。そのように親から言われていたし、戸籍謄本にもそう記載されているから間違いないようだ。正確には10月30日の深夜で、ちょうど日付が変わったころに生まれた、と聞いている。当然、その頃のことはまったく何も覚えていない。しかし私にも、もっともさかのぼることのできる記憶というものはある。
 観念を記憶から想起された像(イメージ)と解するならば、観念の源泉は何らかの印象(刻印)であると主張する経験論の見解には同意せざるをえない。また、D.ヒュームの『人性論』の冒頭の記述に従って、その刻印の時期によって像(イメージ)の濃淡に違いができ、時間的に近いものほど鮮明であるとする見解にもある程度までは同意できる。
 にもかかわらず、私に解せないのは、それらの像(イメージ)群を時間軸に従って整然と秩序づけて誤ることのない、その整序のメカニズムである。これこれの像は何分前、これこれの像は何時間前、これこれの像は何日前、あるいは何年前…。このメカニズムの巧妙さには驚かされる。確かに、何年前、何日前については事後に想起され、何らかの形で表現され、そして何らかの媒体を介して記憶されるということもあるであろう。しかし、何分前、何時間前、については、想起されなくても整序されているのである。この精緻さには舌を巻くばかりである。
 認識枠組みとしての「時間・空間」についてはカントの『純粋理性批判』が良く知られているが、カントに先立って、ヒュームは『人性論』の中で「時間・空間」についての思考実験を行っている。しかし、「空間」についてはどうにか一つの見解を出すまでには至っているが、「時間」については中途であえなく挫折している。ヒュームの代名詞ともなっている独特の「因果」についての考察は、彼の「時間論」の挫折に上に打ち立てられているというのが私の見立てであるが、このあたりについてはいずれきちんとやりたい。
 フッサールには『内的時間意識の現象学』という名著があり、幸い平易な翻訳もある。また、ベルグソンやハイデッガーなどにも「時間論」の良く知られた著作があり翻訳が文庫本で出ている。不明にしてこれらの本をまだ私は読んではいない。この歳(70歳)になっても不明はどんどん広がるばかりである。この連載が終わるころまでにはひととおり読んでおきたいが、年齢を積み重ねると「時間」に関する像(イメージ)はあり余るほど蓄積されているから、おそらく、私はそれらの書物から一方的に教示されるというよりは、何らかの対話となるであろうし、そうあらねばならない。それぐらい個別の固有の経験は広大であり、その持つ意味は深いと私は考える。
 ここで私は、像(イメージ)をドイツ語からの訳語である表象(Yorstellung)という語に必要に応じて置き換える。前へ(vor)置く(stellen)から派生したこの語は、念頭に常に思い浮かべられる像を示す言葉としてまことに重宝である。
 私は時間に関わる表象群を大きく二つに分ける。
A 想起されるごとに時間軸に従って言わば直線的に整序された表象群。
 例えば、私が小学校に入学した時と、中学校に入学した時とは、一方が昭和29年でもう一方が昭和35年である、という「図式」に従って記憶の中で整序されている。そして何度も想起されることによって知識となっている。そのような膨大な表象群が時間軸によって整理されている。これはその人自身の固有の記述された歴史であると言ってよい。これには表象の濃淡の差は少ない。時間的に過去のことでも、想起される頻度が高ければ鮮明となる。また、想起には必ず意識的無意識的たるとを問わず、何らかの意味付けが伴っている。しかし、さらに振り返ってみると、この整序する時間軸というものも不確かで不可解なものであると言わざるをえないが、これについては別途に「厳密に」考察する以外にないであろう。
B 想起されないか、または想起されたとしても時間軸に従って整序される以前の表象群。 例えば、朝起きて、歯を磨く、顔を洗う…、等の行動の時間的な整序の働く以前の表象。かなりの程度記憶像に濃淡の差があり、概して直前のものほど濃い。しかし、これはかなり不可解である。そもそも最初に想起されたある表象が他のある表象に対して時間的に「前にある」とはどういうことか。そして、「後にくる」とはどういうことか…。

 さしあたってこのようなことが考えられるのだが、先にあげた大家(たいか)たちがどのように考えているのか、興味深い。私がこれから述べようとするのは上記のAに属する表象群についてである。言わば私自身の固有史である。確かなのは私の生の終了とともにこれらの表象群は確実にこの世界から消失してしまうことである。であるからには記録しておくだけの値打ちは多少ともあるというものであろう。

 さて、私の最初の記憶。私は、昭和22年に茨城県日立市助川町に生まれ、昭和26年6月頃に茨城県水戸市に家族とともに移住した。(私の記憶によればこのあたりの年代は西暦よりも元号のほうがなじみが深いので、そのことを記録しておく意味でも使用することにする。元号年から西暦年へと記憶の引き出しが変わった境目をあげれば1963年頃であろうか。この年は私が中学を卒業し、高校に進学した年で、なぜかこの年は昭和38年よりも1963年の方がなじみがある。)当時3歳と10カ月である。移住当日の記憶もあるし、それ以前の日立市の記憶もかすかながらある。
 私の生まれた家は、空爆で半焼した家屋をトタン板でおおって雨露をかろうじてしのいでいるという粗末な家である。日立市は戦争末期に米軍による「空襲」とともに、沖合に停泊した艦船からの激しい「艦砲射撃」に連日さらされた(日立市は軍需物資を製造する「工都」であった)。だから私は、両親や兄姉たちから耳に入った言葉としては「くうしゅう」よりも「かんぽうしゃげき」の方が強烈であった。
 その艦砲射撃により、当時家族が住んでいた日立市平沢にある日立製作所の社宅(当時は「役宅」と呼ばれていた)の部屋の壁に銃弾の貫通した穴が出来たと、父や母は良く話していた。祖父もその頃衰弱により死亡したと聞いている。
 私の父は当時日立製作所で事務の仕事に就いていた。父は、とある旧制高等商業専門学校を卒業した後、農工銀行に勤務し、茨城県内の各地に勤務地を巡った後、農工銀行を退社し日立製作所に勤務場所を得た。銀行勤務の頃の昭和初年の古い写真を見ると、借家ながらそこそこに広い一軒家で、両親と子供2人、祖父母と曾祖母、合計7人が住んでいた。父一人の給与で7人の生活を支えていたとすれば、かなりの額の支給があったであろうと推測される。写真が示すものは、小津安二郎の戦前の映画に描かれたような、当時の比較的高学歴の地方都市のサラリーマンの生活であり、それは戦後の貧乏を絵に描いたような我が家族の生活からは到底想像できないものであった。私は、その写真の中にある古き良き中産階級と現在の貧乏な暮らしとの落差を思った。
 父は、戦後の日立製作所の大量解雇の時期に、胸の病気を患っていたこともあり、整理解雇された。おそらく一時金はもらったのであろう、その資金で助川町の半壊した家を借り受け、4人の子供と両親の合計6人で移り住んだ。そして、私が生まれ、家族は7人となった。
 空爆で半焼しトタン板でおおわれた私の生家について記憶にあるのは、便所が外づけであったことぐらいでほとんど憶えていない。3歳半までの私の記憶にある光景を時間の順序抜きに描く。これが私のさかのぼることのできる最初の記憶である。
 夏の暑い日に部屋の中で、晩方だったろうか、ごろごろ寝ている。なぜか、そのごろごろしている私を高い天井のあたりから見下ろしているという記憶である。私はハシカにかかって高熱を出していた、ということである。
 近くに小高い丘があり、ある晴れた日に母と、その丘の中腹で弁当を食べた。さんさんと照る日差しと、丘の下に広がる光景、樹木が取り払われていて見通しの良い丘の中腹、などがかすかに浮かぶ。
 その丘を降りると広場があり、近くの子供たちが群れをなして遊んでいた。そこには鉄棒と砂場があった。
 庭先で父の帰るのを迎えた、父は土産物を懐から取り出した。いかにも頼もしい父親だった。
 それともうひとつ強い印象のある出来事があった。少し年上の一団が群れている。そこへ郵便配達員が通りかかる。配達員は制服制帽である。それを見た一団は、一斉に身を隠す。「制服を着た怖い大人がきた」という。制服制帽というのは少し前まで跋扈していた憲兵か、あるいは進駐軍であろうか。
 なぜか、これらの光景の記憶は今に至るまで残っている。しかも、繰り返し、繰り返し想起されている。    (つづく)

*このブログの人気記事 2017・11・17

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右翼は「安保廃棄」を打ち出せ(野村秋介)

2017-11-16 05:37:53 | コラムと名言

◎右翼は「安保廃棄」を打ち出せ(野村秋介)

 昨日に続き、『証言・昭和維新運動』(島津書房、一九七七)を紹介する。
 本日は、同書第二部にある「反共右翼からの脱却――野村秋介・鈴木邦男」から、野村秋介の発言を紹介してみよう。これは、二者による対談の記録で、『現代の眼』の一九七六年(昭和五一)二月号が初出である。

 鈴木 戦争は一番優秀な人間を殺すと言いますからね。勇気のある人間はみな死んでしまった。
 野村 右翼においてはとくにそうですよ。優秀な人は皆死んでしまい、残された少数派から戦後の右翼運動は再出発した。だから数が少ないということで、ともかく数をふやそうと考えたんですよ。児玉誉士夫〈コダマ・ヨシオ〉さんなどが考えたのもそういうことだったと思うんですよ。任俠〈ニンキョウ〉団体にまでも働きかけ抱えこんで、<量>の拡大を考えた。
 鈴木 しかしそれはある意味では仕方がないんじゃないですかね。左が<数>でせまってくるわけでしょう。そうしたらそれに対抗する側も<数>を集めなくては、と思うんじやないですか。でなければやられちゃうという不安がありますからね。
 野村 僕はその考えには根本的に疑問を持っていたんですよ。<数>に頼れば資金的な問題で運動が歪められるし、国民大衆に対する迎合的なものに変質してしまう。三島〔由紀夫〕さんなんかはその点、<数>をふやそうとしなかった。<数>をふやすということは<質>を落とすということだとはっきり知っていた。だから大衆運動なんて考えなかったし。楯の会も百人と限定したでしょう。そして行動を共にしたのは五人だけだった。
 鈴木 敗戦によってすべては無に帰してしまった。特に打撃の大きかった右翼は早く立ち直り戦線を整備しなくてはとあせり、<数>をふやすことに急になってしまった。それが結果においては現在の右翼のような体制内化したものになった要因になっているということですね。それに反共だけの運動もそれに輪をかけたと……。それはまあわかるわけですけど三十五年安保〔60年安保闘争〕の頃は、どうもそれだけではなかったのでは、とも思うんですよ。何と言うか、ナショナリズムとナショナリズムのぶつかり合いだったのではないか。すなわち安保支持派も反対派もですけど、その基盤にあったのはナショナリズムであったろうと思うわけですよ。どっちのナショナリズムが国民をよく吸収したかといえば安保反対の反米ナショナリズムですよね。その時の選択は後から見た場合、間違っていたかもしれないが、そう選択せざるをえなかった心情は理解しなくてはならないのではないか。結果的には反共右翼をつくることにはなっても、当時の右翼の人々もやはりナショナリズムから安保支持に回ったのだということですね。
 野村 そりゃそうですよ。当時の人達も反共だけであとは国がどうなろうと構わないなんていう気持ちではなかったでしょうし、ナショナリズムの範疇〈ハンチュウ〉から外に出ていたわけではない。ただ、その時の失敗(あえて失敗と言いますが)を今、教訓として生かしえているかどうかですよ。全然生かしえてないじゃないですか。だから三十五年安保の<負債>を我々がどう引き受け、どう越えてゆくかの問題ですよ。さっき児玉さんの話をしましたが、<数>をふやすということでも体制サイドに立った発想ではなく、ナショナリズムに立脚した上での考えであり、運動であったと思いますね。
 鈴木 左の連中が<数>で来る。それに対して右の方も対抗するには<数>を集めるという発想は野村さんが言われるように今から考えればナンセンスだったかもしれませんが、それなりに一つの見識というか、やむにやまれないものがあったんじゃないですか。というのは、国会前に人数を動員した安保反対派は、これだけの国民が反対してるのだという<事実>でもって迫ってきた。また、学生やら市民やらの動員された人間だけではなくその背後にはもっと大多数の国民がいるのだという確信があったと思うわけですよ。それに対して安保支持派の方もまったく対極に立ちながらも国民の大多数は自分たちを支持しているのだという確信を、これまた持っていたわけでしょう。そして安保反対派の動員された人間以上の数が自分たちを支持しているのだと。「声なき声は支持している」という言葉にあらわされるようにですね。しかしその「声なき声」は<数>として、<動員>としては顕在化されえない。そうしたアセリがたとえ任俠団体を動員してでも、<数>として示す他ないというところになったんではないかと思いますね。たしかにその結論は間違っていたかもしれませんが、<数>や大衆運動を考えたということ自体までもすベて間違いだとは言えないんじゃないですか。
 三島さんだって最初は大衆運動を考えていたし、<数>に対しては色気も持っていた。さらに自衛隊をも巻き込んでドデカイ騒乱状況をつくろうと目論んでいたわけでしょう。それが出来なくて挫折し、いわば絶望の果ての自決でしょう。その結果だけからみて断言しちゃうのは極論だと思うのですが。それにその<結果>だけを我々が真似てみたって何も変わりはしないですよ。あれは三島さんだからあれだけの大事件として扱われ、影響力もあったんであって、即、我々が同じことをしても波及効果はないと思いますね。我々は我々としていまの時点に何が出来るかを考えなければならないと思うんですよ。合法、非合法を問わず。
 野村 確かにそれはノーマルな考え方だと思いますよ。僕もその点に関しては異議があるわけじゃないんですよ。ただそうしたものがいまに至るまでもずうっと続いてるんじゃないかというところに危惧を持つてるわけです。反対もされずに延長している。それはどこまで行ってもその延長のままでふっ切れないんじゃないか。一度ここで、立ち止まって考えてみる必要があるんじゃないかと思うんです。立ち止まるところがあり、流されるだけではなく踏み止まるところがあるんじゃないか。いや実際にあるんですよ。大体にして、右翼の間から三十五年安保を再確認しようだとか反省しようという風潮は一度だって無かったでしょう。だからこの機会にその点をもっと考えなくてはならないと思うんですよ。鈴木さんもそれは認めるでしょう。
 鈴木 それは勿論認めますよ。たとえ善意からであり、また彼らの心情は痛い位わかりながらも、いまの右翼の体制化の因は三十五年安保の時の選択にあったと思いますからね。
 Y・P体制〔ヤルタ・ポツダム体制〕打倒にしてもその支柱をなしている安保と憲法の二つを同時に打倒する闘いであったはずなのに、一方の憲法の打倒は言いながらも、もう一つの安保の方は支持するんだという。こんなおかしな話はありませんよ。少々皮肉をこめて言えばこうした器用なまねが出来るようになった時から戦後右翼の堕落が始まったんだと思いますよ。
 野村 その堕落した姿勢はいまも統いているんですよ。反体制右翼としての誇りもなく、牙〈キバ〉もすてて体制ベッタリになってしまった。だからどこかで踏みとどまらなければならないんですよ。そうでしょう。保守政党と右翼という本来相反するもの同士が癒着したまま続いてきてるんですよ。ここで三十五年安保のことを考え直すということは我々戦後右翼が背負ってきた負債を確認し、失敗は失敗として認めることですよ。さらには、では我々は安保に対してどういう姿勢をとり、どういう見解をとるのかをはっきりさせることですよ。今までの右翼とは違うんだといったって安保に対する考え方も同じでは、どこに違いのがあるのかとなっちやいますよ。Y・P体制打倒を言い、戦後体制からの脱却を言うのならば、安保と憲法を分けて考えるなんてことは絶対に出来ないはずですよ。少なくともそのスローガンを口先だけではなく、自分たちが命を賭して実現するんだという決意があるのなら「安保廃棄」ということをはっきりと打ち出すべきだと思うんですよ。【二〇〇~二〇三ページ】

 ここで、野村秋介(一九三五~一九九三)は、「体制ベッタリ」の右翼を批判し、右翼は「安保廃棄」ということをハッキリ打ち出すべきだと述べている。大胆な発言である。
 この対談については、さらに紹介を続けようと思っているが、明日は一旦、話題を変える。

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