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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

高麗神社の御神体は○○様(坂口安吾)

2017-11-25 04:34:25 | コラムと名言

◎高麗神社の御神体は○○様(坂口安吾)

 坂口安吾の「高麗神社の祭の笛」という文章を紹介している。
 タイトルにもあらわれているように、高麗神社に赴いた安吾が、最も強く惹かれたのは、「祭の笛」であった。
 本日は、この文章の最後の節を紹介する。そこには、祭の笛の「譜」についての詳細な紹介があり、それに関する安吾の饒舌な解説がある。しかし、あまりに長いので、以下では、その部分を割愛した。
 前回、紹介した部分のあと、「*」の区切りがあって、次のように続く。

     *

 川越にも、ここと同じような獅子舞いが残っているそうだし、若光の上陸地点と伝えられる大磯にも似た神事があるそうだが、それらについては私は知らない。とにかく、この獅子舞いも笛の音も、現代の日本とツナガリの少いものだ。古いコマ人のものであろう。
 もうコマ村の建物にも言葉にも、風習にも古いコマを見ることはできないが、笛の音と獅子舞いのほかに、一ツ残っているのがコマの顔だ。
 中折〈ナカオレ〉のニコニコジイサンはただ一人の祭りの歌を唄うジイサンだが、彼の口もとに耳をよせ、台本と睨み合せて聞いても、何を唄っているのだか一語もハッキリしない。この顔はコマの顔というよりも練馬の顔というべきかも知れない。武蔵野の農村に最も多く見かける顔なのである。
 私たちがピクニックの弁当をぶらさげて飯能で乗り換えたとき、私たちの何倍もある大弁当をドッコイショと持って乗りこんだ多くの男女があるのに驚いた。カゴに一升ビンをつめこんでいる人々も多い。これがみんなコマ駅で降りた。若い女性が多い。さてさて当代の武蔵野少女は風流であると感に堪えて、やがて我々のみ遠くおくれ道に迷いようやくコマ神社に辿りつく仕儀と相成ったが、彼女らも特に風流女学生ではなかったのである。みんなコマ村出身の父兄であり、子弟であった。彼らは実家や親類の家でゴチソウを並べて祭りの日をたのしむらしく、お祭りの境内に一年一度の獅子舞いを見に来ている人は多い数ではなかった。よその村祭りと同じように舞台を造っていたが、夜になると浪花節でもやるのだろう。そして、その時こそは全村老若こぞって参集するのかも知れない。
【中略】
 コマ家の始祖らしい若光は長生きして老翁となり、白い髯がたれていた。そこで彼を祀ったコマ神社は白髯サマとあがめられて、諸方に崇敬せられたという。
 しかし白髯サマの総本家は近江にあるとも云われていた。若光をただちに白髯サマその人と見るのはどうであろうか。コマ家の系図にもそのような記事はないのである。白髯サマとはコマ系のもっと始祖的な、あらゆるコマ系の人々に祖神的な誰かを指しているのだろう。若光のように実在的なものではなく、もっと伝説的なものと考えた方がよろしいようだ。
 私は白髯サマの御本体を見せてもらった。いっぱんに白髯サマとか同系統の帝釈サマ聖天サマなどは陽物崇拝とか歓喜仏のようなものを本尊にしているように云われているが、コマ神社の白髯サマはそうでなかった。
 一尺ぐらいの木ぼりの坐像だが、およそ素人づくりのソマツな細工で、アゴに白髯のゴフンが多少のこっている。しかし、まことに素朴で、感じのよいものだ。非常にソマツなこわれたような木の箱に納めてあるのも、その方がむしろピッタリしていて、はるか昔この村に移住した貴族の悲痛な運命や、トボケたような生活などにふさわしく、お宮すらもオソマツなホコラにした方がその人の運命にふさわしく、また我々の身にしむような感もあった。
 この白髯サマの御神体は一見したところ五六百年以前の作品らしいと見うけられたが、あるいはそれ以上にもさかのぼりうるのか私には分らない。あるいは、カットの写真の獅子面の古い方と同じぐらいまでは、さかのぼりうるのであろう。
 社務所の一室で、私たちは持参のお弁当をひらいた。参拝の人々の記名帳をひらくと、阿佐ケ谷文士一行が来ておって太宰治の署名もあったが、呆れたことには、参拝者の大部分が政治家で、特に総理大臣級が甚だ多く参拝している。私は妙な気持になって、
「どういうわけで、こう政治家がたくさん来るんだろう?」
 と呟くと、宮司は笑って、
「当社のオ守りは総理大臣になるオ守りだそうで、いつから誰が言いだしたのか知りませんが、たまたま当社に参拝された方々から都合よく二三の総理大臣が現れて、政界に信心が起ったのかも知れませんな。この春は当時大臣の黒川〔武雄〕さんと泉山三六さんが見えましたよ」
 さては泉山大先生も総理大臣を志しているかと見うけられる。
 私もオ守りを十枚買った。これを友人に配給してみんな総理大臣にするツモリであって、私自身が総理大臣になるコンタンではなかったのである。
 私たちはオミキをいただき、赤飯を御婦人連へのオミヤゲにぶらさげて、とっぷりくれた武蔵野を石神井の檀〔一雄〕邸へ帰る。
 檀君の長子太郎にも総理大臣のオ守りを配給したが、翌朝太郎はカバンをひッかきまわしながら、
「モウ、オ守りをなくしたよ。それでも、大丈夫? 大丈夫だねえ」
 なにが大丈夫なのか知らないが、総理大臣になるコンタンでもなさそうに見えた。

 最初の方に、「中折のニコニコジイサン」とあるが、おそらく、「中折帽〈ナカオレボウ〉をかぶったニコニコジイサン」の意味であろう。
 明日は、話題を変える。

*このブログの人気記事 2017・11・25(8・10位に極めて珍しいものが入っています)

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坂口安吾、高麗神社の例大祭に赴く(1951)

2017-11-24 04:18:27 | コラムと名言

◎坂口安吾、高麗神社の例大祭に赴く(1951)

 坂口安吾の「高麗神社の祭の笛」という文章を紹介している。
 前回、紹介した部分のあと、「*」の区切りがあって、次のように続く。

     *

 翌日、檀一雄邸では御婦人方が朝からお弁当づくりに多忙である。昨日の三人に写真の高岩震〈タカイワ・シン〉君を加え、四人の大男が獅子舞い見物ピクニックとシャレこんだからだ。お酒があるから男の大供〈オオドモ〉のピクニック弁当も重たいものだ。

 本日はピクニックであるから、コマ駅まで電車で行って、コマ神社まで歩く。相当な道のりだが、近道を歩いて道に迷う。急がば廻れと云うのもコマ村のコトワザだ。と何でもコマ村にしてしまう。
 おかげで高麗川の河原を橋をさがして、ブラリブラリと歩いたが(橋を探して河原をブラリブラリというのは奇妙な道の迷い方だが、そこがコマ村だから仕方がない)だがコマ川は実に流れの美しい川だ。深山幽谷ならともかく、山から平地に出がかったところに、こんなにキレイな流れを見たのは生れてこのかた始めてだ。河床〈カワドコ〉にしきつめた小石の粒々がみんな美しいのだが、透きとおるような流れの清らかさのせいもある。グルリグルリとコマ村中を廻転また廻転している流れであるが、どこで見ても冴えた清らかな流れには変りがない。
 背後にひかえる正丸峠〈ショウマルトウゲ〉と云っても、秩父の山々の末端に当る低山であるし、側面から前面にまわるコマ峠の峰つづきも百米に足らないような連丘にすぎない。その連丘にはさまれた小盆地をコマ川が精一パイ蛇行している。実に変テツもない山近い農村風景。すべては平凡な風景だが、流れに沿うてかなりの農家がありながら、あまりにも美しく冴えたコマ川の流れである。
 ようやくコマ神社に辿りつく。目下獅子舞いは山上の昔の社殿跡に登っているという。ただちに山上へ急ぐ。この山は自然の小丘を利用して円形にけずって古墳に用いたものらしく、この山が墳墓だという伝えは昔からあったもののようだ。もっとも、コマ氏系図には「屍体を城外に埋め、また神国の例によって霊廟を御殿の後山にたてた」
 とあって、城だの城内域外が見当のつけようもないようだが、この系図はこの先の全文がチョン切られているのであるから、この域外に埋めた屍体とは若光らしいと想像されるだけで、若光と断定できるようにはなっていない。また若光がコマ家の第一祖だということもチョン切られた系図からは判定はできない。その長子の家重から系図がはじまるが、家重がコマ家の第二祖だというような番号も系図には示されていないのである。若光の先にも誰かがいたかも知れない。
【中略】
 コマ村にも多少の興亡はあったようだが、概ね小ジンマリと無事今日に残っているらしい。その原因の一ツは、コマ村だけは始めから地下に没せずに表向きコマ村で有り得たことにもよるようだ。だがナゼ、表向きコマ村やコマ家で有り得たのだろう。そのナゼは系図の前部がさき去られているので今日では判然しない。
 しかしそのコマ家にしても一度は源平の争いからまぬがれることができなかった。そしてそれをきりぬけて残り得たのは、祖神を祀るコマ神社に仕え一生を修験道に捧げて半分山伏生活をしていたせいだと系図は語っているのである。
 けれども祖神を祭る大神社をもち大民を擁する宮司家や大寺はそのためにむしろアベコベに兵火をうけ易かったものである。それは彼らが広大な荘園をもって繁栄し兵をたくわえる力があったからであるが、それに比べると、コマ家はすでに中世に於て兵をたくわえる力を失い、そのコマ神社も大神社ではなかったせいであろう。宮司が代々修験道に帰依し半ば山伏ぐらしをしていたというのも、この一族のいかにもノンビリと、また小ジンマリと名利〈ミョウリ〉を超越していた暮しぶりが分るようで、それは中世に於てはじめてノンビリと小ジンマリとしたわけではなくて、ここに集ってコマ郡をたてた時から地下に没する必要のない孤立性を具えて、はじめから小ジンマリしていたのではないかと思う。
 つまり中央政権を争う人々は日本を統一しての首長でなければならないから、コマやクダラやシラギの人ではなく、日本人になる必要があった。またそれぞれの首長に所属する臣下の人々も日本渡来前の国を失う必要があった。
 ところが日本に渡来土着しながらも敢てコマ人を称しておった一千七百九十九名というものは、敢てコマ人を称する故に、却って誰よりも日本の政争から離れた存在であったとも考えうるが、その辺は何ら所伝がなく系図も破られているから見当がつかないのである。
 彼らがこの地へ土着するにはすでに仏教をもってきた。勝楽という師の僧が共に土着したことは系図によって知りうるのである。
 またこの村の伝説によると、コマ王若光は老齢に至って白髯〈シラヒゲ〉がたれ、ために白髯サマとしたわれたという。彼を祀ったコマ神社は白髯神社の宗家でもある。
 だが白髯の人物については系図は何も語っていない。そして破り去られた部分に、そのことが有ったかどうかも分らない。
 コマ村の成立と前後してシラギ僧が関東各地に移住土着していたのは史書に見ることができる。浅草の観音サマはすでにその頃から在ったようだが、その縁起がアイマイ・モコたるところから、また寺の創立者の人名にヒノクマとあるところから、百済の聖明王が欽明天皇に伝えた仏教と別系統に、帰化人の誰かが私人的に将来し崇拝していたのが起りだろうとも考えられているようだ。それも有りうることである。
 コマ郡の成立とても霊亀二年〔七一六〕とあるが、それは他の七ヵ国から一千七百九十九名をここへ集め移した時の話で、ここにそれ以前からコマ人の誰かが住んでいたかも知れない。
 だいたい七ヵ国から二千名ちかいコマ人を一ヵ所に集め移すからには、その土地に彼らとつながる何かの縁があるからだろう。コマ郡と称したのはその後のことだが、古くからコマ人に縁故の地であり、すでにコマ人が住んでいたと見ても突飛な考えではなかろう。
 しかし、それがどのような縁故の地であり誰が古くから住んでいたかということは、これも全然分らない。
 コマ家の系図の破りとられた部分に何が書かれていたか。今日これを知り得ないのが、まことに残念である。系図の残存の部分の記載が信用しうるもののようであるから、破り棄てられた部分が甚だ惜しいのである。
 コマ神社の起源については系図の語る通りのようだ。屍体を城外に埋めたこと。そして埋めた場所はむかし神殿があったという境内の山上で、そこが古くから墓所と伝えられていたそうだ。勝楽寺の若光墓は供養塔か、他のコマ王か、又はほかの何かであろう。
 その頃の城とか御殿というものは山上山中になくて、川の流れにちかい平地の中央か、せいぜい小高い丘の上ぐらい。飛鳥でも藤原京でもそうだし、蘇我入鹿のアマカシの丘の宮城と云ったって、平地とほぼ変りのないちょッとした高台にすぎない。
 屍体を埋めた城外が、いま獅子の舞う山上だということも、当時の例からは一番普通と見てよろしいようだ。
 その山上の広場はせいぜい三百坪ぐらい、ホコラの前の地面をのぞいて概ね熊笹が繁っている。
 獅子やササラッ子などに扮した青年や少年たちは山上で一舞いして神霊をなぐさめ、しばらく扮装をといて休憩して、これより山下の神社へ降りる。さて再び扮装をつける前に熊笹の中へわけこんでノンビリと立小便の老人、青年、少年たち。熊笹の下に祖神のねむることを知るや知らずや。しかし、ここの神霊は決して怒りそうもない。実にすべてはノンビリとしている。ここの山上まで見物に登っているのは、私たちのほかに女学生が三四名いただけであった。

 高麗神社の例大祭は、曜日にかかわりなく、毎年一〇月一九日におこなわれるという。したがって、坂口安吾、檀一雄らが高麗神社を訪れたのは、一九五一年(昭和二六)の例大祭の前日である一〇月一八日、および例大祭当日の一九日ということになろう。

*このブログの人気記事 2017・11・24

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坂口安吾、高麗神社の系図を見る(1951)

2017-11-23 04:39:59 | コラムと名言

◎坂口安吾、高麗神社の系図を見る(1951)

 坂口安吾の「高麗神社の祭の笛」という文章を紹介している。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 獅子は舞いながら太鼓をうつ。この太鼓が笛の悲しさに甚しくツリアイがとれている。その響きが一間〈イッケン〉か一間半ぐらいで、急にとぎれて吸われて、なくなるような、厚い布地をかぶせて太鼓をうってるような鈍い音。
 普通の獅子舞いは、獅子と太鼓は別人がやる。獅子は面を頭上にかざして口をパクパクやるために両手を使うから、太鼓をうつことはできないのである。
 この獅子は頭上に獅子をかぶり、顔の前面には長いベールを垂らしている。グッとそッくりかえったり、前かがみになってタテガミをふったりしながら、片足を踏みあげて、太鼓をうつ。獅子は腹部に太鼓をぶらさげ、自分でそれを舞いながら打つ。
 赤青黒の三人の獅子。その足の捌き〈サバキ〉や、身の振り方はやや日本化しているが、それは彼らが自然に日本人に同化するうちに巧まずして多少の影響をうけただけのことで、その本来の骨法〈コッポウ〉はまったく日本の現実に何の拘り〈カカワリ〉もないことが分る。支那風でもあるが、蒙古風と云うべきかも知れないな。
 舞いは二匹のオス獅子が一匹のメス獅子を取りッこするのを現しているのだそうだが、それにふさわしい勇ましさも陽気さもなく、ただ物悲しく単調な笛であり太鼓であった。
「祖神の霊をなぐさめるとでもいうのかなア。ところが陽気なところが全然ないからなア。荒々しく悲しく死んだ切ない運命の神様を泣きながら慰めているのかなア」
 私がこう呟くと、
「まったく、そうとしか考えられない」
 檀〔一雄〕君も腕ぐみをして考えこんでいるような答えを返した。
 私がコマ村のことで第一番に皆さんにお知らせしたいのは、この笛の音なのだが、音を雑誌に出せないのが痛恨事です。ただ、
「もういいかアーい」
「まアだだよーオ」
 という隠れんぼの呼び声に他のいかなる音よりも似ていることは確かです。
 ところが、この獅子舞はメスの獅子をオスの二匹が取りッこするというけれども、実は隠れたメスを探しッこするのである。つまりやっぱり隠れんぼである。
「もういいかアーい」
「まアだだよーオ」
 という隠れんぼの呼び声は今や全国的であるけれども、その発祥は武蔵野で、武蔵野界隈にだけ古くから伝わっていたにすぎないもののようだ。この獅子舞、笛の音と、ツナガリがあるのではないでしょうか。私はひどく考えこんでしまいましたよ。
 まもなく中野君が若い神官をともなってきた。宮司が不在でその息子さんであった。私たちは若い神官にみちびかれて社務所へ招ぜられた。系図を見たのはこの日である。
 若い神官は、非常に正確に物を考え、正確なことだけ語ろうと常に心がけているようだった。それは教養の高さを示し、この奇妙な歴史をもった村で、新しい教養を見るのがフシギなような、しかし好もしいものであった。
 系図や大般若経の写本や昔の獅子面などを見せてもらったあとで、コマ神社の歴史についての薄ッペラな本などを貰いうけ、
「写真屋をつれて、また明日、出直して参ります。だが、あの笛の音は写真にはうつらないからなア」
 と私が思わず呟くと、若い神官もなんとなく浮かない面持で考えこんで、
「この村の誰かが録音機を買ったという話ですが……」
 と、村の誰かの名を云った。この村で、誰が何用に録音機の必要があるのだろう、と、私は思わず事の意外さに笑いがこみあげるところだった。
 まったく夢を見るような一日であった。フシギと云えばお伽噺〈オトギバナシ〉のようにフシギであった。一年にたった一日のお祭りのその前日の稽古に行き合わすとは。
「正月の十五日にお祭りはないのですか」
 ときいてみると、
「正月十五日にはヤブサメのマネゴトのようなものをやるにはやりますが、お祭りは一年に明日だけです。むかしは九月十九日でしたが、養蚕期に当るので、十月十九日にやるようになったのです」
 との答えであった。尚、二月二十三日に祈年祭というのがある。この日附もコマ村ならば当然そうあって然るべき一ツのイワレが思い当るようだが、それは私の思い過しかも知れない。
 社宝の大般若経というのは、ここの子孫の一人が建暦元年〔一二一一〕から承久二年〔一二二〇〕までの十年間に下野足利〈シモツケ・アシカガ〉の鶏足寺で書写したもので、例年春三月に転読するのだという。そもそも移住の時から仏教と非常に深い関係があったこと、そしてそれは本地垂迹〈ホンジスイジャク〉神仏混合以前であることを特に注意すべきであろうと思う。鶏足寺とは妙な名だ。鶏足は鶏頭のアベコベだが、どういうイワレによる寺名であろうか。【以下、次回】

 この日、不在だった「宮司」というのは、高麗明津さん(五十八代宮司)のことで、その息子さんの「若い神官」というのは、高麗澄雄さん(当時、禰宜)のことであろう。
 また、「コマ神社の歴史についての薄ッペラな本」というのは、たぶん、高麗明津編『高麗郷由来』(高麗神社社務所)のことであろう。

*このブログの人気記事 2017・11・23(10位に珍しいものが入っています)

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坂口安吾、高麗神社を訪ねる(1951)

2017-11-22 01:52:12 | コラムと名言

◎坂口安吾、高麗神社を訪ねる(1951)

 先月から今月にかけて、坂口安吾の「高麗神社の祭の笛」という文章を紹介した。この紹介は、実は、まだ終わっていない。本日は、その続きの部分を紹介してみたい。
 引用は、『定本 坂口安吾全集 第九巻』(冬樹社、一九七〇)より。初出は、『文藝春秋』一九五一年(昭和二六)一二月号というが、未確認。
 前回、最後に紹介した箇所のあと、「*」による区切りがあって、次のように続く。

     *

 白髯〈シラヒゲ〉神社は武蔵野に多く散在しているが、一番有名なのは向島の白髯サマであろう。しかし白髯明神の総本家はコマ神社と云われている。
 私は武蔵の国コマ郡コマ村と、コマ神社の存在については以前から甚しく興味をもっていて、この新日本地理に扱うために、すでに今年〔一九五一年〕の二月コマ村を訪問しようとしたことがあったのである。
 なぜなら、私はこの神社の祭事は必ず正月十五日にあるだろうと信じていたからだ。道祖神系統の祭事はたいがい十五日だが、特に正月十五日が主流のようで、鳥追〈トリオイ〉だのホイタケ棒だのというのが行われるのもこの日取のころが多い。道祖神のようなものは蒙古には今でも同じような信仰があるし、コマ人は支那文化をとりいれて日本に土着するまでに相当に文化的扮装をとげているが、その基本の系統をさかのぼると蒙古までは間違いなく至りうるようである。それから更にチベットや中央アジヤの方向へさかのぼりうるかどうかは見当がつかないけれども、とにかく私は蒙古までつながりうるものと考え、正月十五日に先祖伝来の祭事があるのではないかと考えたのだ。そして、それを旧の正月十五日と考えた。そして今年の旧正月十五日にブラリとコマ村を訪ねてみようと思って予定を立てていたが、そのとき仕事に追われていたので、たった一日の旅行すらも不可能であった。
 しかし、これを天祐神助、祖神の導き、と云うのかも知れんな。旧正月に来なくて幸せでした。妙な偶然があるものだ。
 私はその二、三日石神井〈シャクジイ〉の檀一雄〈ダン・カズオ〉のところに泊っていたが、そこからコマ村まで近いから、でかけてみようじゃないかと一決した。旧の正月十五日を狙った場合とちがって、武蔵野散歩という程度の軽い考えであったが、たまたま文春の中野君がそれをきいて、
「それを新日本地理に……」
 と、泊りこんでのサイソクである。ブラリと散歩するだけでそんな材料が得られるかどうか分らないし、私がコマ村について知ってることはと云えば、古代史の記事と、白髯サマの総本家がコマ神社であることと、コマ村がわりあい後世まで結婚だったこと、行事習慣などに特殊なものがあるらしい、ということ。万事「らしい」程度の興味だけ所有していたにすぎないのである。
「まアいいや。飯能でヒル飯をくって、土地の物知りにきいてみようや」
 そこで檀君と中野君と私の三名、石神井から武蔵野を走ること電車で一時間、飯能についた。駅の広告に、
「天覧山麓、温泉旅館、東雲亭」
 とあったから、
「ヒル飯はあそこだ!」
 と、そこへ乗りこむ。大きな旅館だが、全館寂〈ジャク〉として人の姿がない。けれども、サッと酒肴を持参する。ノロマなところがない。
 山の芋だの、山の野菜、山の鳥や魚の料理で、海のもの、海の魚のサシミだのイセエビなどという旅館料理は現れない。オヤオヤ、大きなスイートポテトを持ってきやがったなア、と思ったら、これがサツマ芋の皮に入れてむした茶碗ムシ(芋ムシですかな)であった。土地の品々の料理ばかりで、皿数は少くないがいずれもポッチリで、酒の看で胃袋の空地をむやみに埋めたがらない酒飲みの心意気までよく飲みこんでいる。
「誰かコマ村を知ってる人はいませんかね」
 とたのむと、
「ハイ。私が知ってます」
 と云って、女中がパンフレットの類い〈タグイ〉を持参して現れた。
「あなたはコマ村のお生れか」
「いいえ、その隣りです」
「向う隣りですか」
「こッち隣りです」
「じゃア、飯能じゃないか」
「ハイ。そうです」
 よく出来ました、というところ。何扉〈ナニトビラ〉だか何教室だか知れんが、このへんは日本津々浦々、実にラジオの悪影響ならんか。コマ村のことは何をきいても全然知らんのである。
「あなたは、コマ村の何を知っているのかね?」
「ハイ。コマ村へ行く道を知っています」
 飯能の女中サンに完璧にからかわれてしまいましたな。
 自動車をよんでもらってコマ村へ出発する。飯能の女中サンに運転を御依頼したわけではなくて、タクシーの運転手もコマ村へ行く道については心得があったようだ。たった十分か十五分ぐらいの平凡な道である。
 出発がおそかったので、コマ神社に到着したのは、タソガレのせまる頃であった。
 社殿の下に人がむれている。笛の音だ。太鼓の音だ。ああ、獅子が舞いみだれているではないか。
 なんという奇妙なことだろう。
「今日はお祭りだろうか?」
 自動車を降りて、私たちは顔を見合せたのである。
 しかし、お祭りにしては人間の数がすくない。むれているのは概ね子供たちで三四十人にすぎない。だが獅子の舞いは真剣だし、笛を吹く人たちもキマジメであった。
「明日がお祭りだそうです。今日のはその練習だそうです。なおよく社務所へ行ってきいてきます」
 と、中野君は姿を消した。
 私は目をみはり、耳をそばだてた。私の心はすでにひきこまれていた。その笛の音に。なんという単調な、そしておよそ獅子の舞にふさわしくない物悲しい笛の音だろう。笛を吹いているのは六名のお爺さんであった。
 吉野の吉水院〈キッスイイン〉に後醍醐天皇御愛用のコマ笛があったが、それは色々と飾りのついた笛で、第一木製ではなかったような気がする。ここのはオソマツな横笛であるが、笛本来の音のせいか、音律のせいか、遠くはるばるとハラワタにしみるような悲しさ切なさである。
 日本の音律に一番これによく似たものが、ただ一ツだけあるようだ。それは子供達の、
「も・う・い・い・かアーい」
「まア・だ・だ・よーオ」
 という隠れんぼの声だ。それを遠く木魂〈コダマ〉にしてきくと、この笛の単調な繰り返しに、かなり似るようである。すぐ耳もとで笛をききながら、タソガレの山中はるかにカナカナをきくような遠さを覚えた。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2017・11・22

 

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軍権万能時代の現場査閲の実態(1945)

2017-11-21 06:41:17 | コラムと名言

◎軍権万能時代の現場査閲の実態(1945)

 昨日の続きである。森伊佐雄『昭和に生きる』(平凡社、一九五七)によれば、戦争末期のある日、中島飛行機株式会社尾島工場で、「査閲官」による現場査閲があったという。
 本日は、同書から、「査閲官」と題する節の前半部分を紹介してみたい(一五〇~一五一ページ)。

 査 閲 官

 昭和二十年二月二十二日 五時頃、眼をさましてみると、雪が降っている。牡丹雪である。
 出勤時には相当の積雪で、雪の少ないこの土地では大雪なそうだ。工場青年学校の査閲日である。工場の適齢工員が週に二回青年学校に召集され、青年学校令による教育をうけている。教官は予備の中尉で、その下に下士官級の軍歴を持つ指導員が五、六人いる。生徒は二百五、六十人くらいだろう。今日は師団司令部から査閲官がきての査閲だが、生憎〈アイニク〉の雪だ。終日、休みなしに降雪。一日の作業戦果は銀河の内翼、外翼、主桁、たった五台。ストーブの傍で女学生は勉強――といっても大半は本を読んだり、いたずら書きをしているのだ。私の工場における学徒動員の実態である。私たちは雑談である。午後から、査閲官の現場査閲がある由。いったい、査閲官の権限は単に青年学校生徒の査閲だけではないのだろうか。工場の作業状態をも査閲する権限もあたえられているのだろうか。きたついでの査閲などは甚だ有難迷惑である。軍権万能時代である。その現場査閲のためとっておいた三台の主桁を、四、五人の査閲補助官、工場長以下工場幹部を従えた中佐の肩章をつけた査閲官が工場巡視にきたとき、塗装しはじめた。場内に充満する塗料の臭気に、さすがの千軍万馬の軍人たちも工場内には入りかね、雪中を素通りした。軍服に日本刀を吊った、あのいかめしい査閲官も、まさか私たちが一日ストーブにあたっていて、その巡視時の二、三十分だけ忙しそうに機械を回転させて作業したとはご存知あるまい。旺盛なる勤労意欲に満足したことだろう。【以下、略】

 徴用や学徒動員で、多くの人員を集めた軍需工場の実態がこれである。要するに、この時期、設備や人員に見合う「原材料」が涸渇していたということだろう。
 しかし、軍による「現場査閲」は、あいかわらず実施されている。工場としては、それにそなえて、現場査閲用の半製品を用意して置かざるを得ない。まさに本末転倒であるが、これが軍権万能時代の軍需工場の実態だったのである。
 さて、今日誰が、こうした戦中の実態を哂えるだろうか。言いたいのは、当然、日産・スバルで起きた「新車無資格審査問題」である。すでに形骸化した「完成車検査」のために、国土交通省による「現場査閲」の際に、無資格審査員を「正規審査員」と装った自動車会社がある。まさに、官権万能時代における自動車会社の実態と言わざるをえない。

*このブログの人気記事 2017・11・21

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