礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

赤尾敏、「親米反共」を説く(1975)

2017-11-15 04:50:21 | コラムと名言

◎赤尾敏、「親米反共」を説く(1975)

 最近、ふと思いついて、島津書房編『証言・昭和維新運動』(島津書房、一九七七)という本を手にとった。いろいろと学ぶところがあった。たとえば、赤尾敏〈ビン〉の「親米反共」論、野村秋介〈シュウスケ〉の「従属国家」論などなど。
 本日は、同書第二部にある「『維新運動』を語る――赤尾敏・津久井龍雄・猪野健治」から、赤尾敏(一八九九~一九九〇)の発言を紹介してみよう。これは、三者による座談会の記録ないし、猪野健治氏による聴き取りの記録で、『愛戦』の一九七五年(昭和五〇)一月号が初出である。司会は、猪野氏がつとめている。

 司会 そのあたりに昭和維新の挫折の原因あり――ということですね。
 ところで、話は戦後の右翼運動にとびますが、右翼は日本の敗戦というものをどのように乗り越えたか、という問題があると思うんです。たとえば、大戦中「鬼畜米英」だったのが、敗戦後は「親米反共」になった。反共は、右翼の重要な主張の一つですが、「鬼畜米英」が「親米」に移行したことを疑問視する人が多い、敗戦と同時につまり右翼におけるナショナリズムの問題です。ナショナリズムの立場からいうなら、勝者の米国に対して「親米」をかかげるという理論は、おかしいわけです。保守な人のなかにも、戦後の右翼にナショナリズムなし――という意見があります。こんなことを申し上げますと、おしかりを受けるかも知れませんが、その点、割りきれないものを感じるんです。サンフランシスコ条約についても、一方的な対米従属関係を強いられた条約だという考え方が左翼の側だけじゃなしに、リベラリストの間にもあります。しかるに右翼の側からの条約の批判や対米批判は皆無に近い。これでは、右翼じゃなくてただの反共じやないかという批判が出てきても……仕方がないように思いますが。
 赤尾 それはぼくに対する批判のようだな。ぼくは、演説会のとき、いつも星条旗と日の丸をかかげ、安保条約体制強化こそ日本の生命線だと大胆に主張してきた。そういうぼくに対して、右翼の一部は、赤尾さんの星条旗はいただけないと言った。ぼくにいわせれば、こういう批判こそ右翼小児病だ。なるほど正論をいうなら、右翼は、反ソ反共産主義であると同時に、反米――反自由主義でなくてはならんかも知れん。だが、現実に日本の国体を護持する上に、ソ連も米国も敵にまわしたらいったいどうなるんだ。日本は孤立無援――どうにもならんではないか。日本は敗戦によって軍隊が解体され、ハダカにされちやったんだからね。「親米反共」は、戦略の問題だよ。戦略は徹底しなくちゃいけない。
 司会 最近では、毛沢東まで日米安保条約は、日本のために必要だ、なんて言ってますね。
 赤尾 右翼の対米一辺倒、対米追従を非難することこそ、左翼の策動だと、ぼくはいうんだ。〔一九七四年〕九月にぼくは韓国に行ってきたんだが、韓国には、いたるところに星条旗と韓国旗が並んで掲揚されている。これは韓国のうしろだては米国だぞ――という北朝鮮に対する示威なんだ。当然、韓国民には、韓国のバックには米国がついていてくれるという意識がある。もし、韓国が「反米」の旗をかかげればどうなるか。北朝鮮の思うツボだ。
 米韓条約を廃止したらおしまいだよ。日本の戦後の平和と安全上は、だれがなんといおうが、アメリカの協力によって維持されてきたこの事実は否定できない。
 司会 先生の戦略論はよくわかるんですが一般国民が、それをどう受けとめるかは、また別だと思うんです。街宣活動の効率面からいっても、星条旗をかかげることはかえってマイナスという見方もありますが。
 赤尾 それは「木を見て森を見ず」だよ。日本では左翼勢力が圧倒的に強い。ぼくは、だから、街宣活動から星条旗をおろすことは左翼に対して一歩後退する結果になる、と考えている。
 日本は、国内革新の前に、力関係においてソ連、中共に大差をつけられている。その上米国を敵にまわすことはできない。
 ぼくは、維新運動を進める上で、国内的には、国体護持の基本原則をたてて、資本主義の矛盾を是正する施策を強くうち出すことにより、社会党、共産党のいう「革新化」を先どりする方向がもっとも妥当であると思う。
 国際的には中共、ソ連は原爆をもち、強力な統制国家だ。どうあがいても、日本単独の力では対抗しきれない。「反ソ、反米」というのは、言葉の上では、カッコいいかも知れない。けれども「反ソ、反米」で本当に中立が守られるのか。両方を敵にまわせば、日本は孤立するしかないんだ。そうでなくても米国は、いま日本から離れようとしている。安保条約も十年の固定期間をすぎて、どちらか一方が「解消」を宣言すれば、廃棄されることになっている。そういう情勢のなかで共産主義に対抗する道は、台湾、韓国と結んでアジアに反共共同戦線を築くしかないんだ。これがくずれたら、日本には革命が起こる。
【以下、略】

 四〇年以上前の座談会記録だが、読んで、改めて「時代の変化」を感じた。
 すでに、「ソ連」(ソビエト連邦)という社会主義国家は存在しない。中華人民共和国は、資本主義を受け入れた結果、アメリカと肩を並べる経済大国となった。赤尾敏が「圧倒的に強い」と述べた日本の左翼勢力は、今や見る影もなく衰微している。
 一方で、四〇年以上経っても、変わっていないものがある。そのひとつは、「親米反共」というイデオロギーである。それを支持する勢力は、四〇年前よりも、むしろ拡大していると言えるかもしれない。「ソ連」が崩壊し、中華人民共和国が資本主義国家に変貌したにもかかわらず……。
 かつては、そうした勢力の中心は、与党であり、また赤尾敏を筆頭とする右翼活動家たちであった。今日では、その勢力の中心は、与党、「日本会議」と呼ばれる政治的ないし宗教的組織、および「ネット右翼」と呼ばれる人々である。そして、「反共」の対象は、事実上、朝鮮民主主義人民共和国に絞られていると言ってよかろう。

*このブログの人気記事 2017・11・15

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『週刊現代』の「検査不正問題」記事を読む

2017-11-14 08:55:02 | コラムと名言

◎『週刊現代』の「検査不正問題」記事を読む

 一昨日、昨日の問題をもう少し続ける。
 昨日発売の『週刊現代』(二〇一七・一一・二五)を買ってみた。一昨日の新聞広告で(昨日の朝刊は休刊)、「日産・スバル・神戸製鋼『検査不正問題』が語るもの/正義面した役人たちに日本の会社が潰される」という記事に注目したからである。
 買ってみると、当該の記事は、全三ページの無署名記事で、リードには、次のようにあった。

 日本のモノづくりは地に堕ちた。製造業の根幹が崩れた。そんな悲愴な声が聞こえてくる。主に、霞が関のほうから――。危機が大きくなればなるほど好都合。役人たちがなにやら不穏なことを企んでいる。

 新聞や週刊誌の記事にありがちなことだが、記事は、識者・関係者のコメントで構成されており、記者独自の調査・考察といったものはない。しかし、記者の役割あるいは力量というのは、書こうとしている記事の意図に沿ったコメントをしてくれそうな識者・関係者を探し出し、彼らから、記事の意図に沿ったコメントを引き出すことにある。読者としても、もちろん、それ以上を期待してはならないのである。
 さて、前掲記事の冒頭において、東京大学大学院経済学研究科ものづくり経営研究センター特任研究員(肩書が長い)の吉川良三氏は、次のようにコメントする。

 国交省は「日本の信頼を揺るがす」などと言って日産の工場に立ち入り検査していますが、私から見ればこれは異常な光景です。まず有資格者による検査を求めていること自体、グローバル基準からは逸脱した過剰な規制。国際基準では無資格者による検査でOKで、現実として日産は問題発覚後も輪出用の自動車は従来通りに出荷しているんです。

 また、経営コンサルタント(元・カルビー社長)の中田康雄氏は、次のようにコメントしている。

 もともと日本の自動車産業では、安全性について過剰に規制がかけられています。国交省が古くからそのようにしてきたからで、車検制度ひとつとっても外国と比べてかなり厳しい。そもそも、車検制度そのものがない国もあるんです。

 一昨日のコラムで、私は、「そもそも新車に対し、なぜ『資格』を持った審査員(正規検査員)による審査が必要なのか。無資格の審査員が新車を審査しても、何ら問題は起きていないというのが、現状ではないのか。新車の審査そのものの意味が、すでに失われているということではないのか。」と書いた。あくまでも、素人の立場から、そのように推測したのだが、吉川良三氏、中田康雄氏のコメントを読んで、いま、その推測が見当はずれではなかったことを知った。
 さて、疑問なのは、日本の自動車会社が、なぜ、これまで、「グローバル基準からは逸脱した過剰な規制」を受け入れてきたのかということである。これまた、素人の立場から推測してみる。戦後しばらく、日本の自動車産業が未熟だったころ、日本の官僚は、自動車業界の意を受け、優秀な外国自動車の輸入を制限するために、様々な「非関税障壁」を設けたことがあったと聞く。その「非関税障壁」のひとつが、「初回車検」を含む「グローバル基準からは逸脱した過剰な規制」だったのではないか。つまり、この問題に関しては、自動車業界のほうにも、官僚に「弱味」を握られているところがあるのではないか。
『週刊現代』誌には、引き続き、この問題についての徹底した検証を期待したいと思う。

*このブログの人気記事 2017・11・14

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国家が自動車会社に初回車検を押しつけている

2017-11-13 04:42:11 | コラムと名言

◎国家が自動車会社に初回車検を押しつけている

 昨日のコラム「日産・スバル新車無資格審査問題のツボ」に、若干、補足する。
 一九九五年五月、経済学者の野口悠紀雄氏が、『1940年体制――さらば戦時体制』(東洋経済新報社)という本を出した。この本は、日本経済は、一九四〇年(昭和一五)前後に作られた「戦時体制」を、現在にいたるまで引きずっている、それから脱却することなしは、日本経済の再生は望めないということが説かれていた。当時、たいへんに話題を呼んだ本である(二〇〇二年一二月に新版)。
 今日になって考えると、この本の意義はふたつあった。ひとつは、「戦時戦後体制の連続」という視点を提示したことである。もうひとつは、これまで政府によって採られてきた企業への統制や労働者保護、あるいは高度成長期に形成された「企業文化」等が、「新自由主義」への移行を目指していた当時の政財界にとって、大きな負担になっていることを、政財界に代って訴えたことである。この本における著者の力点は、もちろん、ふたつ目、すなわち「さらば戦時体制」に置かれていたのである。
 野口氏のこの本から、やや遅れて、同年一一月、山之内靖〈ヤマノウチ・ヤスシ〉ほか編の『総力戦と現代化』(柏書房)という本が出た。この本の「編集方針について」の中には、次のような指摘があった(執筆は、たぶん山之内靖)。

 資本の活動が国境を越えてグローバル化し、そのことによって国民国家の権力基盤が動揺しているにもかかわらず、私たちの政治体制も経済体制も、総力戦時代に構築されたシステム統合という基本性格をいまなお抜け出してはいない。

『1940年体制』と『総力戦と現代化』の両著は、問題意識も異なれば、想定している読者も異なっていた。少なくとも後者は、新自由主義を肯定する立場に立つ本ではない。しかし、これら両著の間には、重要な共通点が、ふたつあった。その第一は、一九八〇年代以降の大きな経済的・政治的変動(社会主義圏の崩壊、資本のグローバリズム化、市場原理主義、新自由主義など)に際会したことを契機に、「その前」の時代を相対化し、客観視しようとしているということである。ちなみに、「その前」の時代とは、『1940年体制』においては「戦時体制」の時代であり、『総力戦と現代化』においては「国民国家」の時代ということになる。
 そして第二には、両著とも、「その前」の時代を、「戦時戦後体制の連続」という視点で捉えようとしていることである。山之内は、『総力戦と現代化』の「方法的序論」の中で、「第二次大戦後の諸国民社会は、総力戦体制が促した社会の機能主義的再編制についてはそれを採択し続けた」と述べている。これは、野口氏の認識と、基本的に、異なるものではない。
 さて、今回の「日産・スバル新車無資格審査問題」であるが、私見では、この問題のツボは、「戦時戦後体制の連続」にある。一九八〇年代以降、資本のグローバリズム化が進み、市場原理主義、新自由主義が跋扈し、様々な「規制緩和」が進行した。にもかかわらず、国土交通省が民間自動車会社に「初回車検」をゆだね、その審査員(正規検査員)の養成まで押しつけるというシステムが維持されてきた。この問題に関しては、二一世紀の今日まで、「戦時戦後体制」が温存されてきたと言うことができる。
 念のために申し上げるが、コラム子は、市場原理主義や新自由主義を肯定する者ではない。しかし、民間自動車会社に国家が「初回車検」を押しつけるような「国家統制」は、早急に見直す必要があると考えている。

*このブログの人気記事 2017・11・13

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日産・スバル「新車無資格審査」問題のツボ

2017-11-12 04:38:07 | コラムと名言

◎日産・スバル「新車無資格審査」問題のツボ

 今月一〇日の東京新聞「視点」欄に、「相次ぐ製造業の不正/現場の疲弊直視を」と題する論説が載った。筆者は、木村留美氏である。その最初と最後の部分を引用してみる。

 神戸製鋼所の製品データ改ざんや日産自動車とSUBARU(スバル)の新車の無資格審査と、製造業の不正が相次いで発覚している。その中身はそれぞれ異なるが、日本のお家芸であるはずのものづくりの現場で起きた不正は「偶然」では済まされない。
 自動車や航空機のアルミ・銅製品の性能データを改ざんしていたと説明した神戸製鋼の十月八日の記者会見は、納入先が五百社以上に及ぶ途方もない不正の連鎖の序章にすぎなかった。改ざんの理由を梅原尚人〈うめはら・なおと〉副社長は「納期や生産目標に対するプレッシャーがあつた」と明かした。
【中略】
 今回の不正で神戸製鋼は築いてきた製品の品質への信頼を一瞬で失った。そればかりか、他の企業の不正と相まって日本製品への信頼性まで揺らぎ始めている。経営者は「ものづくり」の将来を見据えるならば、限界に達している現場の疲弊に正面から向き合う必要があるだろう。 (木村留美)

 この論説は、その冒頭で、神戸製鋼所における製品データ改ざん、日産自動車・スバルにおける新車の無資格審査に触れている。しかし、それ以降は、もっぱら神戸製鋼にデータ改ざん問題についての論評である。
 木村氏は、神戸製鋼にデータ改ざん問題の背景に、深刻な現場の疲弊があると指摘している。まさに、その通りだと思う。しかし氏が、神戸製鋼所における製品データ改ざん問題と、日産自動車・スバルにおける新車の無資格審査問題とを、ひと括りの問題として捉えていることには異議がある。
 神戸製鋼所における製品データ改ざん問題は、その影響が深刻であり、影響が及ぶ範囲も広い。一方で、日産自動車やスバルが、新車の無資格審査を続けてきたことで、日産やスバルの欠陥車が市場に出回ったという話を聞かない。新車の無資格審査は、「製造業の不正」と言われれば、たしかにその通りである。しかし、そもそも新車に対し、なぜ「資格」を持った審査員(正規検査員)による審査が必要なのか。無資格の審査員が新車を審査しても、何ら問題は起きていないというのが、現状ではないのか。新車の審査そのものの意味が、すでに失われているということではないのか。
 ネットで、新車の無資格審査問題を論じている文章を検索してみたところ、【池原照雄の単眼複眼】「検査不正で想い起こした喜一郎氏の黒ずんだ指先」(2017/11/8)というコラムが見つかった。そこで、池原照雄氏は、次のように指摘している。

 今回の完成車検査の場合、型式指定制度によって1台ごとの保安基準への適合検査は自動車メーカーに委ねられており、大量生産を支える合理的な運用といえる。このため、監督官庁である国土交通省は、燃費不正の時と同様に「制度の根幹を揺るがすもの」(石井啓一国交相)と非難する。だが、民間に委ねた後の同省の監視機能は、不全状態だったということだ。

 これによって、今回、問題になっている「新車の審査」は、国土交通省が「民間」に委ねた「完成車検査」という位置づけであることがわかる。
 つまり、「新車の審査」というのは、車検制度の一種であって(池原氏は、「初回車検」という言葉も使っている)、本来であれば、これは、国土交通省が、みずからの職員によっておこなうべき手続きなのである。その手続きを、国土交通省は、「民間」つまり自動車会社にゆだね、審査員(正規検査員)を養成することまで、自動車会社にゆだねている。これが、自動車会社にとって、大きな負担をもたらしていることは言うまでもない。しかも自動車会社は、無資格の審査員が新車を審査しても何ら問題がないことを、よく知っている。だからこそ、こういう「不正」が生ずるのである。
 前掲の池原氏のコラムによれば、今回の「不正」問題について、トヨタ自動車の豊田章男社長は、「ルールというものは、絶えず(取り巻く)状況も変わる。国土交通省や自工会などで、より安心、安全を守る方法を探っていくべきではないか」とコメントしたという。婉曲な言い方ではあるが、豊田章男社長は、現行の「初回車検」制度について、見直しの必要があることを示唆したのではないだろうか。

*このブログの人気記事 2017・11・12(8・10位に極めて珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

犯人を同行する際は河岸や崖端を避ける

2017-11-11 04:32:58 | コラムと名言

◎犯人を同行する際は河岸や崖端を避ける

 小冊子『警視庁非常警備規程 警戒規定』から、「非常警戒従事員ノ心得」を紹介している。本日は、「(五)被疑者の同行」、「(六)報告連絡」、「(七)応召並引揚時ノ注意」を紹介する。
 引用は、基本的に原文の通りだが、漢字は現行のものに直してある。句読点は、段落の最後に句点(マル)があるほか、数箇所で、読点(テン)が使われている。カタカナの濁点は、(四)、(五)、(六)に関しては、ほぼ適切に施されていた。〔 〕内は、引用者による注である。

被疑者の同行
(1)同行ニ際シテハ更ニ身体捜検ヲ行フコト
理 由
犯人又ハ不審者ノ同行前〈まえ〉身体捜検ヲ怠リ又ハ之ガ精密ヲ欠キタルノ結果同行ノ途中ニ於テ危害ヲ加へラレ又ハ証拠物件ヲ投棄セラレタルノ例尠カラズ、故ニ不審尋問中一応身体ノ捜検ヲ了シタリトテ其ノ侭トセズ更ニ同行前精密ナル身体捜検ヲ行フノ要アリ。
(2)現行犯人ニハ必ズ捕縄〈とりなわ〉ヲ施スコト
現行犯人等ニシテ引致セラルヽ場合特ニ温順ヲ装ヒ逃走セザルコトヲ誓ヒ施縄ヲ免レントスルモノアルモ之等ノ多クハ逃走ノ余地ヲ作ランガ為ノ口実ニ過ギザルヲ以テ特別ノ事情存セザル限リ必ズ施縄スルヲ要ス。
(3)戎兇器及証拠物件ハ自ラ携帯スルコト
理 由
同行ノ途中ハ敏活ナル行動ヲ執リ得ル為尋問者ノ携帯品ハ可成〈なるべく〉被尋問者ニ
掲帯セシムルヲ適当トスルモ戎凶器又ハ証拠物件ハ同行者自ラ携帯スルヲ要ス、之レ危険ノ発生並証拠ノ隠滅ヲ防ガンガ為ナリ。
(4)同行ノ途中ハ先行セザルコト
理 由
同行ノ途中被同行者ニ先行スルトキハ逃走セラレ又ハ危害ヲ加へラルヽノ機会多キヲ以テ常ニ後方ヨリ適当ノ間隔ヲ保チ同行スルヲ可トス。
(5)同行時ニハ可成河岸崖端其ノ他危険ナル道筋ヲ避クルコト
理 由
河岸〈かわぎし〉又ハ崖端〈がけばた〉等ヲ同行ノ際犯人ヨリ打落サレ又ハ犯人自ラ河中ニ飛込ミ崖下等ニ飛降リ逃走ヲ企テタル事例尠カヲズ故ニ止ムコトヲ得ザル場合ノ外此等危険ノ場所ノ通行ハ之ヲ避クルヲ要ス。
(6)同行ハ可成人混中ヲ避クルコト
理 由
人混〈ひとごみ〉ニ紛レ逃走セラルヽ虞アルノミナラズ被同行者ノ体面ヲ重ズルガ為ナリ。
(7)被同行者ノ詐術ニ陥ラザルコト
理 由
犯人ハ往々ニシヲ同行ノ途中仮病ヲ装ヒ又ハ用便ヲ訴フル等凡ユル詐術ヲ弄シ逃走ヲ企テントスルモノナルヲ以テ仮令止ムヲ得ズ用便ヲ許スガ如キ場合ト雖モ扉ヲ開放シ厳重之ヲ監視スル等犯人ノ詐術ニ陥ラザル様注意ヲ要ス。
(8)汽車、電車、自動車等ノ乗降ニ注意スルコト
理 由
汽車、電車、自動車等ノ乗物ニテ犯人ヲ同行スルトキハ其ノ乗降時ニ間隙ヲ生ジ易ク逃走セラレタルノ実例モ尠カラザルニ付二人ニテ同行スルトキハ犯人ヲ挟ミ一人ニテ同行スルトキハ後方ヨリ犯人ニ接シテ乗降スルヲ適当トス。
(9)自殺ヲ企テラレザル様注意スルコト
理 由
同行ノ途中犯人ハ往々毒劇薬等ヲ嚥下シ又ハ其ノ他ノ方法ニ依リ自殺ヲ企ツル場合アリ故ニ同行前ノ身体捜検ニ際シ自殺ニ用フル物作等ノ有無ヲ細密調査スルハ勿論同行ノ途中ニ於テモ其ノ他ノ方法ニ依リ自殺ヲ企テシムルガ如キコトナキ様常ニ深甚ノ注意ヲ払フベシ。
(10)警察署ノ入口又ハ其ノ付近ニ到ルトキハ特ニ注意ヲ要ス
理 由
警察署ノ入口又ハ其ノ付近ニ到ルトキハ同行者ニ於テ緊張ヲ欠クノ虞アルニ反シ犯人ハ逃走センガ為手段ヲ講ズルノ虞アリ、従来此ノ種事例決シテ尠カラザルニ付厳ニ留意ヲ要ス。
報告連絡
(1)警戒員相互ノ連絡ヲ密ニスルコト
理 由
非常警戒其ノ他警戒ニ従事スル場合ハ特ニ警戒員相互ノ連絡ヲ密ニスルノ要アリ、即チ協力応援ヲ要スル場合ハ固ヨリ其ノ他相互ノ情報交換ニ依リ始メテ有効ナル警戒ヲ為シ得ルガ為ナリ。
(2)派出所当務員トノ連絡ヲ密ニスルコト
理 由
当務員ハ派出所ヲ中心トシテ活動シ派出所員ハ本署トノ連絡ヲ保チ常ニ其ノ指揮ヲ受ケツツアリ、之ニ反シ密行警戒員等通信機関ヲ有セザルヲ以テ派出所員トノ連絡ニ依リ本署並一般警戒員トノ連絡ヲ保タザルベカラズ殊ニ他ノ突発事件ノ発生ニ依リ警察力ヲ其ノ方面ニ集中スルノ要アル場合ノ命令伝達ニ当リ派出所員ト密行警戒員等トノ連絡ニ欠クルトコロアランカ其ノ命令伝達ニ支障ヲ生ズルヲ以テ常ニ派出所当務員ト連絡ヲ保持スルヲ要ス、但私服ニテ警戒ニ当ル場合ハ一般人ヲ装ヒ穏密〔ママ〕ノ間ニ活動スルモノナルガ故ニ必要ノ程度ヲ越へ派出所内ニ立入リ雑談ニ耽ルガ如キコトナキ様注意ヲ要ス。
(3)警戒中取扱タル事項ハ細大漏ナク監督員ニ報告スルコト
理 由
監督員ハ広範囲ノ状況ヲ知ル機会ヲ有シ之ヲ綜合シテ機宜〈きぎ〉ノ指揮ヲ為スノ立場ニ在ルヲ以テ警戒員ニ於テハ極ク些細ナリト思惟〈しい〉スル事項ト雖之ヲ監督員ニ報告スルトキハ之ガ意外ノ端緒トナルコトアリ、故ニ警戒中ノ取扱事項ハ如何ニ些細ナル事項ト雖之ヲ漏〈もれ〉ナク監督員ニ報告スルヲ要ス。
応召並引揚時ノ注意
(1)応召並就勤時ニ於ケル警察署ノ出入ハ表口ヲ避クルコト
理 由
多数ノ私服員ガ一時ニ警察署ノ表口ヨリ出入スルトキハ直ニ特種警戒ノアルコトヲ外部ニ感知セシムル虞アルヲ以テ応召ノ際並就勤時ニ於ケル警察署ノ出入ハ三々伍々而モ裏口其ノ他人目ヲ惹カザル場所ヨリ為スヲ適当トス。
(2)引揚時迄正確ニ指定ノ勤務ニ服スルコト
理 由
如何ナル勤務ト雖正確ヲ期スベキハ論ヲ俟タズト雖非常警戒等ノ引揚時ニ際シテハ動モ〈ややも〉スレバ密行又ハ張込ノ指定時間内ニ漫然帰署ノ途ニ就ク傾向アリ、引揚時(未明)ハ犯人ガ始発電車等ヲ利用シ逃走ヲ企ツル最モ重要ナル時刻ナルヲ以テ指定セラレタル時迄ハ必ズ正確ニ勤務シ猥リニ〈みだりに〉引揚グルガ如キコトナキ様厳ニ戒メザルべカラズ。

 若干、注釈する。(五)の(2)に「捕縄」という言葉が出てくる。これは、「ほじょう」とも「とりなわ」とも読めるが、文脈からして、ここでの読みは「とりなわ」であろう。 同じく(五)の(2)に「施縄」という言葉も出てくる。あまり聞かない言葉だが、縄を掛ける(捕縛)という意味であろう。読みは、たぶん、「せじょう」。
 さて、この「非常警戒従事員ノ心得」という文書だが、通達の年月日等は不明。ただし、これは、それ以前にあった「密行検索心得」という文書の改訂版ではないかと推察される。ちなみに、「警視庁非常警備規程並警戒規定制定ノ件依命通達」の「二十五」には、「昭和七年四月六日警衛示第十七号に基ク密行検索心得ニ依リ平素教養訓練ヲ行ヒ置クコト」という文言がある。
「非常警戒従事員ノ心得」については、さらに論じたいこともあるが、機会を改める。

*このブログの人気記事 2017・11・11(10位に極めて珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする