礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

元大統領暗殺未遂事件で思い出した映画

2024-07-16 02:58:25 | コラムと名言

◎元大統領暗殺未遂事件で思い出した映画

 トランプ元大統領の暗殺未遂事件(今月13日)には驚かされた。最初、銃弾が右耳を貫通したと聞いたので、右耳から入った銃弾が脳を貫通したのかと思ったが、そうではなく、右耳の上部を貫通したということらしい。
 狙撃犯は、大統領の右方向の高い位置から、元大統領を狙ったが、たまたま、元大統領が右を振り向いたため、銃弾は、元大統領の右耳の上部を貫通した。これは、狙ってできるようなことではない。トランプ元大統領は強運だったと思う。
 ニュースで、この事件を知って、あるアメリカ映画を思い出した。2007年公開のパラマウント映画『ザ・シューター/極大射程』である(アントーン・フークワ監督)。現職大統領が、近くの建物から狙撃されるが、銃弾がそれて、隣にいたエチオピア出身の大司教が死亡してしまう。
 大統領(元大統領)が狙撃されるが、銃弾がそれ、隣にいた人物が死亡しているところ、近くの建物にひそんでいた狙撃犯が、高い位置から狙撃しているところ、周辺のビルには、数多くの警備要員が配置されていたが、にもかかわらず、犯行を阻止できなかったところ、などで、共通点がある。
『ザ・シューター/極大射程』は、アメリカ映画が得意とする陰謀物である。映画としては、なかなか面白くできている。なお、今回の事件に「陰謀」がからんでいるのかどうかは、まだ何とも言えない。

*このブログの人気記事 2024・7・16(8・9位に、なぜか帝銀事件)

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民衆の恥知らずなしぶとさ、したたかさ、狡智

2024-07-15 04:03:56 | コラムと名言

◎民衆の恥知らずなしぶとさ、したたかさ、狡智 

 角川文庫『八月十五日と私』(1995)の紹介に戻る。本日は、作家・夏堀正元(なつぼり・まさもと、1925~1999)の「非国民二等兵」を紹介したい。ただし、紹介するのは、その「抄」である。

 非国民二等兵        夏 堀 正 元

 一九四五年八月十五日を、わたしは弘前陸軍病院の大滝温泉療養所で迎えた。秋田県の花輪線にある静かな山中の温泉場で、米代川〈ヨネシロガワ〉のほとりにある。大学時代、文学書や哲学書ばかり耽読していたわたしのなまくらな身体は、かつて〝八甲田山・死の行軍〟で知られた第八師団の猛訓練に耐えられず、重度の肋膜炎になっていたのである。学徒兵だったわたしは二等兵として酷使され、演習のほかに空襲に備えて連日のように不慣れな壕掘りをさせられて、とうとう発病してしまった。もっとも、古い三八式歩兵銃すらも不足し、ときには弾丸のでない模擬銃をもたされたことがあるから、猛訓練の演習といっても、どこか兵隊ごっこの感があった。そんなわけで、初年兵にとっての最大の仕事は、むしろ過酷な壕掘りにあったといえるような具合だったのである。
 わたしが弘前の部隊に入隊したのは、おなじ年の三月二十五日、そして六月中旬には発病して陸軍病院に入院する羽目になったのだから、甲種合格としては情ない話であった。だが、右肋膜炎は千五百CCの水を取ったものの、なかなかよくならず、その後もずっと熱がつづいて、米軍機による本土空襲が激しくなると、大滝温泉に移送されたのである。
【中略】
 それにしても、八・一五の敗戦は、わたしの確信ですらあった。その二年前の十八歳の日記に、こう書いている。
「この戦争は、絶対に負けなければならない。もしも日本、ドイツ、イタリアの枢軸側が勝利したら、世界は狂熱的なファシズムの毒を撒き散らす三つの獣性国家によって支配され、精神の自由は盲目の帝国のなかで圧殺されるだけである。いまこそ、精神の自由のために日独伊は負けるべきなのである」
 したがってその日、わたしは敗戦の事実を冷静な歓びのなかで受けとめていた。
 わたしが弘前の原隊に帰ったのは、それから半月後の九月一日であった。部隊はまだ解散せず、兵舎も、内務班の顔ぶれも元のままであった。
 しかし、わたしの身辺では、驚くべき変化が起った。「非国民!」「不良学徒兵!」「貴様なんか早く第一線にでて、くたばりやがれ!」とわたしを罵倒し、上靴で顔がみるみる変形するほど殴打をくりかえしていた班長をはじめ兵長、上等兵、古兵たちの態度が、掌〈テノヒラ〉を返したようにガラリと変ったのである。まだ微熱がつづいて、班内の所定の二等兵の寝床に横たわったり、坐りこんだりしているわたしに、彼らはまるで上げ膳据え膳の大サービスを始めたのだった。
 なかには、わたしの下着から褌〈フンドシ〉まで無理矢理脱がせた、いかつい顔の大男の兵長などは、そこにぎっしりとついているシラミとその卵を丁寧につぶし、ときには前歯でシラミを殺してくれたほどである。むろん、温泉でふやけたわたしの肌をところかまわず刺しつづけた南京虫退治もしてくれた。
 わたしは啞然とした。薄気味がわるかった。「いったい、どうしたというんですか」と、彼らの想像もつかなかった突然の親切の理由を訊いた。
「貴様は――いや、あんたは日本が負けると予言していた。それも八月なかばだ、と見事 にいいあてた。まるで神業だ。これからの日本は、あんたのような ひとのものだ。あんた は絶対に偉くなるよ」
 農民あがりの兵長は、ほとんどへつらいの色もみせず、ケロリとした表情でいって、ハ、ハ、と笑った。 
【中略】
 生れてはじめての屈辱的な制裁をわたしに加えたそのおなじ連中が、敗戦直後のいま、「これからは、あんたの世のなかだ」といって、わたしのシラミまで食いつぶしてくれている。彼らのほとんどは県下の農村出身者であり、商人であり、職人であり、サラリーマンであった。なかには銀座でバーテンダーをしていたというヤクザっぽい上等兵もいた。
 彼らはみな、わたしを殴ったことすらなかったかのように、平然と豹変した。時と場合に応じてあっさりと心変わりする人間というものが、ほんとうに怖ろしい生きものであると知ったのは、このときである。民衆はオポチュニストである、と切り捨ててしまうことは易しい。だが、彼らはオポチュニズムをとおして、あわよくばなんらかの権力を手に入れようとするエセ知識人とは違う。彼らは移ろう権力にたいして逆らおうとしないだけなのだ。褌や下着のシラミを取ってもらいながら、わたしは日本の民衆の恥知らずなしぶとさ、したたかさ、狡智に、頭をどやしつけられた思いだった。
 そのとき、わたしは一種の戦慄を覚えていた。それは人間(民衆)にたいする畏怖の念というべきものであった。これにくらべれば、粗野と卑劣と虚偽と喧嘩と醜悪が渦巻いている軍隊の、日常的な恐怖などは、どこかつくりものめいていた。【以下、割愛】

*このブログの人気記事 2024・7・15(9位は読んでいただきたかった記事、10位になぜか高木康太)

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木戸孝彦「南原繁先生と終戦の思い出」

2024-07-14 00:13:18 | コラムと名言

◎木戸孝彦「南原繁先生と終戦の思い出」

 角川文庫『八月十五日』を紹介している途中だが、本日は、木戸孝彦著『東京裁判と木戸日記』(独歩書林、1993)から、「南原繁先生と終戦の思い出」という文章を紹介してみたい。これも、「八月十五日」の話である。木戸孝彦(きど・たかひこ、1933~2000)は、侯爵・木戸幸一の次男。

   南原繁先生と終戦の思い出   「U・P」一九八二年一一八号所収/東大出版会

 昭和二十年八月十五日、正午、陛下の終戦に関する詔書をラジオで聞いた後、直ちに、私は東京大学の法学部長室に南原繁先生を訪問した。南原先生がしきりに陛下のお力でもって戦争は終結されなければならないと説いておられた通り、御聖断をもって終戦に至ったことを父幸一(当時、内大臣)の依頼で報告をするとともに、先生のお気持をうかがうためである。
 先生は、広島・長崎の惨禍は残念であったけれども、御聖断により終戦できたことは大変喜ばしく結構なことだったと述べられ、自分達の行動が少しでもお役にたったのではないかと喜んでおられた。そして終りに、今後の問題は「現天皇の御退位についてであって、その時期方法について慎重に考究されなければならない」と述べられたのであった。
 まだ学生であった私にとって、終戦ということさえ大事件であり、到底その先のことは頭に浮かんでいなかっただけに、南原先生から天皇御退位という重大問題を指摘されたときは、脳天を一撃されたような衝撃を受けたのであった。
 父は八月十二日より宮内省内に宿泊していたので、私は南原先生の天皇御退位についての意見を八月十八日に父を訪問した時に報告している。父がこの問題についてどのような話をしたか、今は定かに記憶していないが、『木戸幸一日記』(下巻)によれば昭和二十年八月二十九日の記事に、陛下との間で御退位の事について話が出ていたことが窺われる。
 終戦の詔勅の放送された直後、南原先生は既にその先の問題を考えられ、具体的に天皇退位ということにまで思いを致しておられたのであり、おそらく私に話をされたのは父へ伝えて欲しいからであったと思う。
 私が南原先生の謦咳〈ケイガイ〉に接したのは、昭和十九年半ばに陸軍を除隊し復学して、先生の政治思想史の講義に出るようになってからである。しかし個人的に親しくお話しするようになったのは、後述する如く、先生が積極的に終戦工作に取り組まれるようになり、私が内大臣をしていた父との間の連絡をすることになって以来である。
 父が終戦に関し具体的に考えを纏めだしたのは、昭和十九年の一月六日の日記に記載されている「独乙〈ドイツ〉の運命と其後に帰【ママ】る情勢に対する日本の対策について」のメモ以来である。
 昭和二十年になり、米軍の比島〔フィリピン〕上陸に始まる戦局の進展に伴い、父は終戦への工作を必要としながらも、当時の国内情勢からみて極度に隠密な行動が要求されているため、父の手足となって働いていただく人として、文部大臣以来国務大臣の間ずっと秘書官をつとめ、その当時は司政長官としてジャワにおられた是松準一氏に早急に帰国されるよう依頼したのであった。
 是松氏はそのころ最も安全と思われた阿波丸にシンガポールで乗船、帰国の途につかれたのであるが、同船は四月二十七日に台湾沖で米潜水艦により撃沈されてしまったのである。父は四月二十七日に太田耕造文相より是松氏遭難が確実との報を得て大いに力を落としたのであった。
 当時、私は三月七日より大学からの学徒動員として大船深沢海軍工廠〔横須賀海軍工廠深沢分工場〕に出勤していたのであったが、父より是松氏に代りできるだけ終戦工作の裏の連絡係をするよう命じられた。
 一方、南原先生と高木(八尺)先生は五月七日に内大臣府において父と会い、戦局について話し合っておられる。
 父と南原先生とはおそらくこの時が初対面であったと思うが、高木先生との関係は学習院時代以来の交遊関係にあり、特に父の弟にあたる和田小六叔父が東大工学部の教授をしていたこともあり、親しくしていた。
 父が内大臣に就任した以後は、対米問題についてしばしば高木先生の御意見を拝聴してきたのである。【以下、割愛】

 文中、「帰【ママ】る」というところがあるが、ここは、帰に(ママ)というルビが振られていた。たぶん、「於る」(おける)の書き誤りであろう。

*このブログの人気記事 2024・7・14(10位の霊気術は久しぶり、8・9位に極めて珍しいものが)

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日本人の多くは戦争すれば勝つと思っていた(つださうきち)

2024-07-13 02:47:50 | コラムと名言

◎日本人の多くは戦争すれば勝つと思っていた(つださうきち)

『八月十五日と私』(角川文庫、1995)から、つださうきち「八月十五日のおもいで」を紹介している。本日は、その四回目(最後)。

 ついでに書きそえておくことがある。十六日であったか次の十七日であったか、村の或る人が訪ねて来て、全く思いがけないことになって驚いている、これは一たいどういうわけなのか、あまりに意外な結末になって、だれもみな迷っている、どうして急にこんなことになったか、何か知っていることがあったら聞かせてもらいたい、という話をした。いや、わたしにも何もわからぬ、一般に国民はほんとうのことを知らされていなかったと思う、ただかなり前から、戦争をこのままつづけてゆくならば日本は破滅の外は無い、何とかして戦争をやめさせなくてはならぬ、ということを、一部の人々ではあろうが、考えていたことはたしかである、鈴木内閣の初めてできた時にも、そういう意味でこの内閣に望みをかけていた人たちがあったようである。わたしどもが新聞を見ているだけでも、戦争の大体の様子は想像せられた、それに最近には、総理大臣の告諭にもいってあるような新しい事情が生じたので、どうにもならなくなったらしい。しかしそういうことが無くても、つまるところ、こうするより外にしようが無いような有様になっていたであろう、こういう風な答をした。そうして更に、一部の軍人が満洲事変を起したそもそもの初から今日まで、日本は、してはならぬことをし、むりなことをして来た、むりなことをしてうまくゆかないから、ますますしてはならぬことをする、それが重なり重なって事変はむやみに大きくなり、そのはてはこんなことになった、勿論、事変を大きくしないように、ひろげないように、しようとした人たちが当局者の間にあったことは、いうまでもなく、その他にも、戦争をしたことを初からよくないと思って、心配していた人々も少なくなかった、けれどもそういう考やしごとは実際には力が無く、戦争は次ぎ次ぎに、思いもよらぬ方向に、ひろがってゆくし、戦争をしているという事実が大きな力となって国民を支配し、その多くは、日本人は戦争すれば勝つ、と何となく思っていたようでもある、いわゆる「大東亜戦争」となって後、日本の旗色が全体にわるくなって来てからも、しっかりしたあても無いことながら、何とかなるだろうという気もちでいたらしい。ところが戦争というものは妙なもので、戦争したことをよくないと思っている人、どうかすると、この戦争は徹底的に敗けるほうがよいくらいだ、さもなければ日本人の眼がさめぬ、などという場合さえあった人でも、戦争の調子がよいと幾らか安心し、日本軍がどこかで失敗したことがわかると快い感じはしないらしい、その上に、戦争をしている以上、何とかしてひどい敗けかたはさせたくない、という考も生ずるし、その間には、甚しい困苦にあいながら、或はいわゆる軍部または一部の軍人の横暴な行動や、軍隊の内部の腐敗や、気ちがいじみた宣伝や、そういうことに対して憤慨したり軽蔑したり反感をもったり、または困ったものだと心配したりしながら、なお純真なこころもちで、戦場にもその他の方面にもはたらいた人もある、学生などで召集せられた人たちの気もちにも、かなり複雑なものがあったと思う、しかし、もともとしてはならぬことをし、むりにむりを重ねたことであり、特に、全体からいうと、日本人の気風がすさんでも低調にもなっていたので、戦争が起ったのもひろがったのもつまりそのためであるから、戦況のよくなるはずはなく、前にいったように、かなり前から戦争はつづけられない状態になっていたと思われる、戦争が起ったのもそれがひろがったのも、複雑な事情のためであるから、日本の内部のことばかりでなく、外部のことをも考えなくては、ほんとうのことはわからぬが、日本だけについていうと、大体こんなありさまではなかったろうか、こういうような話を、一時間か二時間か、かかってしたようにおぼえている。
 それからもう一つ、その人が日露戦争の時に召集せられて出陣したといって、話がそのころのことに移ったので、日清戦争日露戦争と今度の戦争とは、その起った原因にも、戦争の性質にも、その時の政府や軍人の心がまえにも、大きな違いがある、ということをいったように思うが、あまり長くなったから、それはここには書かないことにする。ただこの二つの戦後の結果として合法的に日本が得たもの、世界のどこからも、長い間、その正当性が承認せられていたものを、今度日本が失わねばならぬようになったのは、戦争をして敗れたからであって、それを得たことに合法性正当性が無かったからではない、ずっと前の明治八年のロシヤとの条約で決定せられたことの合法性正当性が無くなるはずの無いことは、なおさらである、これは武力などを少しも用いず、平和な外交的交渉によって、きめられたことである、こういう話をしたことだけを、記しておく。
 その後には、村の人たちとこのことについて特に語りあうような機会は無かったと思う。どうなることかと心配していた人たちも、日が経つに従って次第におちついて来たようであった。わたくしもまた静かなこころもちで机に向うようになり、ひまひまには東山をながめたりキタカミ川の橋の上から鮎つり舟の幾艘も並んでいるのをおもしろく見たりするのを毎日の仕事にしていた。
             *出典『世界』一九五〇年八月号

*このブログの人気記事 2024・7・13(8・10位は、ともに久しぶり、9位に極めて珍しいものが)

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陛下の御意志が現われていない(つださうきち)

2024-07-12 00:04:34 | コラムと名言

◎陛下の御意志が現われていない(つださうきち)

『八月十五日と私』(角川文庫、1995)から、つださうきち「八月十五日のおもいで」を紹介している。本日は、その三回目。

 以上の二つが、告諭を読んだ時のわたくしの感じのおもなものであった。政府が真に自己の責任を知っていたならば、その告諭に於いてこういうことはいわず、従って詔勅の形によって公布せられた公文書の内容も、その字句も、はるかに違ったものになったであろうと思われた。もしまた詔勅という名称に重きを置いて、それに陛下の御意志を盛りこもうとしたならば、他に適切ないいかたもあり、また他にもっと大せつなこともあったろうに、これでは陛下の御意志が現われていないのではないか、と臆測せられもした。陛下は道徳的にみずから責めて国民に謝せられる御考があるのではないかと思ったのである。(どういう人が筆を執ったか知らぬが、文章もまずいと思った。)もっともこれには、いわゆる軍部を抑え軍隊を承服させるための心づかいから出たところもあろうが、そういう心づかいをしなくてはならないような状態に軍部や軍隊を置いたことの責任は、やはり政府にあったとしなくてはなるまい。そうしてその責任を明かにすることが、何よりもこの場合には必要であると思った。
 東久邇宮内閣の成立についても、皇族に内閣を組織させることは、政治上の責任を広義に於ける皇室に帰することになる虞〈オソレ〉がある、と考えられるので、それをよいこととは感じなかった。いつであったか、まだトゥキョウにいたころに、戦争を早くやめるには、軍部を抑えねばならず、それには皇族族の力による外は無い、王政維新の時に皇族が朝廷の首位に立たれた先例がある、というような考が或る方面に生じているように聞いて、それは事情が違うと思ったことがある。維新の時のは、いわゆる朝権回復という思想の上に立ってのことであったが、今日軍部を抑えることは、彼等によってふみにじられた憲法政治の精神を復活させることでなくてはならず、そうして皇族が政治の局に当られるのは、この精神に背く嫌いがある、と思ったのである。皇族の力、それは結局皇室の力、によらなくては軍部を抑えることができない、というような考えかたは、皇室を利用して権勢を振おうとした軍部の態度と通ずるものがある。どれだけか前にこういう考えかたのせられたのは、当時の情勢に於いて已む〈ヤム〉を得ないことでもあったろうが、しかし今でもやはりそうであろうかと疑われた。
 以上は、十五日と十六日とにその時の感想を断片的に書きとめておいた覚えがきが少しばかり遺っていたので、それをたよりに、おぼろげな記憶を呼び起してみた、その概要である。後から知ったことや考えたことのともすれば顔を出しそうになるのを、できるだけおしのけたつもりである。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2024・7・12(9位の古畑種基は久しぶり、8・10位に極めて珍しいものが)

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