礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

政府は戦争の罪を国民に謝すべきである(つださうきち)

2024-07-11 03:44:27 | コラムと名言

◎政府は戦争の罪を国民に謝すべきである(つださうきち)

『八月十五日と私』(角川文庫、1995)から、つださうきち「八月十五日のおもいで」を紹介している。本日は、その二回目。

 放送せられた詔勅は、鈴木〔貫太郎〕総理大臣の告諭というものと共に、翌十六日の新聞で読んだと思う。詔勅というものは、そういう形式をもった一種の公文書であって、国務大臣の副署によって始めて成りたつものであるから、その内容についてはいうまでもなく、辞句についても、すべて内閣が責任をもつものであり、従ってそれは時の内閣の政策なり見解なりを示したものであると、前から考えていた。文体からいっても、何人かが特に執筆起草するものであることは明かである。今度の詔勅を陛下が御自身に放送せられるのは異例であったが、前の日の十四日の日づけで既に公布せられたことになっているから、詔勅という公文書としては、このことに大なる意味は無い。御自身に朗読せられる点に於いては、政府の政策の含まれている詔勅を議会で朗読せられるのと同じである。こういう考で新聞に載せられた総理大臣の告諭を詔勅と対照しながら読んだ。そうして政府の国民に対する態度について、いろいろの不満を感じた。その一つは、ずっと前から、どの点から見ても、戦争を継統することができなくなっていた事実、根本的にはいわゆる「大東亜戦争」、溯ってはシナ事変満洲事変を起したのがわるかったことを、率直に告白し、戦争の罪を国民に謝すべきであるのに、それをしないことである。告諭に新爆弾の使われたこととソ聯の参戦のこととがいってはあるが、そうなるまでに連戦連敗したことについては、ただ「戦争また必しも利あらず」という曖昧な一語があるのみであり、世界の情勢ソ聯の態度を今の内閣が見あやまっていたことについては、何もいってない。国民を欺瞞するといっては、いい過ぎかも知れぬが、この場合になってもなおこういう態度であるのが、むしろふしぎに思われた。却ってポツダム宣言の或る場所に於いて、政府がいうべくしていわなかったことをはっきりいってくれたような気がする。
 次には、すべては政府の責任であることを明かにせず、ともすれば陛下を表に立ててものをいおうとする態度のあることである。憲法の規定上、宣戦が詔勅の形に於いてなされたのであるから、戦争をやめるのも同じ形によらなくてはならないのであろうが、告諭に於いて、それを聖慮聖断によるとし、何ごとをも大御心〈オオミココロ〉に帰するのは、立場をかえていうと、開戦もまた聖慮聖断に出たものであり真の大御心であったとすることになりそうなのでこういういいかたは、戦争の責任が陛下にある如く、国民にも世界にも思わせることになるのではなかろうか。さすればこれは、これまでの軍部の手をかえ品をかえて宣伝したことの継続であって、「承詔必謹」というような語にもそれは現われている。後にいろいろの人の書いたものによって知ったことであるが、ポツダム宣言の受諾の最後の決定は、事実、いわゆる御前会議の際に於ける聖断によったのであって、総理大臣はそれについて自己の意見を述べず、聖断を仰いだらしい。もしそうならば、国民はこの聖断によって始めて救われたのであるが、しかし政治上のすべての責任をとらねばならぬ総理大臣の態度としては、これはその職責をわきまえざるもの、憲法の精神に背くものであろう。総理大臣としては閣議によってそれを決定し、そうしてその御裁可を仰ぐべきであったと思う。(裏面に於いてどういうことが行われていたかは、別として)。この御前会議の模様が、この日の新聞に見えていたかどうかは、おぼえていないが、多分、何ほどかの記事はあったであろう。しかしそれとは別に、告諭の文面の上から、上に記したように感じた。国体護持ということが特に強い調子でいわれているのも、このことと関聯して、異様の感があったが、これもまた戦争は国体の護持のためだという、敗戦になりかけてから特に強められた軍部の宣伝の引きつづきのように見られる。政府はポツダム宣言をうけ入れるにつき、聯合国に対して国体に関する申入れをしたということであるが、それは、戦争についてこういうことの宣伝せられていたことが、思い出され、少くとも政府や軍部の態度が、戦争を起したのは天皇の責任でありまた天皇と離るべからざるものであるかの如き印象を、聯合国に与えたのではないかと、それを気づかったからのことではなかろうか。もしそうならば勿論のこと、そうでなくとも、この場合、政府は内外に対し、この点についての誤解の無いようにするために、戦争をしたのは陛下の御志ではなく、また国体とは何の関係も無いことであり、全く政府の罪であることを明かにすることが、必要であるのに、それをせず、却ってこういうことをいっているのが、これもまたふしぎに思われたのである。聖徳の宏大をいい陛下の御仁慈をいうのも、ことさらめいていて、この場合のこととしては、ふさわしからぬ感じがせられた。【以下、次回】

 文中、カギカッコ「戦争また必しも利あらず」という部分があるが、これは、終戦詔書の不正確な引用であって、正しくは、「戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス」である。

*このブログの人気記事 2024・7・11(8位の石原莞爾は久しぶり)

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まあよかった、日本は破滅を免れた(つださうきち)

2024-07-10 04:53:33 | コラムと名言

◎まあよかった、日本は破滅を免れた(つださうきち)

 本日も、『八月十五日と私』(角川文庫、1995)からの紹介。本日は、津田左右吉(つだ・そうきち、一八七三~一九六一)の「八月十五日のおもいで」を紹介する。これは、何回かに分けて、全文を紹介したい。

 八月十五日のおもいで    つださうきち
 
 五年まえの八月十五日に戦争のやめになったことを知ったのは、イワテ県のヒライズミに於てであった。その年の六月の末からそこに立ちのいていたが、トウキョウにいた時で すら、戦争が実際どんなありさまであるかというようなことは、たしかには殆どわからなかったのであるから、ヒライズミにいってからはなおさらであった。ただこの東北の農村では、どこにそんな戦争があるかと思われるほどに、全体の空気がのんびりしているように見えた。戦闘帽をかぶっているものはあっても、ものものしい鉄兜などをしょっているものは無く、防空壕というようなものがそこらには見あたらなかっただけでも、いくらか気を軽くした。勿論これは、この土地のことをよく知らぬものが、外から見た一応の感じに過ぎないものであり、トウキョウとくらべてのことでもあるので、土地の人たちの一人一人についてよく聞いてみるならば、戦争のために受けているいろいろの苦しみがたれにでもあることは、わかったであろうがしかしその土地の或る人からも、戦争だというのに申しわけが無いほどのんきです、ということを聞いたことがあると思う。それでわたくしも、おちついてしかけたしごとを続けることもでき、中尊寺見物をしたり、雲がかかった り消えたりする東山の美しいながめに見とれたり、そういうこともできた。けれども、新聞やラジオであちこちの空爆が毎日報道せられ、本土決戦だとか、死中活を得るとか、竹槍をどうかするとかいう、気ちがいじみた宣伝が騒がしい調子で叫びたてられているのを、見たり聞いたりするだけでも、そんなことで日本をどうしようとするのかと、気が気でな いこころもちになることも多く、ほの聞いたことのある、早く戦争をやめさせようとする或る方面の人々の動きが、その後どうなったかと思うこともあった。そのうちにソ聯が日本に対して宣戦したという噂が伝わった。散歩の途中で或る人からはじめてそれを聞いた時には、ほんとうかどうかわからない気がした。いよいよほんとうだとわかった時には、どうしてだしぬけにこんなことをすることができたのかと、ソ聯のやりかたに驚きもしたが、またそれがソ聯のやりかただとも思われた。それには他からのはたらきかけもあったであろうが、そのことがソ聯の思うつぼにはまったのであろうと想像せられた。内地では 空爆がますますはげしくなって来た。ヒライズミのようなところでも、爆撃をうけてかなりの数の家が焼けた。たしか八月の十一日か十二日のことであったと思う。トウキョウの大空爆にあっているのだから、これにはさいて驚かなかったが、あちこちの都市のひどい爆撃をうけていることを思うと、またしても、政府は日本をどうするつもりかと思わずにはいられなかった。そこへあの十五日が来たのである。
 天皇陛下の御放送がありますと、二階の間がりをしていた家の階下から、その家の人が知らせてくれた。階段を下りて見ると、近所の人たちも幾人か集まっていて、頭を下げて聴いていた。放送はもう始まっていたのである。はっきりしないことがところどころあったが、大体の意味はわかった。終るとすぐに二階に上がって、すこしのうちはぽんやりしていたように思う。そうして、初めて明かに意識せられたことは、ほっとした気もちであ った。まあよかった、日本は破滅を免れた、という感じである。次には、なさけない日本のあわれな姿が今さららしく目に浮んで来た。さて戦争はやめることに決ったが、これからどんなことが起るであろうか。これはその時には全くわからず、見当もつかなかった。【以下、次回】

 文中、「トウキョウの大空爆にあっている」とある。津田左右吉が平泉に疎開したのは、1945年(昭和20)6月であり、それ以前、東京で同年3月の東京大空襲を体験している。

*このブログの人気記事 2024・7・10(10位に極めて珍しいものが入っています)

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やっぱり負けたらしい(田辺聖子)

2024-07-09 01:57:20 | コラムと名言

◎やっぱり負けたらしい(田辺聖子)

 角川文庫に、『八月十五日と私』(1995)という一冊がある。五木寛之・井出孫六・伊藤ルイなど三十一人の方々の「八月十五日」体験が載っている。
このあと、しばらく、そのうち何人かの文章を紹介してみたい。本日は、田辺聖子(1928~2019)の「日本降伏」を紹介する。ただし、紹介するのは、その一部のみ。

 日 本 降 伏        田 辺 聖 子

【前略】
 八月十五日、何だか重大放送があるというので、私は家にいた。
 学校工場で知り合いになった上村サンという、保健科の人が、前日に、『エスガイの子』 の感想文をもってきてくれた。見せて見せて、というので、私は見せたのだが、ちゃんと 終わりまで読んでくれたとみえて、しっかりした文章で批評を書いてくれていた。「説明 的になりすぎること」「王者エスガイの品格を出すために、一家の会話にも少し考慮を加 えてほしい」という堂々たる批評で、ほんとうにうなずけることばかり書いてくれていた。
 私はその手紙を読み返しながら、正午の、「重大放送」を待っていた。父も母も、弟も 妹もいた。
 生まれてはじめて聞く、天皇陛下の肉声が、雑音の多いラジオから流れた。
 現人神【あらひとがみ】であられる陛下が、お声をラジオを通じて国民に聞かせられる!
 ありうべからざる、異常事態である。
 何ごとがおこったのか?
 ただごとではない、と思った。
 いよいよ日本の国は最後のどたん場へ来たのか。自分と一しょに玉砕してくれ。
 そう、陛下はおっしゃるのにちがいない。本土決戦に突入してくれ。お前たちの命を私 にあずけてくれ。――共に死のう。
 そう、おっしゃるのに違いない。弟のノボルも、力んでそういう。
 むつかしい漢語のならんだ詔書を、陛下は棒読みで読んでいらっしゃる。
 大本営発表のニュースのような、あるいは軍人談話のような力づよい、押しつけがまし い声ではなく、やさしい、力を抜いたお声である。そしてやや昂奮されている。それに、 へんな、聞きなれないアクセントである。
「おかしいなあ……」
 と父はいった。
「降伏したみたいなこと、いうてはる」
「そんなはず、ないわよ!」
 と私とノボルは思わずいった。
「本土決戦やれ、いうたはるねん!」
 ノボルは父の言葉を遮った。
「まて。そやないような……」
「フシが、なさけなさそうですなあ」
 と母も、父に同意した。
「戦局必ズシモ好転セズ世界ノ大勢亦【マタ】我ニ利アラズ」
 という所は私にもわかった。
 何か、へんである。一億玉砕のお勅語ではないらしい。「共同直言に応ずる」というよ うなことをいっていられるが、その共同宣言が、どういうものか前もってわかっていない のでさっぱり意味がつかめない。しかし、
「朕【チン】ハ時運ノ趨【オモム】ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ビ難キヲ忍ビ以【モツ】テ万世【バンセイ】ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」
 とあるので、やっぱり負けたらしいとわかった。
「降伏やなあ」
 と父もいった。
「うーむ。負けたか。……全面降伏いう所やろうなあ」
「戦争おわりですか、そんならもう空襲もしまいですな、やれやれ」
 母が夜のあけたような声でいったが、私はまだ本当と思えず呆然としている。
 何ということだろう。本当と思えない。私は日記に書いた。
「我ら一億同胞胸に銘記すべき八月十五日、嗚呼【ああ】、帝国は無条件降伏を宣言したのである」
【以下、割愛】

 当時の田辺聖子は、17歳で、樟蔭女子専門学校国語科に在学中だったという。

*このブログの人気記事 2024・7・9(10位に極めて珍しいものが入っています)

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満州語のumeは日本語のユメと音義・用法が似ている

2024-07-08 00:24:27 | コラムと名言

◎満州語のumeは日本語のユメと音義・用法が似ている

 昨日に続いて、山中襄太『国語語源辞典』(校倉書房、1976)の紹介である。
 本日は、ふたつの項目を紹介させていただこう。

えびら【菔】 矢を入れて背負う具。[考]大言海は,蚕を飼うカゴを意味するエビラの ように,もと竹で編んだので,エビラヤナグヒといったを,略してエビラといった語だろうと説明している。そしてそのエビラについては,葡萄葛(エビツラ)の略で,もと葡萄の蔓で作ったものかという。しかしこの説明は,どうもうなずきがたい点がある。満州語にエビラとそっくりのjebele(エビレ,矢筒)という語があるのと関係があるのではなかろうか。満州語の史書「満文老檔」(I,p.443)に,beri(弓)jebele be(矢筒を) beye ci (身から)ume hūwakiyara (ゆめ離すな),「満州実録」(p. 282)に,jeb ele(矢袋),beri (弓),niru(矢)など。〈110ページ〉

 最後に、『満文老檔』(まんぶんろうとう)という史書から例文の引用がある。満州語のことはよく知らないが、これを見ると、満洲語の語順は、日本語と同様である。しかも、満洲語の「ume」は、日本語の副詞「ゆめ」とよく似ている。
 そこで次に、「ゆめ」を引いてみた。

-【努力,努,勤】 大言海――斎(イ)めノ転音。類書纂要「努力,用心也」。強ク禁止スル意ヲ云フ語。物毎ニ斎ミ慎ミテ,何ニテモヒタスラニ其事ニツトムル。慎ミ務メテ。決シテ。神武即位前紀 「努力(ユメ)慎焉」万葉集7「佐保山ヲオホニ見シカド今見レバ,山ナツカシモ,風吹クナ勤(ユメ)」「努力(ユメ)疑フコト勿レ」「努力(ユメ)ナ怠リソ」。[考]斎(イ)メすなわち謹ミメ,注意セヨの意と解して,よく通じるようである。皇極紀4年4月に「慎矣慎矣(ユメユメ)勿令人知」,同6月に「努力努力(ユメユメ)急須応斬」とあるなど,謹ンデの意で,よくわかる。この語は,もとは肯定で結んでよかったのだが,後にはほとんど禁止で結ぶ習慣になったようである。偶然の類似か,関連があるかは未定だろうが,音義用法もよく似た umeという語が,満州語の史書「満文老檔」に,さかんにでている,たとえば――ulin be ume gūnire(財-を-ユメ-思うな)erdemu be gūni (徳-を-思え),bahara be ume nemisere (得る-を-ユメ-貪るな)tondo be nemse(正-を-貪-れ)(I, p.60)など。このumeにも,あるいは斎(イメ,ユメ)の義があるのか。別にまたumaiという形が,「満洲実録」(p.202)に次のようにでている―― muse juwe gurun (吾等-両-国)daci umai ehe aku bihe(始めから-ユメ- 悪く-なかった)。しかしumeという形は,さかんにでている。たとえば jui be ume wara(児-を-ユメ-殺すな)など。〈613ページ〉

『国語語源辞典』は、こういうふうに、たいへん興味深く、たいへん勉強になる辞典である。このあとも、折に触れて、項目を紹介してゆきたい。

*このブログの人気記事 2024・7・8(9位に極めて珍しいものが入っています)

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山中襄太の『国語語源辞典』を読む

2024-07-07 01:40:12 | コラムと名言

◎山中襄太の『国語語源辞典』を読む

 先月末、高円寺の古書展で、山中襄太の『国語語源辞典』(校倉書房、1976)を入手した。本文638ページ、函入り、定価8000円、古書価は200円だった。
 ときどき、拾い読みしているが、実におもしろい。以前から私は、この山中襄太という学者とその語源学は、もっと注目されてよいと感じてきたが、今回、この辞典に接して、その感を強くした。
 本日は、この辞典の紹介を兼ねて、項目のひとつを引用させていただきたい。

くる-ぶし【踝】 大言海――枢節(クルルブシ)の約。[考]―→くるくる(回転)。なおクルブシとは「クルクルするフシ」の意と解するよりも,「足のフシ」と解するほうがいいか。それはクルに近い音で「足,脚」を意味する語が,次のように多く見られるからである――アイヌ語 kiri;モーコ語 kul,köl,hul,xül;スメル語 gir;サンスクリット khura;ムンダ語 kuüri;タミル語 kal;メラネシア語 galin;インドネシア語 kaleianなど。くびす(踵)のクもあるいはこれらと関係あるか。〈206ページ〉

*このブログの人気記事 2024・7・7(8位のギロチン刑は久しぶり、9・10位に極めて珍しいものが)

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