「彼のことはもういうまでもないですよ」と
ラスコーリニコフはラズミーヒンをを指しながら、つけ加えた。
「彼も、屈辱と面倒以外、ぼくから何も受けていないんだ」
「おい、いいかげんにしろよ!今日はまたえらく感傷的になってるじゃないか、え?」
彼にもしもっと深く見る目があったら、そこには感傷的な気分などみじんもなく
かえってその正反対の何ものかがあったことを見ぬいたはずである。
(「罪と罰」(上)ドストエフスキー 工藤精一郎訳 新潮文庫 398頁)
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最近、寝る前に少しずつ読んでいます。
高校生の時に初めて読んだときは、ヒロインであるソーニャに注目して読みました。
殺人を犯した主人公を改心させる娼婦ソーニャはどれだけ魅力的なのか、
10代らしい関心を軸に読んだ記憶があります。
なかなか登場しないうえに決して美人ではないと描かれるヒロインに
なんだか肩すかしをくらったような気持ちになったのを覚えています。笑
大学生の時に読んだときはラスコーリニコフに一番関心を持ちました。
良心を理性で制圧する青年像にはどこか憧れるし、
荒みきった心が生む数々の傍若無人な振る舞いにある種のカタルシスを覚えました。
いいぞ、もっとやれ、我慢なんて要らない、思ったことを言いたいだけ言えばいいんだと
どこかで応援しながら読んだ記憶があります。
破滅ルートにある主人公を応援すると言うのもなかなか性格の悪い読者。
今読み返してみて思うのは、登場人物から受ける印象が昔とは全く違うと言うこと。
今でも冒頭に引用したようなシニカルな描写にはにやっとしてしまいますが、
ラスコーリニコフは幼稚な思想のただの精神病患者としか見えず、正直痛々しい。
ヒロインの存在は…どうでもよくなってきました。
多分、これで美人として描かれていたらもっと心が離れていたと思います。笑
今、気になるのはその他の人たち。
多くのロシア文学はライトノベルと同じでキャラの濃さが特徴的とされています。
この小説も然り。
キャラが濃い、欠点の目立つどうしようもないダメな連中がたくさん出てきます。
金、酒、欲に溺れた汚い大人がわらわらと。
でも、そういう連中が愛おしい。
世の中そんなに強い人間ばかりではないわけで・・。
まだ下巻に入ったところ。
一度読んだ本も時間を開けて読み直すと面白いですね。