もう昨年の事になりますが、1ヶ月ほど前にマスコミで盛んに取り上げられていた、天皇の特例会見の件について、少し感じている事を書きます。
当時私は、普天間問題と在特会の話題を追うのに手一杯で、このニュースにまで手が回りませんでした。そして、そもそもそれ以前の問題として、戦後も60年以上経ち、今の主権在民の平和憲法に慣れ親しんできた私にとっては、天皇なんて、はっきり言って「過去の人、ただの封建的残りカス、どーでも良い存在」でしかない。そんな、憲法上はただの「飾り」(シンボル)でしかない人の事で、何故マスコミがこれだけ大騒ぎしているのかが、全然理解できませんでした。そんな事よりも、普天間の問題や、年の瀬を前に「派遣切り」に遭った人の行く末の方が、よっぽど気がかりです。
勿論、このニュースのあらましぐらいは、私も理解しています。通常は30日以上前に事前にアポをとっておく慣例だったのを、小沢・民主党幹事長がねじ込んで(一説には中曽根が言いだしっぺだとも言われているが、それはとりあえず置いといて)、強引に中国副主席との会見を設定した。それを羽毛田・宮内庁長官が「天皇の政治利用」だと抗議し、それ以降、小沢との間で泥仕合が続いている、と。簡単に言えばそういう事でしょ。
まず、30日云々と言う慣例の妥当性については、ここではひとまずおいて置きます。私個人としては、何もそこまで杓子定規に拘る必要もないかと思っていますが。それに対して小沢は、怒り心頭になって羽毛田に噛み付いた。これも、何故そこまで拘るのか、私には理解できません。普通は「今回は30日前の締め切りが過ぎていますのでご遠慮下さい」「はい、分かりました」で済む話でしょう。それを何ですか二人とも、いい歳こいた大人が子どもの喧嘩みたいに。
確かに、ここまで見た限りでは、小沢のほうが分が悪い。たとえ慣例であっても、一応ルールはルールなのだから。世間でもそうでしょうが、面接の予約然り、クイズ番組応募の締め切り然りで。それを駄々っ子みたいにごねるから、「中国との間に何かあるんではないか」と、自民党や右翼から叩かれるのでしょうが。そして、あの小沢と中国の事ですから、実際「何かある」のでしょう。
小沢は、これらの批判に対しても色々言っていますが、私には言い訳にしか聞こえません。聞きようによっては旧態依然たる天皇制を批判しているかのような事も言ったりしていますが、要は自分が天皇のように振舞いたいだけではないですか。戦犯天皇とその皇太子(現天皇)も「小沢天皇」も、ともに非民主的存在である事には変わりありません。
その限りでは、「己の点数稼ぎの為に、天皇を政治的に利用した」という、自民党の谷垣総裁・石破幹事長や、共産党の志位委員長の指摘のほうが正しい。しかし、共産党は兎も角として、石破ブログの書き込みや、この問題で小沢・民主党叩きに回っている人たちの言い分を聞いていると、単に「天皇の政治利用だからケシカラン」というだけに止まらず、やれ「天皇陛下を政治利用するとは『畏れ多い』」だとか、「共産中国に媚を売りやがって」とか、高齢天皇の体調懸念(30日慣例の趣旨も元々はそれが理由だった筈)や「政治利用」とは全く別の動機で反対しており、それを誤魔化す為に「政治利用」云々を持ち出してきているだけにしか見えないのですが。
小沢のやっている事が天皇の政治利用なら、それを批判する自民党や右翼も、自分の都合の良いように天皇を利用している点においては、小沢と全く同罪です。
そして、私が最も腹立たしく思うのは、小沢を批判する側も、小沢を擁護する側(佐藤優など)も、どちらも「我こそが天皇陛下の事を一番慮っている、相手こそ不敬なり」と、まるで「天皇は神聖にして侵すべからず」の明治憲法下のような論理で、互いに相手の非をなじりあっている事に対してです。
主権在民の現憲法施行後60年以上も経ち、とうに21世紀に突入しているというのに、何を19世紀の「坂の上の雲」や、戦前の「天皇機関説」「統帥権干犯問題」の頃と変わらないような、時代錯誤で国民(主権者)不在の議論をしているのか。この国の主権者は未だに天皇なのか?
そもそも、天皇が、あくまで国の象徴として、政治的関与(政治利用)が禁じられているのも、元はと言えば、過去に軍部や右翼が、天皇の権威を嵩にきて暴走し、国民を侵略戦争に駆り立てていった事に対する反省から来ているのでしょう。そうであるならば、小沢も反小沢も、「我こそは忠臣なり、相手こそ不忠なり」といった論理で非難合戦に興じているのは、一体どういう事か。
更には、「そんな天皇を有難がって、慣例を捻じ曲げてまで特例会見に固執する中国って、一体何なのよ」という問題もある。かつて日本帝国主義の侵略を受け、それと戦う中から、革命によって建国を成し遂げた今の中国が、未だ戦争責任をきちんと清算していない日本の天皇(制)を、よりによって崇め奉り、自国の国威発揚に利用しようとしているのは、一体どういう了見に基づいているのか。
恐らく中国は、社会主義国としての人民連帯の建前よりも、自国の国益追求を優先したのでしょう。その事の是非については、ここでは問わない。それよりも、私が一番腹が立ち、かつ情けなく思っているのは、そこに至る中国政府の政策決定の中で、日本の世論が完全に見くびられた事に対してです。「日本人は、戦後60年経っても、相変わらず天皇やお上や米国言いなりの、人権意識の薄い、奴隷根性が染み付いた国民だ」「そんな国民に直接訴えるよりも、かつてマッカーサーがやったように、天皇を利用したほうが話が早い」と、中国は恐らくそう考えたのでは。そうでも考えない事には、こんな話なぞ出て来ない。
外国にそこまで見くびられているのに、「小沢民主党と中国による現在の天皇政治利用」と「自民党による過去の天皇政治利用」だけを問題にし、天皇制克服・清算の課題を最近はほとんど口にしなくなった共産党や、小沢に歩調を合わせて右翼・自民党による過去の天皇政治利用を非難するだけで、天皇制の見直し・清算には一切言及しない護憲リベラル・市民派も、「保身の為に天皇(制)と妥協しようとしている」という点では、小沢の天皇政治利用とも五十歩百歩ではないか(この点については、下記・金光翔ブログの指摘も参照の事)。無論、当事者たる天皇主義者(小沢・羽毛田・佐藤・自民党・右翼)に至っては、もはや論外ですが。
他方で、そう言いながらも、「本当に国民はそう思っているのか?」という思いも、今の私の中にはあります。何故なら、いくらマスコミ・自民党・右翼が「不敬バッシング」を煽っても、当の国民は「笛吹けど踊らず」で、意外と冷めているというのが、私の率直な感触です。寧ろ「白けている」といったほうが、近いかもしれません。
はっきり言って、この構造不況・恐慌下で、今日明日のやりくりだけで手一杯の一般庶民が、現憲法下において何ら政治的権能を持たない、ただの「籠の鳥」に対して、いちいち思いを馳せるほどの余裕があるとは、到底思えません。こんな「上げ膳据え膳」の「雲上人」の事に、いちいち付き合っていられるほどの余裕なぞ、到底あるとは思えません。マスコミや右翼のバッシングが怖いから、みんなそれを言わないだけで。
(参考記事)
・小沢幹事長、党が進める陳情のあり方を改めて説明(民主党)
http://www.dpj.or.jp/news/?num=17436
・天皇陛下と中国の習近平国家副主席との会見問題について 谷垣禎一総裁談話(自民党)
http://www.jimin.jp/jimin/hatsugen/hatsugen-232.html
・習近平・中華人民共和国副主席の天皇陛下との会見について(石破茂ブログ)
http://ishiba-shigeru.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-f538.html
・君、日本国憲法読んだことあるの、とは誰のことか(眞吾の時事通信)
http://www.n-shingo.com/cgibin/msgboard/msgboard.cgi?page=470
・羽毛田信吾宮内庁長官は尊皇のまこと心をもっているのだろうか?(佐藤優の眼光紙背)
http://news.livedoor.com/article/detail/4504076/
・天皇会見問題/政府の対応は憲法の精神をたがえたもの/小沢氏こそ憲法をよく読んで発言すべきだ/志位委員長が会見(しんぶん赤旗)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-12-16/2009121602_01_1.html
・天皇政治利用問題と天皇訪韓(金光翔ブログ>資料庫)
http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-26.html
中国共産党『天皇工作』秘録 城山英巳著 文春新書
皇室の問題では、私とプレカリアートさんではうまくかみ合わないでしょうからここでは触れませんが、中国共産党政府が皇室をどう考えてきたか、日本を本音ではどう考えているかは判りやすく書いてあると思います。プレカリアートさんは分かった上で書いているんでしょうが、少なくとも今の中国政府には、共産主義の理想も、国境を超えた人民の連帯の精神もないと思います。
しかし、その一方で、昔とは比べ物にならないほど、社会が右傾化・反動化しているのも事実です。例えば、田母神俊雄・中山成彬・平沼赳夫・城内実や、記事でも紹介した西村眞吾なんて、一昔前には見向きもされなかった人物です。そりゃあ、昔もそういう人は少なからずいましたが、世間的に注目を集めたのは石原慎太郎や三島由紀夫ぐらいで、後は赤尾敏クラスの「泡沫候補」ばかりでしたでしょう。
それに対して、「天皇も、実は靖国参拝や君が代強制を嫌がっている、A級戦犯合祀には反対なのだ」と、天皇の権威を逆利用する(実際はそれにひれ伏す)形で、右傾化・反動化に抗しても、全然抵抗にはならない。寧ろ、今の日米安保やグローバル資本主義体制の補完物として、天皇制が再利用されるのを側面から支える事にしかならない。そういう危機意識から、今回の記事を書いたのですよ。
私は共和制論者です。欧米の立憲君主制や今の日本の象徴天皇制ですら、「人の上に人を置く」という一点で、民主主義とは相容れない存在だと思っています。よく、英国・北欧の王室を例に引いて、政治的緩衝装置としての役割を天皇に期待する向きがありますが、これも先方には市民革命や人権思想の蓄積があるから、王権と民主主義が並存できているだけであって、別に王室が緩衝装置として機能している訳ではない。
ましてや、封建制が長らく続き、民主主義や人権の歴史の浅いアジアにあっては、王制なんて百害あって一利なしです。それは、今の中国の国家主席や北朝鮮の総書記が、昔の清や李氏朝鮮の皇帝のままであったら、一体どうなっているかを考えれば一目瞭然でしょう。今でさえあんなのなのに。
それに加えて、前天皇の戦争責任の問題もある。よく「あれは天皇を悪用した軍部の責任であり、天皇には罪はない、寧ろ天皇は終戦受諾で国民の命を救った」という意見がありますが、それは物事の一面にしか過ぎません。実際には開戦の詔勅を発しなければ戦争は回避出来たのにそれをせず、「降伏するにしても、もっと戦果を挙げてからでないと」と自己保身に汲々としていた前天皇の様子が、侍従長の日記にも残されています。
百歩譲って今の天皇制を残すにしても、この戦争責任の問題については、何らかの形で天皇家に責任を取らせるのが筋ではないか。日頃から、何かといえば直ぐに自己責任だの在日特権だのとほざく新自由主義者や右翼が、ことこの問題については一切スルーなのは、アンフェア以外の何物でもない。
そういう意見は、昔はもっと色んな論壇で議論されていた筈です。それがいつのまにか消え失せ、建前だけの「人間天皇」賛美一色となり、更に「人間天皇」にすら飽き足らずに「国家元首」にしようとする向きもいる。これを異常とは思いませんか?
今の諸政党の中では、共産党の対応が一番まともなのは、私もよく分かっています。自民党や民主党、小沢・羽毛田の対応なぞは、もはや論外です。それでも敢えて共産党にも苦言を申したのは、それだけでは必ずしも十分ではないと思うからです。
>百歩譲って今の天皇制を残すにしても、この戦争責任の問題については
「家」に責任など取らせるという考え方はむしろアジア的で個人責任を明確にすべき「犯罪」という問題を「親が悪人なら子も悪人」と決め付ける発想ではないか? むろん昭和は裁判にかけられるべきものでした。それも中国韓国が騒いでというよりも日本人の手で裁判にかけ罪を問うべきでした。ですが罪を問うタイミングを逸して昭和は死去しました。これは時効がなくても追及はおしまいです。天皇制廃止という機運は昭和の個人的寿命とともに遥か未来に持ち越しになりました。ネパールの王家に持ち上がった一件のような不祥事か、昭和の時代の侵略戦争とその挫折か、そのような事例があるまでは(そして侵略戦争を再び許すつもりは毛頭ない)誰が騒いでも天皇制は崩せないし、崩すべきではありません。あまりにも馬鹿馬鹿しい仮定に仮定を重ねた話なので、議論の俎上に載せるのも間違いです。
>そういう意見は、昔はもっと色んな論壇で議論されていた筈
確かに。そして昭和の生きている時代のことですね。なぜ昭和存命中に議論が繰り返され続けたかという話と昭和以後になぜそれが持ち出すべきではないのか、ということとは一体の問題です。
>建前だけの「人間天皇」賛美一色となり、更に「人間天皇」にすら飽き足らずに「国家元首」にしようとする
人間天皇いいじゃないですか。「国家元首化」は政治日程に上った差し迫った国論ではありませんね。
>それだけでは必ずしも十分ではないと思うからです
じゃ何を運動すればいいのですか? 成田空港建設問題をさして「軍事空港阻止から内乱へ」みたいに小沢発言を捉えて「「民主」の看板掲げた王党派を打倒せよ!」と革命近しと武装闘争でも始めますか(反語)
ここで話になっている昭和天皇の責任とは、昭和天皇の純粋な個人的行為というよりは、かつては大日本帝国の主権者としての天皇の責任でしょう。「人道に対する罪」には時効は援用されないという理論が主流になりつつあるのと同様に「戦争責任」にも時効は援用されないと考えるのであれば、昭和天皇の責任の責任は大日本帝国の法的地位を継受している現在の日本国家が負うべきだし、前天皇の地位を受け継いだ現天皇の責も「戦後責任」(戦争責任を負うべきという責任)については責任なしとは言えないと思うのですが。
そもそも、戦前も戦後も、天皇という地位には「祭祀王」という一面があり、神道その他文化的側面を通じて日本国民に対し精神的に少なからず影響を及ぼしている面があります。だから、こそ天皇に国政の権能を与えていない現憲法においても左派リベラルですら、「天皇陛下は日の丸・君が代の強制を望んでおられない」「天皇陛下は民主主義者だ」云々と、天皇を政治利用しようとするわけです。
この精神的影響という面を無視・軽視して、ただ単に現行憲法の字面だけを読んで、日本国憲法下の天皇を単なる民主主義的君主と位置付けることはできません。ある意味、天皇とはその性格ゆえ、成文憲法上の位置づけから「超越」した側面がある-少なくとも日本政治を長年牛耳ってきている保守派の大半はそう考えているでしょう。
修正資本主義者氏の天皇観は甘すぎます。
・参考書籍
原武史著「昭和天皇」(岩波新書)
ケネス・ルオフ著「国民の天皇-戦後日本の民主主義と天皇制」(共同通信社)
私が注目しているのは、現天皇が死去した後の天皇制の行方ですね。
昭和天皇は戦前の「大元帥天皇」から見事に「平和の人」にイメージチェンジし、国民に支持させる天皇制づくりに成功しましたし、現天皇も美智子皇后とともに「理想の家庭像としての天皇一家」というイメージをつくり国民から親しまれてきたわけです。
しかしながら、「次」はどうでしょう。皇太子一家は誰が見ても幸せそうではないですし。雅子妃は男児が産めないがゆえに「皇后の責務」が果たせないでいる。「祭祀」という面でも、秋篠宮夫妻の方が皇太子夫妻よりも遥かに熱心という説もあります。
戦後資本主義の中で地域・血縁共同体が解体する中、現天皇・美智子皇后夫妻は「皇室の伝統」を受け継ぎつつも、一方では愛し合う男と女が個と個で結びつき合う「現代的な夫婦像」「戦後民主主義的ファミリー像」を示してきた一面があります。
しかし、次の天皇は国民から支持されるようなモデルを提示できるのか。その如何によっては、今後の天皇制は案外脆いのではないかとも思います。保守論壇から「皇室の危機」が呼号されるのも、彼らなりの危機感の表出なのでしょうね。
まことさんの議論にはいつも解放同盟の「差別者vs被差別者」というドロドロした世界観の影をみてしまい、こういうメンタルにはおよそついていけませんね。
そして天皇は現憲法で政治的権能を有しない存在と規定されていまして何らかの政治的影響力を行使するような発言、行動は控えるべきであり、現天皇はこの部分をよく守っている故に問題が問題化することはないのであり、謝罪だ何だと政治的場面に天皇を持ち出すのが誤りというのが今回の事態の根本的な問題なのであって、小沢氏や宮内庁長官とまことさんはこの意味で同列です
だから私も、今の天皇個人は何ら問題にしていません。私が問題にしているのは、あくまでも、今もそういう形で、日本人の中に残る奴隷根性や政治的後進性を後支えしている、天皇制というシステムに対してです。
明治初期から百年近くに渡って日本がアジア・太平洋の近隣諸国にしてきた侵略行為に対して、今に至るも誰一人として、根本的な責任は取っていないじゃないか。言葉だけの謝罪でごまかし、「賠償」利権に群がるだけで。それを戦犯当事者本人が亡くなったからと言って、全てチャラに出来るもんなのですかね。戦争責任って、そんな甘いもんなんですかね。あの戦争で、一体どれだけのアジア人が殺され、日本人も犠牲にされたと思っているのか。
共産党のサイトをぐぐっていたら、こんな「しんぶん赤旗」の記事がありましたので引用します。
>〈問い〉 西松建設の中国人強制連行、強制労働にたいする裁判で最高裁がこの4月に「日中共同声明で裁判上の個人請求権は放棄された」と補償をしりぞける判決をおこないました。しかし、これで終わらせていいのでしょうか。貴党は戦後補償問題をどう考えていますか?(福岡・一読者)
>
>〈答え〉(前略)これについて、政策では―「国際法上、個人の補償請求権の問題は、国家間で解決することがこれまで通例となってきたことはたしかである。しかしそうではあっても、国家間の協定ですべての問題が包摂されえない事態や、協定の成立時には予想もしていない問題があきらかになることもある。…したがって、いったん協定が結ばれれば、それですべてが終わったとは言い切れないことは当然である。しかも、1968年に国連で採択された『戦争犯罪及び人道に対する罪に対する時効不適用条約』により、人道にたいする罪には時効がないことが、国際法上は明確になっている。また、66年の国際人権規約では、人権尊重が国の国際法上の義務とされ、国家とは別に個人が人権侵害にたいして国連に告発する道もひらかれている。すでに国家間で協定が締結されていることを理由に、人道上の犯罪の賠償を回避することはできない」とのべています。(後略)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-12-12/ftp20071212faq12_01_0.html
まあ、この見解は概ね妥当だと私も考えます。
そもそも、「時効」制度の目的には時間の経過とともに立証困難な案件で個人の責任が追及されることによる権利侵害を防ぐという<人権擁護>という一面もあります。が、この「時効」制度が得てして国家などが齎した重大損害を免罪化することがあるため、国家の責任-とりわけ「人道犯罪」は時効適用の対象外とするとの法理が定着し、戦争犯罪についても同様の説が有力になっています。
>個人に責任があるから近代的な法による訴追を受けるのであり
国家は法人でしょう?
戦争責任問題ならば、例え戦争を起こした当事者でなくても、戦後責任の不作為という責任は問われる場面は出てくるでしょう。
イデオロギー問題を含むこういった案件について「喫緊の政治課題ではない」などと訳知り顔で済ませて思考停止してしまっているようでは、少なくともまともなマルクス派にはなれませんよ。マルクスやレーニンは、課題が前衛党にとっての「組織的」な「政治」課題ではなくとも、個々のマルクス主義者に武装解除を容認するような態度は採りませんでしたからね。
「階級社会の支配的イデオロギー」との闘いは、組織的闘争を要する政治課題以外にも文化・イデオロギー領域で外せないことを「文化革命」の課題として定式化されています。
不破派修正主義者の主張の核心は、天動説の放任でありイデオロギー分野での自動成長(への拝跪)を左翼に蔓延させるものだろうねwww