東北アルパインスキー日誌 ブログ

東北南部の山での山スキー、山歩き、山釣りなどと共に、田舎暮らしなどの話を交えながら綴っています。

飯豊連邦 スキー登山の歴史

2006年04月12日 | 山スキー
             飯豊連邦ダイグラ尾根 2005.03 西俣の峰より

最近、飯豊連邦の山スキーはご無沙汰しているが、今度の春には実現したいと思っている。飯豊連邦は朝日連邦に比べアプローチにも恵まれ、3月~5月頃には多くの山スキーヤーが訪れている。3月頃でも1日で三国小屋に入れるという環境は山スキーヤーにとっては実にありがたい存在なのだろう。

このエリアは新潟、または会津山岳会を初めとするパーティーによって多くのコースが開拓され、尾根はもちろん沢筋も殆どトレースされ尽くしている感が有る。正月の厳冬期といえども全山スキー縦走がなされており、かなりハイレベルな記録が残されている。

しかし意外にも自分の身近にかなり貴重な記録を残した先輩方がいた。以前在籍していた仙台山岳会の先輩になのだが、今から36年位前の1970年頃、の3月、飯豊連邦横断の記録を残している。コースは水晶尾根を登って大日岳に登頂し、その後山からダイグラ尾根を下降したものだった。その間約3週間はオール雪洞、そしてスキーを使っての走破記録であった。

当時は東北大学山岳部が7回目の試みで冬の水晶尾根を始めて完登し、大日岳に登頂しているようだが、この記録はその直後に達成されたもので、冬の飯豊連邦の初横断記録だろうか?しかも下ったのはダイグラ尾根だからその価値はさらに高い。

その当時の社会人山岳会がどうしてこんな長期の山行が出来たか不思議だが、今となってもこれを実践できる人はそんなに居ないだろう。(元祖山屋フリーターだったらしい)当時のスキーは札幌秀岳荘の単板スキーだったようで、歩きの道具でありいざとなれば燃料となる代物だったらしい。

今では冬山登山の価値観、山行スタイルも大きく変わり、このような山行は過ぎた歴史の一コマという存在かもしれない。しかしその当時の熱い情熱と行動力は実に高く、とても今の我々にはマネの出来ないスケールの大きい山行だ。その後こういう先輩方が初期の社会人ヒマラヤ遠征隊を組織し、ネパールヒマラヤ未踏の高峰へアタックする原動力となっていった。

最近になってこの当時のSさんと再会するようになったが、この記録以外にもその後黒伏山南壁中央ルンゼの冬季初登攀、利尻山東稜厳冬期登頂などの記録を残している。今はまるで死語になった様な「パイオニアワ-ク」という言葉が光輝いていた時代だったのだろうと思う。今の我々から見ればある意味で幸せな時代のように思える。
コメント (3)
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