東北アルパインスキー日誌 ブログ

東北南部の山での山スキー、山歩き、山釣りなどと共に、田舎暮らしなどの話を交えながら綴っています。

黒伏山南壁 中央ルンゼ初登攀争い  No.4

2007年10月18日 | クライミング

【中央ルンゼ幻の初登攀】

1966年9月に実質的な中央ルンゼ初登攀が成されたが、実は1年前の1965年に意外なもう一つの初登攀が成されている。この登攀は記録には残っていないようだが、S氏によるとルートは中央ルンゼの風の踊り場より左側のフェースに取り付き、直上してから上部のハング帯下のバンドを右にトラバースし、中央ルンゼ核心部の垂壁部付近を突破してブッシュ帯に到達している模様です。

このパーティーは1965年の秋の呉田豊誠氏ら(仙台高校山岳部OB おろおろ会)で、現在では登られる事の無い幻のルートにより、中央ルンゼが攻略されたと見る事も出来ます。このルートの詳細は解りませんが、個人的な意見としては1977年7月にかつて自分がトレースした、ダイレクトルート上部のラインと重なっているのではないかと思っています。(途中で残置ハーケンは無かった)当時このルートを登って上部のハング帯に達したとき、中央ルンゼ方向に走るバンドには古びた鉄カラビナが有り、どうしてこんな所に有るのか不思議に思ったことがあった。なお、西川山岳会パーティーが昨年初登攀したルート「天の川」は一部ここと重複すると思われます。
叉はあまり現実的ではないと思うが、1972年9月に初登攀されている左削壁ルート(相沢昌一氏パーティー)を辿った可能性も有り得ます。以前、相沢氏に聞いた話によると、左削壁ルートには既に残置ハーケンが有った模様で、いったい誰が残したものかは解らなかったそうです。


                        黒伏山南壁 中央ルンゼ核心部の周辺

この方は衝立岩の雲稜第2ルート?を初登攀直後に再登するほどの実力者で、S氏によると当時この方に肩を並べる人は誰も無かったらしい。片手懸垂をこなしかつバランス感覚は抜群で、現在のフリークライマーに通じようなセンスと能力の持ち主だった模様です。しかし、彼は意外とこのルートに対しての執着心はあまり無かったようで、その後山頂のピナクルを目指す事も無く、また、冬季の登攀を試みようとする事もなかった。

【中央ルンゼ冬季の初登攀】

この中央ルンゼの初登攀を逃してしまい、悔しい思いで次の目標を冬期登攀に向けた人がいた。もちろん当時地元の山岳会で冬季登攀を行っている人は無く、首都圏のエキスパートでも一の倉沢レベルの冬季登攀者は数少なかったと思われるが、1968年12月に意欲的な第1回目の試登を行っている。このメンバーの一人が時々登場するS氏らで、1969年12月の第2回目試登記録が宮城教育大学WV部会報に載っている。この時は正月の寒波に見舞われ、分厚い氷と猛烈なチリ雪崩の攻撃にに会い、3人テラスに到達しただけで敗退したとある。この時はチリ雪崩と共に落下する氷にヘルメットが割れてしまい、次回からはヘルメットを2重に被る有様だったそうです。

しかし、この2回目の試登の時、黒伏山南壁の冬季初登攀を目指し、遅れてやって来たもう一つのパーティーがあった。このパーティーは、当時「渓谷登攀」というネーミングで岩と雪に記録投稿を重ねる県内の雪沓(ずんべ)山の会 で、以外にも目標は中央ルンゼには無く、3人テラスから左側のブッシュ帯に取り付き、ほぼブッシュ通しに山頂のピナクルを目指すものだった。ある意味では意欲的な冬季のルート開拓ともいえるが・・・。自分も一度無雪期にこのルート?を登った事があるが、残置ハーケンを3本確認しただけで殆どは垂直の木登り状態だった。

1970年12月、3度目の完登を目指してやって来たのは、仙台山岳会の創設者の今泉均氏、会員の佐々木祐二氏(S氏)、小坂勇二郎氏、土居忠氏の4名だった。しかし、キビタキの池に到着してみると意外なデポ品が有り、雪沓山の会のメンバーが今年もやって来る事をはじめて知った。ここで初登攀争いに火がついた様で、何が何でも最初にピナクルに立ちたいという思いだった様です。
12月29日に猛烈なチリ雪崩と氷の落下の中を直上ルートに取き付き、垂み入り口の難しい氷壁を突破してフィックスを伸ばし、困難な核心部を攻略して31日の真夜中に今泉氏、佐々木氏、小坂氏の3名が山頂のピナクルに達した。遅れてやって来た雪沓山の会のメンバー4名も1970年1月1日の翌日山頂に立ち、2本のルートからによるほぼ同時の初登攀がなされた。

登攀の様子はかなり苦戦した様で、夜間にはトップがアイゼンの火花を散らしながら墜落していったそうです。当時の写真を見ると頼りないチェスとハーネスに身を預け、軍手を絞りながら氷を叩き落して少しずつ攀じ登り、全身ずぶ濡れの様にして山頂に至った様子が伺えます。なお、この会のリーダーだった今泉均氏はその後1972年、当時は未踏峰だった、ネパールヒマラヤのランタン・リ(7205m)の単独試登を試み、帰らぬ人となりました。   合掌。

   
        故 今泉均氏               佐々木祐二氏

   
        3人テラス下?           核心部取り付きの雪壁

  
【黒伏山南壁メモリアルアルバム】

1974年12月30~1975年1月4日  海外登山研究会 9名

ヒマラヤ遠征のトレーニングの為に中央ルンゼを登攀。核心部上部までトップを勤めたが、遅れてフィックスロープを上ってきたメンバー3名とチェンジさせられ、冬季第3登を逃してしまった悔しい山行。20歳で最年少メンバーだったが、その後冬季の中央ルンゼをトライするすきっかけを失ってしまった。
当時は肩がらみで確保していた為、トップを確保しているザイルから水が流れ、左腕から入って右腕から流れていって全身ずぶ濡れとなった。緊張する場面ではトップを確保する間は手が離せず、小便も垂れ流しにていた事も良く覚えている。意地でもトップを続けるべきだったと後悔しているが、その当時はまだまだ未熟でのんびりタイプの新人。後で、中途半端な山行は一生の後悔を残すと知った次第です。   

  
    南壁をバックに            核心部上部までのルート工作

1977年1月  坂野 土居

1976年7月に開拓したダイレクトルートの冬季登攀を目指し、赤い大ハングを越えて下部岩壁を登り切ったが、結局上部ルートは手付かずのままの敗退。大ハングでは2mにも及ぶツララをたたき落しながら越えたのが印象的だった。まだまだ実力不足でクライミングへの強い意志もなく、その後このルートを試みようとする闘志もあまり沸かなかった。
この時、中央ルンゼに取り付いた仙台RCCパーティー(鈴木氏ら)がワンプッシュで完登し、冬季第4登を果たして明暗を分けた。この頃から関心事は何となくヒマラヤへ。

 
 赤い大ハングをリードする       雪にべったりと覆われた黒伏山南壁

1993年12月30日~1994年1月3日   遠藤 遊佐 大石 坂野

冬季のダイレクトルートに遠藤さんと同行させてもらい、4ビバーク5日間を費やしてようやく完登。自分の出番は無かったが、ようやくこのルートにけじめが付いた様でそれなりには満足。これが最後のクライミングとなり、その後この世界に戻る事はなくなった。

 
     風の踊り場付近で遠藤さんと共に            核心部へ至る雪壁


黒伏山南壁ダイレクトルート冬季初登攀 

平成41230日~平成513日

 

コメント (2)
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