夏になると山から遠ざかってしまい、何処かストレスの発散場所も無い鬱陶しい日々が続く。毎年の事なのですっかり諦めてはいるが、今頃になると気になるのが飯豊・朝日連峰などの遡行情報で、今年の天候・雪渓の状態ではどんな成果が上がったのか?何処の沢にどのパーティーが入ったのか?このエリアを狙いそうな沢専の会のサイトを覗くのが小さな楽しみでもある。
ところで、前から少し気になっていたのが「釣り師」と「沢屋」の関係で、この呼び方にどういう意味が有るのか興味があった。「釣り師」と似た言葉に「釣り屋」という言い方をする場合も有るが、「釣り師」自身は一般的に自分を「釣り屋」とは呼ばない様だ。
また、逆に「沢屋」(沢登り愛好者)と呼ぶが、「沢師」と言う言葉は無く、殆どの人は自身を「沢屋」と呼んでおり、十羽一絡げで「山屋」と自称している人もいる。
この「釣り師」には何か尊大な意味が有りそうに思えるが、同じフィールドで遊んでいる「沢屋」からすれば少し違和感を感じるのは私だけか?おそらく「沢屋」「山屋」とは謙遜を込めた自称であり、例えば山登りをする人が自身を「登山家」とは言わない様な意味合いがある。「登山家」となれば小西政継・山田昇・ラインハルト・メスナーのような伝説の人物、または著名なプロ登山家をイメージする様に、我々「山屋」レベルとは隔絶の感がある。少なくても自分の周りには「登山家」などと称される人々は皆無だ。つまり、「おれは山屋だ、文句あっか?」で良いのである。
私は思うのだが、同じフィールドで遊ぶ者として釣りをする人々は「釣り屋」または「釣り人」と呼んだ方が良く似合う。その目的・価値観は違っていても同じ渓を活動の舞台とする者であり、同じ様に社会的な貢献度の低い(殆ど皆無だが)趣味の世界で生きる人々である。
また、この「釣り屋」という呼び方にはまた別の意味がある。この「釣り屋」という言葉を使うのは「沢屋」の方で、釣りをする人々に対する多少侮蔑的なニュアンスが含まれているからだ。
「あいつらは沢をゴミだらけにして後始末をしない」、「あいつらは岩魚を乱獲し、モノを取る事しか眼中に無い」。この2つが昔からの最大の対立点であり、「沢屋」から見ると全ての釣りをする人々にそれを当てはめてしまいがちである。
確かに日帰りで楽しめる様な人気の釣り場はゴミに溢れ、解禁当初には一番乗りで山奥のポイントにたどり着き、まだ深い雪に覆われた深い釜の中からサビてやせ細った岩魚を釣り上げ、毎年お土産と称してごっそり持ち帰る懲りない面々もいる様だ。
持ち帰って鮮度が落ちた岩魚を食べる位なら、スーパーで買ったカツオ、サンマの方が旨いし、元々少ない川虫・昆虫果ては蛇・ネズミ等の悪食の魚と、エビ、カニなどの豊富な餌で育った海の魚とでは雲泥の差がある。
しかし、自分では釣った岩魚を現場で食する事に抵抗感は無く、むしろ釣った岩魚を美味しくかつ無駄なく頂くという事に徹し、岩魚は現場で食する分だけの殺生に留める事にしている。こういったスタイルは今や山釣りを専門とする釣り人の殆ど共通のマナーであり、確固としたマナーと遊びのスタイルが確立した人々の共通の「啓蒙」に追うところが大きい。それは困難な遡行を終えてビバークサイトでようやく竿を出し、今夜の僅かな酒の肴を求める「沢屋」の気持ちも同類だろう。
ただ、「沢屋」には伝統的というか根底的な意識として、「沢屋」には同じフィールドで遊ぶ者として一つランクが上だという意識が透けて見える。魚止めの滝から先に興味の無い「釣り人」とは異なり、その先の困難な滝の直登やゴルジュの突破・高巻に最大の価値観を持つ点で、そういう意識を持つ理由にも道理がある。
しかし、元々釣りと沢登りでランクの上下などは有る筈も無く、比べる基準そのものが存在しない。
そういう意味で一部の釣り人を見て全ての釣り人を十派一絡げにし、未だに「釣り屋」と蔑称してしまう「沢屋」の意識も低いとも言える。釣りの解禁時頃だけ岩魚釣りを行い、鮎釣りからヘラぶな釣りなどがメインの日帰り「パートターマー渓流釣り師」等とは異なり、マナーに厳しい組織された山釣りグループも少なくない事も知るべきである。
ところで、前から少し気になっていたのが「釣り師」と「沢屋」の関係で、この呼び方にどういう意味が有るのか興味があった。「釣り師」と似た言葉に「釣り屋」という言い方をする場合も有るが、「釣り師」自身は一般的に自分を「釣り屋」とは呼ばない様だ。
また、逆に「沢屋」(沢登り愛好者)と呼ぶが、「沢師」と言う言葉は無く、殆どの人は自身を「沢屋」と呼んでおり、十羽一絡げで「山屋」と自称している人もいる。
この「釣り師」には何か尊大な意味が有りそうに思えるが、同じフィールドで遊んでいる「沢屋」からすれば少し違和感を感じるのは私だけか?おそらく「沢屋」「山屋」とは謙遜を込めた自称であり、例えば山登りをする人が自身を「登山家」とは言わない様な意味合いがある。「登山家」となれば小西政継・山田昇・ラインハルト・メスナーのような伝説の人物、または著名なプロ登山家をイメージする様に、我々「山屋」レベルとは隔絶の感がある。少なくても自分の周りには「登山家」などと称される人々は皆無だ。つまり、「おれは山屋だ、文句あっか?」で良いのである。
私は思うのだが、同じフィールドで遊ぶ者として釣りをする人々は「釣り屋」または「釣り人」と呼んだ方が良く似合う。その目的・価値観は違っていても同じ渓を活動の舞台とする者であり、同じ様に社会的な貢献度の低い(殆ど皆無だが)趣味の世界で生きる人々である。
また、この「釣り屋」という呼び方にはまた別の意味がある。この「釣り屋」という言葉を使うのは「沢屋」の方で、釣りをする人々に対する多少侮蔑的なニュアンスが含まれているからだ。
「あいつらは沢をゴミだらけにして後始末をしない」、「あいつらは岩魚を乱獲し、モノを取る事しか眼中に無い」。この2つが昔からの最大の対立点であり、「沢屋」から見ると全ての釣りをする人々にそれを当てはめてしまいがちである。
確かに日帰りで楽しめる様な人気の釣り場はゴミに溢れ、解禁当初には一番乗りで山奥のポイントにたどり着き、まだ深い雪に覆われた深い釜の中からサビてやせ細った岩魚を釣り上げ、毎年お土産と称してごっそり持ち帰る懲りない面々もいる様だ。
持ち帰って鮮度が落ちた岩魚を食べる位なら、スーパーで買ったカツオ、サンマの方が旨いし、元々少ない川虫・昆虫果ては蛇・ネズミ等の悪食の魚と、エビ、カニなどの豊富な餌で育った海の魚とでは雲泥の差がある。
しかし、自分では釣った岩魚を現場で食する事に抵抗感は無く、むしろ釣った岩魚を美味しくかつ無駄なく頂くという事に徹し、岩魚は現場で食する分だけの殺生に留める事にしている。こういったスタイルは今や山釣りを専門とする釣り人の殆ど共通のマナーであり、確固としたマナーと遊びのスタイルが確立した人々の共通の「啓蒙」に追うところが大きい。それは困難な遡行を終えてビバークサイトでようやく竿を出し、今夜の僅かな酒の肴を求める「沢屋」の気持ちも同類だろう。
ただ、「沢屋」には伝統的というか根底的な意識として、「沢屋」には同じフィールドで遊ぶ者として一つランクが上だという意識が透けて見える。魚止めの滝から先に興味の無い「釣り人」とは異なり、その先の困難な滝の直登やゴルジュの突破・高巻に最大の価値観を持つ点で、そういう意識を持つ理由にも道理がある。
しかし、元々釣りと沢登りでランクの上下などは有る筈も無く、比べる基準そのものが存在しない。
そういう意味で一部の釣り人を見て全ての釣り人を十派一絡げにし、未だに「釣り屋」と蔑称してしまう「沢屋」の意識も低いとも言える。釣りの解禁時頃だけ岩魚釣りを行い、鮎釣りからヘラぶな釣りなどがメインの日帰り「パートターマー渓流釣り師」等とは異なり、マナーに厳しい組織された山釣りグループも少なくない事も知るべきである。