雨宮家の歴史 17 「落葉松 第2部 生い立ちの記 Ⅰー15 谷島屋別荘」
(十七) 家人のいねしわが家に帰り来て
月仰ぎつつ葡萄酒を飲む
( 昭和八年 )
父の帰ってくるのはおそかった。夜半ふと目覚めて明かりのついている居間( 私たちの寝ている部屋と居間の境は木製の格子戸で、上の方から見えた )では、母がまだ縫物をしていた。店主の奥様の着物を仕立てていたのである。その仕立代を家計の足しにしていたのであろう。
『 少年倶楽部 』は毎月発売されると、父が必ず買ってきて、朝目がさめると枕元に置いてあった。
「のらくろ」「冒険ダン吉」の漫画から、江戸川乱歩の「怪人二十面相」、佐藤紅録の「ああ玉杯に花受けて」、山中峯太郎の「敵中横断三百里」などを覚えている。組立て付録がまた毎号楽しみで、「エムパイア・ステートビル」など忘れ難い。「のらくろの歌」を備忘のため記して置く。
1 黒いからだに 大きな眼
陽気に元気に 生き生きと
少年倶楽部の「のらくろ」は
いつも皆を 笑わせる
2 もとは宿なし のら犬も
今では猛犬連隊で
音に聞こえた 人気者
笑いの手柄 数知れず (以下略)
これを「勇敢なる水兵」(煙も見えず雲も無く)の節で歌った。
夏休みには父は八月の二回の公休日に、弁天島へ連れていってくれた。駅前の白砂亭を利用するのが恒例であった。白砂亭は谷島屋と関係があったから、父は歌会をよく白砂亭で開いていた。
ウオッと浜名湖の今切口の方から来る熱気にさそわれて、渡船で対岸の州に渡り、貝を取るのが楽しかった。ある時は、皆で潮の引いた砂の上を今切口までいって、遠州灘の彼方を望み日の傾く頃、涼しくなった湖面を引き揚げた。帰りには浜松駅からタクシーに乗るのもうれしかった。たしか折り畳み式の椅子が着いていた様に思う。子供たちはそれに腰掛けた。アッという間に暑い夏の一日は終わってしまった。
父の勤め先の売店のある高工へも自由に出入りして遊んだ。運動場では、あの頃蹴球といわれたサツカー大会などが、よく行われていた。正門は、今の市立高校の正門と同じ所にあったが、西部公民館のある西側に通用門があり、自動車の車庫があった。中二階が住まいになっていて、そこに親戚の鈴木林太郎一家が住んでいた。よく家で揚げたてんぷらなどを届けにいかされたものである。
林太郎氏は庶務課に属し、車の運転をしていた。一家は、昭和十四年安達校長の旅順工科大学学長への栄転に伴い、渡満した。林太郎氏は終戦直前に、在満邦人の根こそぎ動員に召集されて、行方不明となり、昭和二十二年、一家は主人を除いて引揚げてきたが、長女の千鶴ちゃんの姿は見えなかった。千鶴ちゃんは付属から西遠高女へ進学し、旅順高へ転学した。出発する時、浜松駅のプラットフォームで見送ったのが最後となってしまった。
この高工の創立記念日に父に連れられて、まだ実験段階中だった高柳健次郎先生のテレビを見た。昔の電蓄ぐらいの大きさの器具の上の方に、小さな画面があって、ハモニカを吹いているものであった。昭和二年、最初に写った「イ」の字を刻んだ記念碑が、テレビ発祥の地として西部公民館前に建っている。
別荘の本宅は空いていたので、横光吉規市長や、寺本熊市飛行学校長が借りて住んでいた。横光市長のことは余り覚えていないが、寺本大佐が出征の折り、送別会が開かれ、玄関前で「寺本閣下万歳!」と将校たちに胴あげされているのを見た。彼は最初満州へ渡ったが、昭和十八年七月、第四航空軍司令官(中将)として二ューギニア方面に進出した。しかし、ソロモン海域の航空消耗戦で敗退し、敗戦時には、陸軍航空本部長として東京にいたが、戦後自決した。今でも彼の温顔を忘れることが出来ない。
飛行学校といえば、あの飛行連隊の爆発事故も忘れられない。昭和八年六月七日というから、ちょうど別荘内へ引越してきた年のことである。夜八時四十五分と九時の二回の爆発だったから、まだ寝ついたばかりの頃である。
座敷に祖母を中心に集まって、不安の夜を明かした。父は店に情報を聞きに出かけたか姿が見えず、女子供ばかりであった。『はままつ百話』によると、その日、貨車で浜松駅に届いた爆弾を、荷馬車で姫街道を飛行連隊まで運び、火薬庫に入れきれなかった爆弾を、滑走路の横に置いたという。それらに何か衝撃が加ったのであろう。
今の有楽街の北の入口の丁字路にあった笠井屋呉服店の二階のガラス窓は、中沢町から池町への一本道を、一直線に進んだ爆風のために、ふっ飛んでしまったそうである。爆発の真相は、軍事優先のため発表されず、不明のままであった。
阿川弘之の『暗い波濤』の中に、大和田(おおわだ)海軍通信隊の教育で、教官が言ったと、次のように書かれている。
「数年前、浜松の火薬庫が大爆発を起こしたことがあったのを、お前たちは記憶していると思うが、その時、爆発音は大阪では聞こえなかった。ところが大阪から直線距離で二百五十キロ西の広島でこれを聞いた人が大勢いる。之は地上を伝わる、音波が大阪に達する前に衰弱してしまったのに対し、上空へ拡がった音波が、オゾン層で反射され、大阪・神戸を素通りして、山型を描いて広島で地上に戻ったためである。これをスキップ効果という。」
スキップとは「かわるがわる片足で、軽く飛びはねながら行くこと」である。
阿川氏は広島の出身で、東京大学文学部を繰り上げ卒業して、海軍へ入隊し予備学生となり、通信業務に携わったから、『暗い波濤』が小説とはいえ、事実を描いたものとすれば、驚く他はない。
( → 「Ⅰ-16 浜松工業学校」へ続く )