雨宮家の歴史 29 雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 第3部 在鮮記 1-28 復員引き揚げ」
「二九ヒ ハカタタツ セツ」というウナ電(編注①)が、疎開していた浜名郡北浜村高畑(たかばたけ)の山田堅一さん方のわが家(六畳一間の別棟)に入ったのは昭和二十一年四月三十日の夕方であった。
山田さんは、私の祖母の弟の養家先である。高畑へ疎開したことは、釜山へ移動する前のまだ裡里に在留中に、父の葉書で知った。ウナ電でも、まる一日かかっているが、博多を発つ時、電報が打てると聞いて、半信半疑ながら、着けば幸いと打ったものである。私は復員者でもあり、引揚者でもあったから、二枚の証明書を持っていた。
電報の着いた三十日の夕方、私たちの乗った引揚列車は、まだ一面焼け野原でプラットフォームだけの広島を通り、大阪辺りを走っていた。この列車は名古屋止りで、東京行きに乗り換えねばならなかった。深夜であったが、海外同胞救出学生同盟の学生たちから、温かい湯茶の接待を受けたことには今でも感謝している。東京行きに乗り換えたが、相変わらず超満員である。
浜松駅へ着いた時、まだ夜は明けていなかった。明るくなってから、新町の焼け跡を見に行こうと思っていたが、汽車を降りた時から、どこから現われたか、私にまといついて荷物を持とうとする少年がいた。引き揚げが延びるにつれて荷物もだんだん増えて、毛布で作ったリュックは一杯で、気力で持って来たが、着いた途端動けなくなってしまった。こんなに沢山の荷物を持った復員者は見たことがないと言われた程であった。
少年に手伝わせて改札を出て、当座の必要品以外は一時預け所に預けた。明るくなって、私は必要品を少年に預けて待っているように言って焼け跡を見に出かけた。歩いて十分もかからない。帰って来たら、少年は身の回りの必要品と共に消えていた。うかつであった。純毛の戦用毛布がその中にあった。内地の事情にうとい大陸ボケであった。私は丁重に迎えられたことになる。
東田町の駅から西鹿島行きの電車に乗った。電車はここが始発駅になっていが、奥山行きの軽便電車もここから出ていた。懐かしい母校の浜工の生徒たちの中に、ひときわ背の高い建築科の科長先生を見つけた。浜工は三方原の飛行連隊跡に移っていたようである。
「五月一日雨。節三迎エノタメ菊、照両名朝食前ニキブネ迄行キシモ来ラズ、帰宅朝食後、間モナク節三雨中ヲ真黒にニナリテ無事復員ス」(父の日記より)
私は覚えがないが、この日は雨だったようである。なつかしいわが家を目前にして、雨のことなんかふっ飛んでいたのかも知れない。「菊、照」は弟で菊男・照男のことである。
午後、浜松駅に預けた荷物を運ぶため、天秤棒を持って弟二人で電車で出かけた。二人の弟に天秤棒にぶらさげた荷物を担がせて、雨中を貴布祢駅(現在は浜北駅)から高畑までズブ濡れになって帰った。三十分位くらい歩いた。荷物の後始末に家族一同大騒ぎであった。
菊男は前年(二十年)の九月に浜松工専(後の静大工学部)の電気科を繰り上げ卒業し、東京新橋駅の出札主任だった疎開先の山田さんの弟の紹介で、国鉄東京鉄道管理局を受験して合格し、電気部に勤務していた。ちょうど帰郷していて、私の電報が入ったので帰京を延ばしていた。編上げ靴・地下足袋・衣類などを得て、夜行で帰京していった。
荷物には牛缶や煮豆などの缶詰十個、軍用シャツ・ズボン下・編上げ靴・地下足袋など(途中でどのくらい置いてきたか分からないが)持てるだけ持って来た。防寒靴だけは用をなさなかった。
私は二日間ほど、グウグウ眠って疲れを取った。
新町の焼け跡を見に行った時、戦前の住まいの道路をへだてた南向かいにバラック住宅が出来かかっていたが、それが戦後の再建第一歩のわが家であった。先日、戦時中に米軍の落とした二百五十㌔の不発爆弾が、工事中に発見されて処理されたが、そこは私たちの家の隣の福井さんという靴の卸商の土地である。そんな処に何十年も知らずに住んでいたことになる。
引き揚げて腰を押しつける間もなく、五月十二日、その新町九十一番地へ引っ越した。当時、二千六百円のバラック住宅であった。馬車が荷物を運んだ。その夜は、まだ電気もつかず、早めの夕食をすませて床についたが、バラックでも自分の家が持てたということは、父が東奔西走した賜物であった。
引っ越しの日も雨が降った。
編注①「ウナ電」 至急電報。英語の「urgent」の最初の二文字がモールス符号で「ウ」「ナ」に相当するため、こう呼ばれた。一九七六年廃止