雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 6月9日(月)の9 午後8時45分、次女が「お父さん!蛾がいる!」と支援警報

2014年06月09日 20時34分26秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月9日(月)の9 午後8時45分、次女が「お父さん!蛾がいる!」と、SOS

 2階でパソコンを打っていたら、1階の居間から「お父さん、来て」と悲鳴があがったので、何事かと行ってみたら、たんなる蛾でした。

 窓を全部開け放って、10分くらい、ほうきや棒で、なんとか蛾を追い出すべく、格闘して、窓の外に追い出しました。

 次女のアイさんに「どうして、蛾やゴキブリがダメなの?北海道女でもないのに」とからかいました。

 長女も次女も、則子さんが保母や園長をしていた、自然や生き物と親しく接する「たんぽぽ保育」を6年間体験して、自然や生き物は大好きのはずで、いまでも、たぶん、カエルヤザリガニは平気でつかめると思うけど、どうして蛾やゴキブリはだめなのでしょうか?

 「ゴキブリは、古生代から2億年以上生きてきた、ぼくたちの先輩なんだよ」と言ったら

 「先輩でも何でも、いや」と言いました。

 昼間のチョウチョは美しいけど、夜の「蛾」は、どうしてだめなんでしょうか?

 じゃあ「夜の蝶」はどうかな?

 


雨宮日記 6月9日(月)の8 内田樹さんの評論から、おとなと子ども

2014年06月09日 19時32分33秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月9日(月)の8 内田樹さんの評論から、おとなと子ども

 いま、以前に紹介した 本と映像の森  267 内田樹『邪悪なものの鎮め方』<文春文庫>、2014年 2014年01月13日 22時20分43秒 | 本と映像の森

 を読んでいて、「大人と子ども」の部分を読んだ。

 おとなとは何か、子どもとは何か。子どもとはシステムの不具合に遭遇した時に「責任者出てこい」と叫ぶだけの「被害者意識」。大人とは「そういう責任を負う仕事、ぼく、やってもいいです:と言い出せる人。

 では、「浜岡原発永久停止裁判」の事務局に入っている雨宮智彦と雨宮則子さんは「子どもなのか?」「いえいえ、それは違います」(メロディーをつけて)。

 つまり、ぼくたちは「責任者追求」ではないのです。「ぼくたちが責任を負います」というのが、この裁判なのです。「責任を負う」ことの1つであって、裁判がすべてではありません。

 自分たちが、みんなが責任を負う社会を作れなければ、同じ事が、何度でも、いやというほど、地獄のように繰り返されます。

 永劫回帰ですね。

 そのことが、「左翼」とされる部分でアレ、「保守」とされる部分であれ、「右翼」とされる部分でアレ、それぞれ2つに分けられるというのは、3つの部分それぞれとも、自覚されていない場合が大多数だと思う。

 それぞれの「左翼」「革新」「保守」「右翼」の異質性より、それぞれの部分を横断して共通する部分があり、つまり「左翼1」と「左翼2」より「左翼2」と「右翼2」の方が、共通性で近い場合もあるということです。

 うわ、とんでもないことを書いたな。でも、これは理論ではなくて実感です。

 もちろん、それは数年違えば、いろんなことが違います。状況によって一変します。たとえば、「ゴーマニズム」さんも、かなりぼくたちと接近してきましたね。反アベという角度で。「最初期ゴーマニズム」が好きだった雨宮としては喜ばしいです。初期の著書は買って、共感して読んでました。

  ☆

 内田さんの論理では、子どもが「ここ、変だよ」と叫ぶのはだいじですが、いくら叫んでも、具体的に故障個所をどう直すかはおとなの役目です。

 同じような思想が一色さんのコミック『日本沈没』で、行動できる子どもたちの姿で語られていました。どのシーンか、わかりますよね。

 あの難民たちを遅う大地滑りのあと、「助けてあげる」というのでなく、子ども2人が「だいじょうぶですか?」「どこか痛いですか?」と呼びかけ始める姿に、大人立ちも行動し始めるあのシーンです。

 「ぼくでよければやります」「みんなが私でいいというなら、やります」というのがボクと則子さんで苦労して確立した流儀でした。

 それで、① 則子さんは、たんぽぽ保育園の園長になり、② 平行して浜松労災裁判の事務局長になり、③ 浜松市原水協の事務局長になり(それは今年まで続きました)、さらに、①②ガ終わってから、スズキ小松労災申請の事務局長になり‥‥というような生活をボクを家庭内秘書・参謀・事務局にして、35年間続けてきました。いや、続いてきましたか、か。

 でも、逆に言うと、簡単に、やめたものも、いっぱいあります。則子さんにとっての、2つのブラック企業。小松労災。雨宮夫妻とYさんの関係。平和委員会。浜北里山。

 つまり、続けるところと、すぐやめるところの使い分け、どっちを選ぶかという感覚が、とてもだいじです。

 選択するときの基準は、論理「真理かどうか」だけではなく、「真善美楽」、「正しいか」「良いか」「「美しいか」「楽しいか」という感覚も含めた総合的な基準です。

 きみはどっちがしたいの?

 つまり、ナチスドイツの強制収容所から「君はそこから逃げたいの?」「君はそこにとどまって闘いたいの?」。好きな方を選べばいいんだよ、と思います。概して革新的活動化の固定した方は「そこで闘え!逃げるのはひきょうだ!」となっちゃうので、困った君なんですよ。

 それは「真理:とは何の関係もない「固定観念」なんですが、そういうことを討議したことのない、あるいは討議できない人は理解できなくて、則子さんが「辞任」したときも、そういう闘う条件がなくなったので辞任したのに、「誤りだ、撤回せよ」と固執したんですよね。

 「私以外やれない」なんて絶対思いません。そう思い込むと、永久に、その人が死ぬまでの義務になっちゃいますね。そんな悲惨なことはないです。

 それと「勝つかどうかは、わからないけど、やってみようか」というのも、ボクときみのソフトな新しい流儀ですね。「勝利しなくてはならない」というのも固定観念ですね。

 長くなりました。これは、詳しくは雨宮夫妻の自伝『青い地球とオレンジの花』で語ります。

 

 


雨宮家の歴史 21 「『落葉松』 第2部 1-19 徴兵検査」

2014年06月09日 18時48分47秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史 21 「『落葉松』 第2部 1-19 徴兵検査」

 < 雨宮智彦の父・節三さんの自分史『落葉松』より転載 >

 明治六年一月十日、明治政府は徴兵令を発布した。そのため浜松県令・林厚徳は次のような兵卒検査概則を公布した。

「一、身体強壮ナル者 県下の医員ニテ一通リ検査ヲ受クベシ
 一、年令ハ二十歳以上三十歳以下タルヘシ  一、身ノ丈ケ曲尺ニテ五尺以上ノ者タルヘシ

 一、自家ノ産業ニ於テ故障ナキ者

 右ノ概則ニ依リ検査ノ上別表(兵卒誓文) ニ当リ結隊編束ノ事
明治六年三月」

  この概則の最後の項目に抜け道があり、官公吏・戸主と長男・代人料二百七十円の納入者など、対象者の約八割が兵役免除となり、貧しい農家の二、三男が徴兵された。さらに政府は「生き血を以て国に奉ずる血税」だと徴兵制を説明したので、労働力を奪われる農民は、各地で徴兵令反対の血税一揆を起こした。

  明治二十二年、大日本帝国憲法が発布され、その第二十条「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニヨリ兵役ノ義務ヲ有ス」と明記されて、兵役法が施行され「第一条 帝国臣民タル男子ハ本法ノ定ムル所ニヨリ兵役ニ服ス」とがんじがらめにされて、否応無く兵役の義務を負わされてしまった。

  二十歳(前年十二月一日よりその年十一月三十日までの間)になると、徴兵検査を受けねばならなかった。戦争の拡大に伴い、昭和十八年末に十九歳に引き下げられたので、昭和十九年の徴兵検査は二ヶ年にまたがった。検査は原則として本籍地であったが、寄留地(居住地)でも願いを出せば受けられた。私は本籍地で受けたが厄介であった。

  静岡県引佐郡麁玉村大平(おいだいら)六十番地。この本籍地は祖父卓二の養子先で、相続した中谷家のものだが実際には土地も家もなく、ただ役場の戸籍簿に記載されているに過ぎないし、私の全然知らない土地であった。村役場は宮口にあったのだろうが、記憶にはない。ただ、宿屋の二階から柿の木が見えたのを覚えているだけである。

  本検査は気賀の小学校で行われたから、宮口から気賀へ移り、気賀の旅館に泊まった。だから、本籍地の大平には行っていない。戦後も大分経ってから、子供たちを連れて森林公園へ行った時に、大平の土地を通ったのが初めてである。

  気賀の旅館では、同級生のAと同室だった。彼は新原の出身で、同じ麁玉村であるから、当日は麁玉村一村のみの検査だったように思う。検査官は連隊区司令官の大佐か中佐であったが、身長・体重を測るのは衛生下士官であった。私はその頃、体重が四十キロ前後で、やせてヒョロヒョロしていたので、体重を測った衛生伍長は「何か病気をしたのか?」と聞いた。「気管支炎をやったことがあります」と言ったら「そんなもんは病気ではない」と返事が返ってきた。

  その衛生伍長は変にいばりくさって、検査結果の判定が決まるまでの間を「今日の壮丁は元気がない」と全員を校庭に集めて体操を命じ、更に分列行進をやらせて我々をくさらせた。

  私の結果は「第三種乙」であった。Aも同じだったが、彼は現役の入隊より早く召集が来て、名古屋の部隊に入隊して行ってしまった。私は母校の助手だった関係か、お召(よ)びがなく、朝鮮へ行った途端、引っ張られたことは「第三部 在鮮記」に書く予定である。

  徴兵検査の判定には、次のような区分があった。
    甲種 身長一・五二米以上ニシテ身体強健ナル者
    乙種(第一) 身長一・五〇米以上ニシテ甲種ニ次グ強健ナル者
  以上の二つが現役入隊であった。
    乙種(第二) 身長一・五〇米以上ニシテ身体 第一乙種ニ次グ者ー第一補充兵である
    乙種(第三) 同ジク身体第二乙種ニ次グ者 ー第二補充兵で昭和十四年十一月に制定された
    丙種 身長一・五〇米以上ニシテ身体乙種ニ次グ者及身長一・四五米以上、一・五〇米未満ニシテ丁種及戊種ニ該当セザル者 ー国民兵役ニ適スルモ現役ニ適セズ。
 丁種 身長一・四五米未満ニシテ身体精神ニ特別ノ異常アル者 ー兵役ニ適セズ。
 戊種 疾病中又ハ病後ソノ他ノ事由ニヨリ甲種又ハ乙種ト判定シ難キモ翌年ハ甲種又ハ乙種ニ合格ノ見込ミアル者。 ーいわゆる翌年廻しと言われ、もう一度検査ヲ受けねばならなかった。

  尚、学校在学者は二十六歳まで徴兵延期が出来た。しかし、これも昭和十八年、文科系は廃止されて、学徒出陣となった


雨宮家の新しい物 新しいプリンター HP社のプリンターに変えました

2014年06月09日 18時31分50秒 | 雨宮家の物

雨宮家の新しい物 新しいプリンター HP(ヒューレット・パッカード)社のプリンターに変えました

 大蔵省から特別臨時予算1万円が出たので、高林のコジマ(前は「電化のコジマ」と言っていたような‥)に買いに行きました。事前に電話したらプリンターを買えば古いプリンターは引き取ってくれるというので、古いプリンターは車に積んで行きました。

 プリンターを見ていると、、店員さんが「プリンターをお探しですか」というので「文字だけの機能でいいんです」というと、「それなら、これがお勧めです」と言ったプリンター約7000円を即決で買いました。

 高性能な多機能はいりません。

 


雨宮日記 6月9日(月)の4 遅植えの田んぼに稲が植わっていました

2014年06月09日 18時26分32秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月9日(月)の4 遅植えの田んぼに稲が植わっていました。道理で数日前、カエルの声が聞こえました。

 曳馬3丁目のセブンイレブン裏は、近所ではもうほとんどない田んぼなので、アマガエルたちに貴重な水場、つまりアマガエルが生きていける唯一の環境を提供しています。

 今年も、アマガエルたちが集まって、合唱‥はしてないか、それぞれのオスが、それぞれにメスを呼んでいるだけで。


雨宮家のもの 古いプリンターが壊れましたので、予算つけてください、大蔵省=財務省さま

2014年06月09日 18時23分23秒 | 雨宮家の物

雨宮家のもの 古いプリンターが壊れましたので、予算つけてください、大蔵省=財務省さま

 古いエプソンの、ときどきインクで紙を汚すプリンターがついに壊れたので、大蔵大臣に予算申請をしました。大蔵大臣さま、よろしくお願いします。

 


雨宮日記 6月9日(月)の1 朝一番で、診療所へ父のつきそいで行きました

2014年06月09日 18時08分34秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月9日(月)の1 朝一番で、診療所へ父のつきそいで行きました

 91才の父が月1回通っている佐藤町診療所へ、父を乗せて車と付き添いで行きました。佐藤町は民医連の診療所で、浜松にはは浜北に医療生協の北浜診療所があります。

 写真は、佐藤町の玄関と3階建ての建物。