雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 6月8日(日)の9 最近、則子さんと古墳や神社行ってませんね、行きたいな

2014年06月08日 20時35分40秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月8日(日)の9 最近、則子さんと古墳や神社行ってませんね、行きたいな

 いま、則子さんはパジャマに着替えて、則子さんのすごく魅力的なお布団の上で「はままつ石塔めぐり」というパンフを読んでいます。

 「いっしょに石塔見に行きたいね」「うん」

 

 

 


雨宮日記 6月8日(日)の8 「お鍋より則子さんをきれいにしたい」と言ったら‥

2014年06月08日 20時14分21秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月8日(日)の8 「お鍋より則子さんをきれいにしたい」と言ったら‥

 則子さんが「お鍋綺麗になったね」と言うので「きれいにするの、おもしろいよ」と返しました。

 「そう?じゃあ。おねがいね」と。

 ぼくが「物言わないお鍋より、ものいう則子さんをもっときれいんしたい」と接近したら「寝たいから。だめ」と断られました。残念。


本と映像の森 301 週刊雑誌『日本の神社 1~17』17冊一挙紹介!

2014年06月08日 18時49分23秒 | 本と映像の森

本と映像の森 301 週刊雑誌『日本の神社 1~17』17冊一挙紹介!

以前紹介した 古代史の本 発売が始まった『週刊 日本の神社』(全100巻?) 2014年03月08日 23時56分53秒 | 古代史の本 のその後です

 1 出雲大社

 2 伊勢神宮(内宮)

 3 熊野三山

 4 厳島神社

 5 日光東照宮・二荒山神社

 6 北野天満宮

 7 大神神社

 8 富士山本宮浅間神社

 9 伊勢神宮(外宮)

 10 春日大社

 11 出羽三山

 12 宗像大社

 13 上賀茂神社・下鴨神社

 14 太宰府天満宮

 15 金比羅宮

 16 伏見稲荷大社

 17 宇佐神宮

 どうやら、ほんとうに「日本百名山」、じゃなくて「日本百名神社」でそうで、うれしいです。時間はあるけど、金はないので、ほとんど行けませんが、文献で可能な限り、探査したいと思います。

 すみません。「一挙紹介」といいながら、、名前だけの紹介になりました。

 

 


雨宮日記 6月8日(日)の7 夕食の後でもいつでも1杯のコーヒー

2014年06月08日 18時34分47秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月8日(日)の7 夕食の後でもいつでも1杯のコーヒー

 いつでもコーヒー‥‥ただしめんどくさいので、インスタントです。「ガリレオ」の湯川准教授風に。 

 最近、豆のコーヒーを入れてませんね。名古屋市民生協にいたときに、同僚たちのなかの「3人組」の1人がコーヒー豆会社出身だったので、3人で土曜の夜に、本部の一角を借りて「土曜喫茶」というのを毎週1回やってました。それも、いつか「青い地球とオレンジの花」の中で語りたいと思います。

 

 


雨宮家の歴史 20 「『落葉松』 第2部  Ⅰー18 鮮満修学旅行」

2014年06月08日 17時59分57秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史 20 「『落葉松』 第2部  Ⅰー18 鮮満修学旅行」

  五年生の六月に恒例の、中等学校としては異例の鮮満修学旅行が実施された。その時の記録をスクラップ・ブックとして、私が作ったものを今見ることが出来るが、これを失わずに残しておいてくれた家人に深く感謝する。

  旅程順に、絵葉書・案内所・級友の写した写真・地図・スタンプなどと、私の感想を書いたものである。

  その巻頭言は「此度、我等は支那事変にて国を挙げて総力戦に費やしている時期に、非常体制下の朝鮮、満州を視察、修学旅行することが出来た。同じ大陸でも、隣国支那はあの状態であるが、満州は実に平和である。殊にハルビンでは。今年は北京まで延長出来ず、支那を見ることが出来れば申し分ないのであるが、惜しくも見学出来なかった。」(原文のまま)

  ハルビンで緊張感を見受けたのは、その時、ノモンハンで日ソが死闘を繰り返していて、防空演習がおこなわれていたからである。

  旅程は、六月八日から二十三日までの十六日間で、そのうち旅館泊りは七回(京城、奉天二回、ハルビン、新京、大連二回)、車中泊りは四回、船中泊りは四回であった。生徒一人あたりの旅費は七十三円十二銭であった。私が卒業して就職した県工業試験場の給料が月約三十五円であったから、その二ヶ月分に当たる。月謝と共に毎月分納していた。この他にみやげ代、小遣いが必要だったので、参加しない生徒もいた。私も父が商売をしていなければ、参加は無理だったと思う。

  浜松駅を午後五時の夜行列車で出発し、翌朝十時に宮島口駅に着く。日中を厳島神社参拝や周辺で鹿と遊んだりして広島へ戻り、山陽線を下関へ着いたのは夕方であった。

  関釜連絡船は「昌敬丸」で夜行便。三等船室は超満員で、ろくろく足を伸ばすことも出来ず、暑さにうだってしまった。疲れから眠ってしまい、ざわめきで眼をさました時、船は釜山港の桟橋に着いていた。(この釜山埠頭で、戦後、朝鮮軍の残務整理をすることになる)。

 釜山市内は、ちょうど中学生たちの登校時間帯で、内地と変わらない風景であった。ただ、白い朝鮮服を多く見かけたのは。やはり外地だと感じた。九時発の京城行き大陸列車に乗る。客車は広軌なので、ゆったりしていて、内地のはオモチャのように感じた。窓から見える山は禿山が多く、緑が少なかった。オンドルなどに使っていて、植林が追いつかないという乗務員の話であった。京城へは夜九時着、少し雨が降っていた。久しぶりに旅館で風呂に入り、和室にくつろいで疲れをいやし、雨の音を聞きながら眠りに入った。

  京城は、朝鮮半島の首都だけあって、大きなビルも多く、大都会であった。朝鮮神宮・南大門・総督府・景福宮などを廻わり、自由行動は,市電に乗って竜山まで行き、漢江の川岸で休んだ。ボートが沢山浮かんでいた。

  京城駅を夜の十一時に出発し、翌朝六時、平壌駅に着いた。通過駅であったが、ここは祖父卓二が日清戦争の折、従軍した場所であり(第一部5「日清戦争」),私も後年関係するようになるとは夢にも思わなかった。

  鴨緑江を渡ると満州の安東で、税関検査がある。驚いたことは、今までの白い服が赤や青の濃い色彩の服となり、煉瓦作りの家が多くなった。

  駅と駅の間は一望千里の曠野であった。奉天に着く前、曠野の果てに沈む真っ赤な赤い太陽を見た。私の生涯でこんな太陽との出会いは、たった一度の映像である。

  電光のまたたく奉天駅前に出た時、異臭に鼻がツウンとした。閉口したが、これが満州だと実感した。駅前で目につくのは、洋車(やんちやお)、馬車(まあちよ)である。余り、きれいとは言えない。十銭やれば充分というが、車夫も旅行者の足元を見て、更に十銭を要求する。こちらもえい面倒と結局出してしまうのである。五年生になって中国語を学んだが、奉天では通用しなかった。

  奉天には二泊して、露天掘りの撫順炭鉱と鞍山の昭和製鋼所を見学した。撫順の市街は石炭粉塵予防のために緑が多く、森の中にあるようであった。昭和製鋼所は戦争末期、中国成都基地から発進したB29に爆撃された。

  ハルビンでは防空演習をしていて、更に街は緊張していた。ここからチチハル・ハイラル・満州里とソ連国境に近づく。この時、ノモンハンでは日・満軍は圧倒的なソ連軍に敗退していたのである。白系ロシア人が住みついていて、教会や外人墓地が多かった。

  防空演習のサイレンの音を逃れるように、商松花江(スンガリー)に足を伸ばした。満州里へ向かう鉄橋の傍には、剣付き鉄砲を持った兵隊が見えたが、河岸には散歩を楽しむ白系露人や、中国服に身を包んだ満人が悠然と河を眺めていた。冬には河は凍結して、馬車で対岸へ渡れるそうである。

  私たちの旅はハルビンが最北端で、明日は一路南下して、満州国の首都新京に向かうことになる。ハルビンで、在満同級生から送られた青く「浜工」と染めぬいた白地の旗を持って、新京へ向かった。在満同級生は当時、奉天・新京・ハルビン・東満などに六十名程いた。

  新京は長春であるが、突如荒野の中に現われたような都市であった。駅前から一本、広い道が遙か南嶺まで通じ、満州の実質的支配者である関東軍総司令部の建物が、一際高くそびえていた。新京は道の印象しか残らなかった。戦後、新京は中共軍に包囲され、国共内戦の主戦場となった。奉天もそうであった。

 私たちの旅も,最後の大連・旅順へとまる一日かかって関東州へ入った。日露戦争の時の旅順攻防戦の戦跡めぐりである。白玉山・爾霊山(にれいざん)・東鶏冠山・二百三高地などを廻って、乃木将軍とステッセル将軍が会見した有名な水市師営で休憩のあと「庭に一本(ひともと)棗(なつめ)の木」と歌にある大きな棗の木と会見所をバックに、記念撮影をした。

 この旅順に工科大学があり、その学長として浜松高等工業学校の安達校長が赴任したのは、このあとの九月であった。親戚の鈴木林太郎氏一家も同行し、その後の消息については「第二部 15 谷島屋別荘」で書いた通りである。

 半月にわたる旅行もいよいよ最後となり、土産物でふくらんだ鞄を肩に、大阪商船の「うらる丸」に大連埠頭で乗り込んだのは六月二十日であった。「うらる丸」は六二〇〇トンで、一等六八名(五十五円)、二等一三〇名(三十七円)、三等五七〇名(十七円)であった。無論、我々は三等で雑魚寝(ざこね)である。

 この舟に三泊する航海だったが、二日目に低気圧に出会って、一日中何も食べずに寝ていた。門司に入港して、やっと一息入れることが出来た。瀬戸内海に入ると、昨日の荒海がうそのようである。翌朝、神戸に入港し、三の宮から列車で浜松へ帰った。土産を待ちわびている家人が目に浮かんだ。浜松の街はいつも変わりなかった。

 私の作った鮮満旅行のスクラップブックには後日談がある。平成十三年の秋、「鮮満旅行に関する資料提供について(お願い)」なる書面が浜工同窓会より届いた。それによると、
 「先日、東京大学から連絡があり、同窓会のホームページの『本校の歴史』を見て、東京大学人文社会研究科博士課程で『日本人の鮮満旅行の変遷』をテーマに,論文作成をするにあたり、浜工高の『鮮満旅行に関する資料』の閲覧及び提供のお願いがありました。当時としては非常にまれなことであり、貴重な資料になるそうです。同窓会としては、何らかのお役に立てればと出来る範囲での協力を引き受けました。つきましては、まことに申し訳ありませんが、ご協力をおねがいいたします。」というものであった。

 昭和六十年の創立七十周年記念写真帳に一頁にわたって私の鮮満旅行の写真と地図五点が、載った。ホームページの『本校の歴史』にこえれが入力されていたのであろう。東京大学へは、同窓会から適当に選んでコピーして送ったようである。六十年も経ってから、資料として活用されるようとは思ってもみなかったことである。

 尚、鮮満修学旅行は、時局の緊迫に伴い、私達の昭和十四年度を以てその幕を閉じた。 
 旅行が済めば、もう夏休みであり、決戦体制のその年から、五年生の授業は九月で終わり、就職組はそれぞれ各地に散って行った。私は身体の調子が悪かったので残留組に残り、翌十五年三月五日の卒業式を迎えた。卒業式に戻れない就職者もあった。私の卒業証書の番号は二五六号であった。本校第十九回の卒業だった。今でも「十九DW(染織)会」として、クラス会が続いている。 



雨宮日記 6月8日(日)の4 昼間の月。青のなかの白い半円

2014年06月08日 17時47分12秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月8日(日)の4 昼間の月。青のなかの白い半

 青空の中に、白い月がかかっています。

 もうじき、10日の夜には、月と土星が大接近します。

 下のアストロアーツのサイトで参照できます。双眼鏡があればおすすめ。

http://www.astroarts.co.jp/alacarte/2014/06/10/



雨宮家の物 古いファックス電話でサンヨーという企業はもうない

2014年06月08日 17時41分08秒 | 雨宮家の物

雨宮家の物 古いファックス電話でサンヨーという企業はもうない

 インクリボンがなくなったので、電化の小島に行ったら、サンヨーはもうなくてパナソニックが参与ーっ用のインクリボンを生産しています、と言われました。

 かなり古くて、ガタガタキイキイいいながら、紙を吐き出してます。そろそろ、これも寿命か?

 


雨宮日記 6月8日(日)の1 深夜、なんとキリギリスが鳴いてました

2014年06月08日 04時24分19秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月8日(日)の1 深夜、なんとキリギリスが鳴いてました

 日曜日の早朝は、共産党の日刊「しんぶん赤旗」を、自分の所属する地域支部(上島小学校区)の範囲内で車で配達するので、夜は「飲みません」「飲めません」

 名古屋からトラック便で、西部地区委員会へ「しんぶん赤旗」が来るのですが、それを各区のポストへ届けてくれるころに、ぼくは、自宅から中区のポストへ車で向かいます。

 自分のコース分の部数を数えて、配達に行きます。なお、これはボランティアで、仕事ではありません。ガソリン代程度の「ボランテイア料」しか出ません。それで満足です。世の中をよくするためのボランテイアですから。

  ☆

 いま、あちこちで、水場のあるところは、アマガエルが鳴いています。

 上島3丁目では、なんと、キリギリスが鳴いていました。何日間か、夏みたいに暑かったので、勘違いして、早く出て来たんでしょうね。

 写真は、白いカンナの花。


雨宮日記 6月7日(土)のラスト 浜松は早く雨が止みましたが、関東は凄い豪雨です

2014年06月08日 04時09分48秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月7日(土)のラスト 浜松は早く雨が止みましたが、関東は凄い豪雨です

 関東は、通常の梅雨(つゆ)全体分の雨が、この3日間くらいで降る、とんでもない豪雨でした。3日間で30センチとか40センチとか。テレビ・ラジオでは「350ミリ」「420ミリ」って言うんだけど、「35センチ」の方が絶対的にリアル感があると思います。

 リアルに感じられる方の単位を使うべきです。

 この単位の問題では、今だに、マスコミは「1000ミリシーベルト」と感覚的にピンとこない単位に固執して「1シーベルト」とは、絶対に言いません。

 分かりやすい方が、正しいです。

 分かりにくい単位に固執するのは、論理的にも、感覚的にも、破綻している態度だと思います。

 やはり、人間の全体的社会的コントロールの利かない無計画的生産が、自然を狂わせているんだと思います。マルクスさん・エンゲルスさんの理論通りですね、怖いくらい。

 写真は梅雨の花、あじさい。

 

 

 


雨宮家の歴史 19 「第2部 1-17 林泉書房」

2014年06月08日 04時04分22秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史 19 「第2部 Ⅰ 17 林泉書房」

(十九) 店やめて独立せんと思へども 蓄えは大方使いはたしぬ
                           ( 昭和十三年 )

  私はこの歌を詠む度に、啄木の「はたらけどはたらけど 猶わがくらし楽にならざり ぢっと手を見る」を思い出す。兄弟二人の学費で、給料だけではやって行けなくなったので、古本屋で自立しようと思ったのである。

  最後の浜松城主、井上河内守正直が命名した最初の谷島屋の別名「博文舎」と名付けて、北隣の山口菓子店を買収して、谷島屋が古本部を設けた時、父がその主任となった。

  私が学校の帰りに寄ると、必ず甘い菓子がとってあった。父は無類の甘党で、御飯に汁粉をかけて食べる程であった。煙草や酒を少し嗜(たしな)むようになったのは、配給制になってからである。

  古本の売買には、古物商の鑑札がなければ出来ない。それに新刊書と違って、古本の目利きには長年の修行が必要である。父は谷島屋を一時やめた湯島天神町時代に、神田の古書市会に出入りし、本郷の棚沢書店に古本売買の手ほどきを受けた(第1部7「谷島屋書店」参照)ので、この時の経験を買われたのであろう。

  しかし、そうそう儲かる訳でもないので、昭和十三年、連尺町も通りが拡張されることになり、店も改築されて古本部は廃止された。この期に、父も独立することを考えたのである。

  蓄えは使い果たしたというが、資金の目途はついていたのであろう。下町の東海道筋の新町に、間口一間半、奥行き三間の店と、住宅付き二階建ての細長い借家を見つけて開業した。空襲で焼けるまで、ここで営業した。大家は隣のK商店で、小巾織の卸商であった。

  屋号の「林泉書房」の「林泉」は短歌の師であった篠原の医師柳本城西氏(第1部8「アララギ」参照)が名付け親だった。

  同じアララギ派の歌人、中村憲吉の歌集『軽雷集』の中の桂離宮を訪ねた時の歌 

   「林泉(しま)のうちはひろくしづけり翡翠が 水ぎわの石に下りて啼けども」

  の「林泉」或いは憲吉の第二歌集『林泉集』より採ったという。

  この年、国家総動員法が公布され、人的、物的資源の統制が始まった。綿製品や革・ゴムが統制され、私たちが入学した時は何でもなかった征服などの新調が禁じられてスフ(編注①)となり、靴も下駄ばきが奨励された。

  国は更に、人の心にまで入ってきて、国民精神総動員なるものも決めた。「欲しがりません勝つまでは」の標語で、国民は何一つ新しい物を手に入れることが出来なかった。尤もこの標語には後日物語があった。実際の作者は、小学生の女の子ではなく父親であった。

  また隣組制度によって、国民はその身をがんじがらめに縛りつけられて、自由を束縛された。その反面、「闇」が横行し、ある所には物があった。

  国民の生活が窮屈になり、娯楽面でもいろいろ制限されてきたが、本は割合によかったので、娯楽に飢えた国民には手ごろなものとなった。尤も製作面では紙の統制などで困ったが。

  林泉書房は小さな店であったが、割合順調にいったようである。同じ東海道筋の隣り町の板屋町に、泰光堂書店があったが、戦後の今も古本屋として続いているのは、この泰光堂と池町の典昭堂の二店のみである。

  浜工に入学した昭和十年はまだ平和だったが、十一年の二・二六事件のことは余り知らなかった。翌十二年七月、盧溝橋より日中戦争が本格的となり、毎日の新聞に載る日本軍の進撃地図に、日の丸をつけていた私は,今思うと、もっと物事の本質(表裏)を見極めなければいけなかったと反省している。

  五年生になると、支那語(中国語)が正課となり、英語と選択制となった。私は支那語を半年間やったが上達せず、ちんぷんかんぷんであった。

 (編注①)「スフ」 ステープル・ファイバー  の略。木綿の代用品の粗悪な人造繊維

 

 


雨宮日記 6月7日(土)の10 則子さんと久しぶりの散歩で出会った恐竜

2014年06月08日 03時47分37秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月7日(土)の10 則子さんと久しぶりの散歩で出会った恐竜

 夕方、食事のあと、則子さんと久しぶりの散歩をしたら、西の夕焼け雲が、まるで恐竜のように、ティラノザウルスの頭のように見えました。

 いま、ちょうど図書館で借りてきた、恐竜発掘をテーマにしたSF小説、川端裕人著『竜とわれらの時代』を読んでいたので、その影響もありますね。

 でも、似てるでしょ?いや、ちょっと長すぎるか?恐竜より前に栄えた巨大なワニ類かな?